私たちは、どうしても誰かと衝突をするとか、意見がぶつかり合うとか、言い合いをするとか、気が合わない。
など、日常で生じた時に「何か問題が起きている」と考えながらその状況を判断するように
習慣化されているように思います。
でも強く思うのですが、その判断こそが問題なんです。
「その状況を問題として観察し始めた瞬間」から、【それは問題だ】というストーリーが作出され始めます。
そのバージョンの夢を見ている夢見る者、そのバージョンの夢を作っている作者はどこにいるのでしょうか?
それは、誰なのでしょうか?。。。
ココに、立ち戻るように私はガイドを感じています。
4月の合宿についていただいたシェアに対して、以下のようにお返事をしました。
(3月の合宿から、まるで次元が変わってしまいました。5月の勉強会もまるで別次元のものとなっています。これは善きことです)
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さんへ
私は合宿のときの何もかも、うまくできていないとか、もっとこうするべきだった、とか全く思っていません。
むしろ、合宿中にもっといろんないざこざが起きても全然不思議がないとすら感じます。
特にこれは、ラファエルと9ヶ月間ガチで2人コミュニティー生活を経たからこそ言えるのだろうと思います。
私から見ると、合宿の最中に起きたどれもこれもが全然かわいいものですよ。。。
みんなお互いに、もっともっとちゃんと向き合って話して行けばいいんじゃないか?
とさえ思います。
誰もが家族と喧嘩をするように仲間同士で喧嘩になっても全然構わないと、私は思っています。
なぜなら自分が怒っても、相手が怒っても、それは私たちのモノじゃないものがただ噴出しているだけだからです。
もしも、期せずして喧嘩をすることで何か良きことがあるとしたら
「自分の心の中に置き続けてきた愛(神)に対する障壁に気がつくこと、それを認めること」だと思います。
私たちは、コミュニケーション障害に陥っていますからそのコミュ障を乗り越えていく必要があると思います。
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今まで色々と経て、私にとって今すごく大切だと感じていることは
自分の目の前に現れた人の反応や言動によって自分の中で何か反応(動揺)が起きたならば
その自分の反応(動揺)の責任を自分の心の中の「願望と決断の力」へ取り戻す機会として捉えることだなあ。ということです。
でもきっと、誰にとっても、これは容易なことではありません。。
コース実践の初級レベルではあまりにも難しいことだったかもしれません。
でも、そろそろ私たちはその段階に来ていると思います。
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それで、自分が動揺をした場合についてですが
その相手によって感じた自分の反応の理由というのは
「相手が現れる前からずっとずっと自分の中にあったモノ」が、うっかり浮上したことによります。
それゆえに、その相手は「私が今まで押し殺してきた何かとてつもなく嫌なモノ」に
触れて気がつかせる機会をくれた相手。
ということになります。
このように、遅かれ早かれ私たちは「自分が押し殺してきた何か」に気が付いていくことになります。
そのための人間関係、そのためのコミュニケーション、そのためのコラボレーションです。
その最中に生じるような、いさかいや言い合いは
時には避けようがなく自然と起きるものだろうと思います。
例外はあるかもしれませんが、多くの場合
最終的には相手との直接のコミュニケーションをするようにガイドされるものだろうとも思います。
なぜなら最終的には、私たちは聖霊との直接のコミュニケーション
神との直接のコミュニケーションを受け入れることになるからです。
そして、それらもまた時間をかけながらのステップ バイ ステップだろうとは思います。