非二元論(アドヴァイタ、ノンデュアリティ)の学びが、悟りのゴールだ。と思っていらっしゃる方
奇跡講座(奇跡のコース、ACIM)の学びと同一だ。と思っていらっしゃる方は
以下、今は読まない方が良いかもしれません。
ご興味がある方だけ、読んでみてくださいね m(_ _)m
☆ ☆ ☆
非二元論(アドヴァイタ、ノンデュアリティ)は、意識の目覚めのゴールではなく
「通過点だ」
と、認識しつつ学ぶことは、とても重要ですね。
非二元論の学びは
ある一定の段階までは、とても役に立つ概念だと感じています。
そこを経て、準備が整ったら
次の、本格的な目覚めへの道のり(純粋非二元論の学び)がスタートします。
非二元は、目覚めの第一段階とも言えます。
非二元の目覚めの感覚は、非常に気持ちが良いですし
そこがゴールと思いたくなりますし
ずっとそこにいたくなります。
自我も、そこであれば容認しています。
恐らく、「世界のすべては神の戯れ(リーラ)だ」
という見方でいられるからなんだろうと思います。
それはすなわち、
幻想の真の原因を隠蔽し続けることができるということですね。
意識や、自我からすると、純粋非二元論 は耳が痛い概念です。
しかし、、
神と、幻想世界とは、一切の関係がない。
これを、妥協無く、自分の都合の良いようにすり替えないことが、とても重要ですね。
非二元の目覚めは、
ともすると、そこをゴールと見なし、袋小路に陥ってしまいます。
「なぜ、この世界があるのか?見えているのか?」
ここが、重要ポイントです。
神の戯れなんかでは、ないんです。
2013年1月~2月前半
私も、その通過点の中にとどまっていたかったです(笑)
けれども、聖霊がその先へと向かわせてくれました。
深いところの私は知っていたのでしょうね
多少イヤイヤながらも、その先に向かうことにしました。
奇跡講座テキスト編p56(中央アート出版社)
T-2.3.3:1~3
贖罪がすべての者に受け入れられるようになるのは、単なる時間の問題である。
これは、最終的な決断が避けられないということであるから、自由意志と矛盾するように思えるかもしれないが、そうではない。
あなたはぐずぐずと時間をかけることも、どこまでも先延ばしにすることもできるが、
創造主はあなたが誤った創造をする能力に限界を設けたため、あなたは創造主から完全に離れ去ることはできない。
T-2.3.3:6~7
いずれは誰もが、たとえ漠然とでも、もっと良い道があるはずだと認識し始める。
この認識がさらに確固としたものになれば、それが転換点となる。
※奇跡講座の言う「贖罪」とは、
「罪と罪悪感の実在性を信じる信念を訂正すること」を意味します。
キリスト教の贖罪とは全く異なりますね。
今までの宗教的なところからの贖罪は、私たちの罪悪感を強めますが
奇跡講座(奇跡のコース、ACIM)の贖罪は、罪悪感を「起き得なかった誤り」として取り消してくれますね。
元々、無なのだから当然のことなんですね。
非二元論では、「世界が存在するかに見える原因」に着目・着手していません。
非二元論で学び、心の準備が整った時には 以降いつかの段階で
必ず聖霊が「純粋非二元論」である真の一元へと導きます。
仏陀がそうであったように。
奇跡講座の関連書籍:神の使者p56より
ブッダが「わたしは悟った」と言ったのは、自分は幻影に参加しているのではなく
自分がすべての幻影をつくり出していると気づいた、という意味だったのよ。
でも、そこからもう一歩進んで、すべての幻影をつくり出している心がそれ自身と完全に対立して神の側につかなければ。
もちろんブッダは優れた段階に到達した人だからそこに気づいて、すぐにJ(イエス)と同じ悟りに進んだわ。
でも、それは世界に知られていない生涯での出来事。
Jのレベルの悟りに達した人々のことを世界がまったく知らないのはべつに珍しくないし、
世界的に有名な生涯で悟りに達したと思われている人たちがじつはそうではないことも多いんです。
奇跡講座(奇跡のコース、ACIM)の学びと同一だ。と思っていらっしゃる方は
以下、今は読まない方が良いかもしれません。
ご興味がある方だけ、読んでみてくださいね m(_ _)m
☆ ☆ ☆
非二元論(アドヴァイタ、ノンデュアリティ)は、意識の目覚めのゴールではなく
「通過点だ」
と、認識しつつ学ぶことは、とても重要ですね。
非二元論の学びは
ある一定の段階までは、とても役に立つ概念だと感じています。
そこを経て、準備が整ったら
次の、本格的な目覚めへの道のり(純粋非二元論の学び)がスタートします。
非二元は、目覚めの第一段階とも言えます。
非二元の目覚めの感覚は、非常に気持ちが良いですし
そこがゴールと思いたくなりますし
ずっとそこにいたくなります。
自我も、そこであれば容認しています。
恐らく、「世界のすべては神の戯れ(リーラ)だ」
という見方でいられるからなんだろうと思います。
それはすなわち、
幻想の真の原因を隠蔽し続けることができるということですね。
意識や、自我からすると、純粋非二元論 は耳が痛い概念です。
しかし、、
神と、幻想世界とは、一切の関係がない。
これを、妥協無く、自分の都合の良いようにすり替えないことが、とても重要ですね。
非二元の目覚めは、
ともすると、そこをゴールと見なし、袋小路に陥ってしまいます。
「なぜ、この世界があるのか?見えているのか?」
ここが、重要ポイントです。
神の戯れなんかでは、ないんです。
2013年1月~2月前半
私も、その通過点の中にとどまっていたかったです(笑)
けれども、聖霊がその先へと向かわせてくれました。
深いところの私は知っていたのでしょうね
多少イヤイヤながらも、その先に向かうことにしました。
奇跡講座テキスト編p56(中央アート出版社)
T-2.3.3:1~3
贖罪がすべての者に受け入れられるようになるのは、単なる時間の問題である。
これは、最終的な決断が避けられないということであるから、自由意志と矛盾するように思えるかもしれないが、そうではない。
あなたはぐずぐずと時間をかけることも、どこまでも先延ばしにすることもできるが、
創造主はあなたが誤った創造をする能力に限界を設けたため、あなたは創造主から完全に離れ去ることはできない。
T-2.3.3:6~7
いずれは誰もが、たとえ漠然とでも、もっと良い道があるはずだと認識し始める。
この認識がさらに確固としたものになれば、それが転換点となる。
※奇跡講座の言う「贖罪」とは、
「罪と罪悪感の実在性を信じる信念を訂正すること」を意味します。
キリスト教の贖罪とは全く異なりますね。
今までの宗教的なところからの贖罪は、私たちの罪悪感を強めますが
奇跡講座(奇跡のコース、ACIM)の贖罪は、罪悪感を「起き得なかった誤り」として取り消してくれますね。
元々、無なのだから当然のことなんですね。
非二元論では、「世界が存在するかに見える原因」に着目・着手していません。
非二元論で学び、心の準備が整った時には 以降いつかの段階で
必ず聖霊が「純粋非二元論」である真の一元へと導きます。
仏陀がそうであったように。
奇跡講座の関連書籍:神の使者p56より
ブッダが「わたしは悟った」と言ったのは、自分は幻影に参加しているのではなく
自分がすべての幻影をつくり出していると気づいた、という意味だったのよ。
でも、そこからもう一歩進んで、すべての幻影をつくり出している心がそれ自身と完全に対立して神の側につかなければ。
もちろんブッダは優れた段階に到達した人だからそこに気づいて、すぐにJ(イエス)と同じ悟りに進んだわ。
でも、それは世界に知られていない生涯での出来事。
Jのレベルの悟りに達した人々のことを世界がまったく知らないのはべつに珍しくないし、
世界的に有名な生涯で悟りに達したと思われている人たちがじつはそうではないことも多いんです。