結局、プライドの保持ってやつが、どうにもこうにもならないクソ以下の
自分の救済を阻んでいる障壁なんだなと心底学んでいる。
コース学習者としても、人としても、なにものとしても、動物としてでも
ひとたび、プライドやら自己概念保持が目的でその瞬間生きているなら
絶対に救済はありえない。
自分が自分に阻んでる。他には何も阻んでない。
万が一、誰かに勘違いされたとして
万が一、誰かに見下されたとして
、、、何が問題なのか?
いったい何が問題なんだ?
そのままでいいじゃんかと思うけど
自我にとっては違うらしい。
だから、木っ端微塵に(プライドが)砕かれるというのは
やはり幸いなことと思う。
ほんとうにありがたいことだと思う。
世界には世界のやりたいようにさせておけばいいし、感じさせておけばいい。
問題は、自分が自分に罪悪を見るか見ないか問題なんだ。
そこにしか問題なんかないじゃんか。と思う。
すると、世界のすべてを尊重して慈しみたいと感じるようになるのだろう。
なぜなら、自分のうちにもそとにも罪悪が存在していないと信じて知っているから
そこからだと、すべてが自分だと知らされる
すべてが自分と知らされていたとき
慈しまないわけにはいかない、ただただそうなってしまうだろう。