私の愛するある人が、余命宣告をうけたようです。
ガンがあれば、1年
なくても、心臓や内臓、脳が思わしくないので2年くらいだとか。
衰弱してしまって、歩行も困難。
そして、本人はそのことを知らない。
人は、長生きするか、短命かではなく
どのように生き、どのように死ぬか(本当には死にませんけど)
その、心のありようこそが重要ですね。
死が近いかもしれないから、ではなく
今まで、どのように生き、これからどのように生活し、どのように去ってゆくか
という
その幻想を想って、
その理不尽シナリオにくっついた感情を
抑圧することなく、解放してあげました。
悲しみを感じて泣く。って
何年ぶりだろう。
2013年6月、「神様ごめんなさーーーーーーーーーーーーい!!!!!」
の、大号泣以来かな。
悲しみそのものは、徐々に消え去り
温かい、温かい、彼を愛する想念が
慈しみの想いがあふれてゆき、広がってゆく。
すべては、過ぎ去っている過去の映像。
過去が、こうやって
また次へ、そのまた次へと通り過ぎてゆく。
私ができる最大限のギフトは、私自身が正気になること。
そして、その正気の眼で
彼を見ること。
彼を愛すること。
彼と一つになること。
神に感謝すること。
彼とともに、神と一つであること。
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ガンがあれば、1年
なくても、心臓や内臓、脳が思わしくないので2年くらいだとか。
衰弱してしまって、歩行も困難。
そして、本人はそのことを知らない。
人は、長生きするか、短命かではなく
どのように生き、どのように死ぬか(本当には死にませんけど)
その、心のありようこそが重要ですね。
死が近いかもしれないから、ではなく
今まで、どのように生き、これからどのように生活し、どのように去ってゆくか
という
その幻想を想って、
その理不尽シナリオにくっついた感情を
抑圧することなく、解放してあげました。
悲しみを感じて泣く。って
何年ぶりだろう。
2013年6月、「神様ごめんなさーーーーーーーーーーーーい!!!!!」
の、大号泣以来かな。
悲しみそのものは、徐々に消え去り
温かい、温かい、彼を愛する想念が
慈しみの想いがあふれてゆき、広がってゆく。
すべては、過ぎ去っている過去の映像。
過去が、こうやって
また次へ、そのまた次へと通り過ぎてゆく。
私ができる最大限のギフトは、私自身が正気になること。
そして、その正気の眼で
彼を見ること。
彼を愛すること。
彼と一つになること。
神に感謝すること。
彼とともに、神と一つであること。
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