奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

人が質問する時って、予め質問の答えを決めてから質問している。

2021年04月06日 01時13分55秒 | ACIM奇跡のコースという生き方

たとえば、昨日も「尋ねる、聴く、従う」について質問があったのだけど

それについてはすでに
常に、毎月何時間と話し続けているので
ただただ平行線のやり取りになってしまうだろうと感じて

質問に答えるのではなく
「こうしてみると見えてくると思う」と具体的なことを実際に動いてやってみるようにと伝えていました。



一般的に、たいていの場合
質問に答えた後に、即座にその答えがスッと受け取られることと

その答えの後に
さらに質問が続いて「質問&答え」が続くことがある。



それらの、前者と後者の違いは歴然なのだけども


後者は、質問の時にすでに
「どんな答えなら自分は受け入れるか?」
を、質問する前からすでに最初に決断しているように見える。


多分、無意識レベルの決断なので本人は自覚がないのだろうと思うけど
明らかに「何らかの決断」が起きている。


私もそういう状態は長かったと思うし
今もその傾向はあるだろう。


でも、自分が最初に
どんな回答なら受け入れ従い、どんな答えなら受け入れられず従えない。
と決めながら「質問して答えを聞く」ならば

その結果、引き起こるのは時間の遅延だ


私は「それが明らかである」と、ある程度思い知らされているので

あえて、自分の思い通りの答えでなければないほど、むしろその答えに抵抗するのをやめるのが
自分にとってのマインドトレーニングなのだろうと理解してきている。




ここからが重要だと思うのだけど

「聖霊に尋ねて、聴いて、従う」をする意味とは

自分の考え、自分の信念、自分の見方を疑問視して
自分の期待や願望について、聖霊に引き渡すためにある。

自分で結論つけようとするのをやめるのだ。
それが自分の期待に沿っていても、沿っていなくても
都合がよくても、都合がよくなくても

いずれにせよ、結論づけようとはしない。
白にも、黒にも、グレーにも、結論づけない。

結論も、決断も、解釈も聖霊にのみできることで、私たちの仕事ではない。



そこに妥協なく一致して行くための
「尋ねる、聞く、従う」なのだ
どんな答えを聞き取るかどうか?が重要なわけでもない。
(とはいえ、聴いたことに対して従順に従うことになるけど)


その結果
針の穴よりも小さき門をくぐり抜けることができる。


幻想を現実に仕立て上げようとする【心の仕掛け】にストップがかかっていき
その誘惑と間違った決断を終わらせていける。


そのために、尋ねて、聴いて、従うのだ。



幻想に光を持ち込むのではなく
光に幻想を運んでいく。



要するに、自分で決めてから尋ねたり聴いたり従っていることに
都度気が付いて、その無価値さに気が付いて、それがまったく無価値で魅力がないと思えるからこそ
ただ単にやめていくのだろうと思う。

自力ではできない。
失敗せずにできるものでもない。

How to もない。
攻略方法もない。


ただ、無価値なものの「無価値さを認識するだけ」なんじゃないか?と思う。


心は、価値を見ているものを手放せない。
手放す努力をするから手放せるのではなくて
それに魅力や価値を見出せなくなるから、当たり前に手放すのだと思う。




心はある時、突然気が付く。

うわ、おもちゃのガラガラになんでこんなに魅力を感じ、惹きつけられて、それをやめられなかったのだろう?って
なんで、こんなにも大きな声に気がつかなかったのだろう?って

なんで、こんなにも当たり前の声に従わなかったのだろう?って
びっくりする日が来るのだと思う。



遅かれ早かれ
必ず、誰にもその時は来ると思う。


でも、How to などないと思う。
こうやれば、この針の穴をくぐれるよ。という方法はなくて

ただ、自分が背負って抱えて握って着込んでいたそれらを脱げばいいだけで

まだそれらを脱ぎたくないと思っている間、それに価値を見ている間は、
誰もくぐれないものだろうと思う。


なぜなら、そんなにそこをくぐり抜けたいわけではないから。
そこまで望んでいないから。
脱がずに着込んでいるのが、案外まんざらではないから。



でも、その自己欺瞞を超えて

何に価値があって
何に価値がないのか?

何を自分に与えたくて
何を自分に与えたくないのか?

について、私たちは明確にしていかねばならないと思う。


それが明確になると
いかなるガイダンスであれ、都合よくても悪くても
心はそれに従順に従うものだと思う。


すなわち、それが「正気な心」と言えると思う。
信仰深く、素直で、柔和で、寛大で、忍耐強く、開かれた心なのだと思う。

そのような心でなければ、不幸な心の状態だったわけなんだ。。










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