兄弟に
神・キリストという意味以外を与えることが
どれほどに狂気的思考なのか
今は、よくわかります。(毎瞬100%できるできないは別です)
キリスト(神の子)ではないように見える時
ただ、自我の思考を採用しているだけ。
それだけのシンプルさ。
けれども、誘惑がある。
あの殺人犯は違うよね、とか
過去ひどい目にあわされたあの人だけはそう思えないよ。
とか、
けど、それはわたしが見ているイメージ。
そこに、そういう相手はいない。
夢から目を覚ましたら消えてしまう自分の意味付けをくっつけた映像を見て
本当の姿を見ずに判断している。
その判断が狂気なんだ。
今の、この見方を継続してゆきたい。
ほんとに何も必要ない。
欠乏から見ることができなくなる眼があれば
ほんとに何も必要ない。
もしも必要な物事があるとしたら
ただ、それは与えられることだろう。
そしてわたしは、それを感謝の中いくらでも受け取るだろう。
いつだって、与えられている。
いつだって、完全に愛されている。