とにかく、何をどんなふうに感じていてもいなくても
自我を捨てるレッスンを繰り返し繰り返し繰り返し
根気づよくレッスンを継続してゆくのみで
「頭おかしいんじゃないか?」
というくらいに同じことを淡々と繰り返している。
それで、どんな成果があったかどうかも気にならない。
なぜだろう?
恐らく、それは自分の仕事の範疇ではないからなのだろう。
自分の進捗を評価することなんてできやしないんだもの。
意識には何もできやしない。なにもわかりやしない。
聖霊に依存することしかできない。
私たちは、優等生になろうとせずに、ただただ神に素直に、神に正直に、幼子のようでいればいいんだ。
そんなわたしも、2011年2月までは バリバリのうつ病で
何でもかんでも深刻に考えるタイプだった。
過去や未来を思考しまくり、深刻に受け止めまくり、
今の真逆だ。
2011年3月半ばにうつ病が外れてしまってからは
これが修行のようでも、修行のようでなくてもどうでもよくて
ただただ、自分が映し出す日常の映像の「もと」を手放すことだけに集中してきた。
たまに、のりちゃんは探求者タイプだとか、まるで修行だね、だとか言われたりするのだけれど
奇跡講座(奇跡のコース・ACIM)が導く、真の赦しの生き方って、まさに心の修行なのではないか?と思う。
そこには、全くネガティブさがない。
赦しは、気が遠くなるくらい果てしない心の訓練そのものなのだから。
これが、習慣になってしまうと 何の苦もなく赦しの状態で生きてゆける日常も、かなり増えてくる。
けれども、24時間中 何度も密かに自我の思考と同一化しようとする心の動きも見え隠れするから、基本は常に警戒態勢。
これが、、大変なのではなく、心地よい。
とても平安で清々しい、ずっと愛が爆発しているし、ドンと突き上げる深い感謝の想いが心の中で響いている。
これが神の想いなんだ。
この状態でいると、たまに聖霊がカチっとスイッチオンにしてくれる。
それはまるで、意識状態のチャンネルがキリストの心眼に一致する感じ。
今日、ちょうど下記の投稿(2013年9月)の、デモ行進があった横須賀の大通りを車で運転していた
何の差もないという歓喜
もちろん、今日その大通りは、デモを訴える人も誰もいないのだけれど、
聖霊が何かを知らせるかのように、それを行った。
意識の周波数があの時と全く同じ状態になって、、
ブワ~~~~~~~~~~~~って、空間ごと、自分ごと、すべてが歓喜そのものになった。
赦しの状態でいると、その結果は自動的に継続してゆく。
それが、聖霊の制御下に心が置かれた状態だ。
言語で表現するのが大変だけれど、
最近のあれこれが
ドライブ中いろいろと整理されてきた。
たゆまぬレッスンを継続してゆき聖霊と一つの 正しい心の状態でいると
その正しい心の状態に、「恐れよ」という自我のシナリオのデータがやって来て通り過ぎようとしたその時に、
意識は なにも掴むことなく、ただ正しい心のまま、それを通り過ぎさせる。
すると、黄金の光輝く心に触れるか触れないかで、
その自我のシナリオのデータは一瞬のうちに蒸発してしまったかのように消滅してしまう。
自我のチャレンジはなおも続く。
一日に何度も何度も、ベッドの中で目を覚ました瞬間から、ベッドで眠りにつく瞬間まで
それは行われる。
けれども、正しい心の状態に一致しようという意欲を持ち続け選択し続ける心には
自我のチャレンジは儚く消えてゆくのみ。
「恐れ」も、あらゆる苦痛も、全部ぜんぶ、自我のチャレンジだった。
愛を恐れに変えよう。
というチャレンジだった。
それは、恐れるに値しない。
わたしには、何もわからない。
神を尊び聖霊を選ぶことしか、それだけしか、
なす術が無い。
自我を捨てるレッスンを繰り返し繰り返し繰り返し
根気づよくレッスンを継続してゆくのみで
「頭おかしいんじゃないか?」
というくらいに同じことを淡々と繰り返している。
それで、どんな成果があったかどうかも気にならない。
なぜだろう?
恐らく、それは自分の仕事の範疇ではないからなのだろう。
自分の進捗を評価することなんてできやしないんだもの。
意識には何もできやしない。なにもわかりやしない。
聖霊に依存することしかできない。
私たちは、優等生になろうとせずに、ただただ神に素直に、神に正直に、幼子のようでいればいいんだ。
そんなわたしも、2011年2月までは バリバリのうつ病で
何でもかんでも深刻に考えるタイプだった。
過去や未来を思考しまくり、深刻に受け止めまくり、
今の真逆だ。
2011年3月半ばにうつ病が外れてしまってからは
これが修行のようでも、修行のようでなくてもどうでもよくて
ただただ、自分が映し出す日常の映像の「もと」を手放すことだけに集中してきた。
たまに、のりちゃんは探求者タイプだとか、まるで修行だね、だとか言われたりするのだけれど
奇跡講座(奇跡のコース・ACIM)が導く、真の赦しの生き方って、まさに心の修行なのではないか?と思う。
そこには、全くネガティブさがない。
赦しは、気が遠くなるくらい果てしない心の訓練そのものなのだから。
これが、習慣になってしまうと 何の苦もなく赦しの状態で生きてゆける日常も、かなり増えてくる。
けれども、24時間中 何度も密かに自我の思考と同一化しようとする心の動きも見え隠れするから、基本は常に警戒態勢。
これが、、大変なのではなく、心地よい。
とても平安で清々しい、ずっと愛が爆発しているし、ドンと突き上げる深い感謝の想いが心の中で響いている。
これが神の想いなんだ。
この状態でいると、たまに聖霊がカチっとスイッチオンにしてくれる。
それはまるで、意識状態のチャンネルがキリストの心眼に一致する感じ。
今日、ちょうど下記の投稿(2013年9月)の、デモ行進があった横須賀の大通りを車で運転していた
何の差もないという歓喜
もちろん、今日その大通りは、デモを訴える人も誰もいないのだけれど、
聖霊が何かを知らせるかのように、それを行った。
意識の周波数があの時と全く同じ状態になって、、
ブワ~~~~~~~~~~~~って、空間ごと、自分ごと、すべてが歓喜そのものになった。
赦しの状態でいると、その結果は自動的に継続してゆく。
それが、聖霊の制御下に心が置かれた状態だ。
言語で表現するのが大変だけれど、
最近のあれこれが
ドライブ中いろいろと整理されてきた。
たゆまぬレッスンを継続してゆき聖霊と一つの 正しい心の状態でいると
その正しい心の状態に、「恐れよ」という自我のシナリオのデータがやって来て通り過ぎようとしたその時に、
意識は なにも掴むことなく、ただ正しい心のまま、それを通り過ぎさせる。
すると、黄金の光輝く心に触れるか触れないかで、
その自我のシナリオのデータは一瞬のうちに蒸発してしまったかのように消滅してしまう。
自我のチャレンジはなおも続く。
一日に何度も何度も、ベッドの中で目を覚ました瞬間から、ベッドで眠りにつく瞬間まで
それは行われる。
けれども、正しい心の状態に一致しようという意欲を持ち続け選択し続ける心には
自我のチャレンジは儚く消えてゆくのみ。
「恐れ」も、あらゆる苦痛も、全部ぜんぶ、自我のチャレンジだった。
愛を恐れに変えよう。
というチャレンジだった。
それは、恐れるに値しない。
わたしには、何もわからない。
神を尊び聖霊を選ぶことしか、それだけしか、
なす術が無い。