この記事は、2015年8月19日の投稿記事ですが
さっき「天国から離れて」という書籍を読んでいて
聖霊の愛、イエスの愛、(私の場合、ここに五井先生も入ります)って、、
なんて優しく、手取り足取りの愛なのだろう。って、号泣してしまい
この記事のことを思い出したのです。
奇跡講座・奇跡のコースを一緒に学びあってくださる方、最近それに加わってくださる方の
今までと今をお聞きしていて思うのですが、奇跡講座の絶対なる正しい学び方って無いんですよね。
「大丈夫なんだよ。」っていうこと。
聖霊は完璧なのだから、ちゃんとちゃんと導き続けてくれるんだ。
ありがたいことだな。
安心して、一歩一歩この道を踏みしめていってほしいな。
そう感じています。
☆ ☆ ☆
さっき、何の気なしに「赦しのカリキュラム」というワプニック夫妻著の書籍をパッと開いてみたら
P92 質問22「私たちが死ぬとき何が起こり、私たちはどこへ行くのでしょうか?
多くの人々が報告している臨死体験は、『奇跡講座』を学ぶ者たちにも関係する事柄なのでしょうか?」
というページで、「へえ、どんなことが書いてあったんだろう。」と、よく読んでみました。
ワプニックさんの「臨死体験」に関する結論は、P104最後の3行にありました。
幻想の中におけるそれらの唯一の意味は、それらが、意味あるものと
無意味なものとを弁別するレッスンを私たちが学ぶための教室となることにあります。
「なるほどそうだな~。」
と感じたので、ワプニックさんの回答とはまた少し違った角度から
一応臨死体験を体験したことのある側として
そして奇跡講座を学び実践しているものとして、ここにメモしておこうと思います。
※赦しのカリキュラムをお持ちの方は、質問22を読んでみてください。
臨死体験を体験してしまうと、それがあまりにも神々しくて
肉体を去った後は、真理が待っている。
と、思いこんでしまうというところがあります。
私も、2013年1月くらいまでは そうでした。
多くの方もそうでしょうし、今もそう思っている方は多いと思います。
それ自体は誤った見方なのですが、「彼らにとって今は、そう思っていた方が良いのだ。」という言い方もできます。
とにかく、私たちは全く認識していない部分で、本当の真理に目覚めることから
遠回りしよう、遠回りしよう、と働くシステムの中にいます。
非二元のその先の、真の一元、純粋非二元の概念が
あまりに恐ろしいのです。
なので、スピリチュアルや、悟り系の目覚めの概念で癒しを感じるところで
留まっていた方が、その人のその段階の準備状況としては完璧だ。
という場合も、よくあります。
今までもそうであったように、引き続き聖霊は、その方その方を導き続けています。
本人の自覚あるなしにかかわらず、もしも準備が整ってきたら
誤って解釈していた、臨死体験に対する本当の見方を、
何等かの形で理解させるようなことが必ず起きてゆきます。
私にとって16歳の臨死体験は、あれは聖霊が私を導くために必要とした体験でもあったようです。
「とてもあっちに行きたいのだけれど、けど、今回に限っては何かとてつもないことをやりに来た。それはやったかな?あ!まだだ。じゃあだめだ!」
と、普段のように肉体の中にいる。という幻想の中では知りえないことを知って、
え?「それ」ってなに?と、人生を歩む中で「それ」を探し続けることになり、
聖霊の導きにより「それ」をやっと見つけたのです。
人生のあらゆる体験のパズルのピースが完璧にはまってゆき、「それ」とは
「幻想から真に目覚めるための赦しの実践だった」必ず「それ」をやり遂げよう。
と、覚悟できたのです。
聖霊は、真理に導き真理を教えるために、あらゆる幻想を使います。
その幻想は、真理そのものではないけれども、目を覚ましてゆく幻想・夢を見るためには
有効利用できる。そのために意味ある幻想ということになりますね。
ちなみに、この見方は、他のあらゆるものにも当てはまります。
たとえば、
今は、この世界を神の戯れだ。と思っている場合、
今は、奇跡講座を曲解したり薄めて解釈している場合、
今は、非二元の悟りが最終的なゴールだ。と思っている場合、などなど
今はそれで平安を感じていられるのであれば、それでいい。
ちゃんと準備が整うまでは聖霊が導き見守っているわけです。
いずれは誰もが必ず、純粋非二元の道へ導かれ、真理を受け入れてゆけます。
そしてそれは、時空の外においては、すでに終わっています。
私たちが真に焦点を合わせるべきは、今この瞬間の自分自身のレッスンのみだ。ということですね。
ありがたや、ありがたや。。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/c9/f897acf6ff992625fd9a125e60a726d8.jpg)
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さっき「天国から離れて」という書籍を読んでいて
聖霊の愛、イエスの愛、(私の場合、ここに五井先生も入ります)って、、
なんて優しく、手取り足取りの愛なのだろう。って、号泣してしまい
この記事のことを思い出したのです。
奇跡講座・奇跡のコースを一緒に学びあってくださる方、最近それに加わってくださる方の
今までと今をお聞きしていて思うのですが、奇跡講座の絶対なる正しい学び方って無いんですよね。
「大丈夫なんだよ。」っていうこと。
聖霊は完璧なのだから、ちゃんとちゃんと導き続けてくれるんだ。
ありがたいことだな。
安心して、一歩一歩この道を踏みしめていってほしいな。
そう感じています。
☆ ☆ ☆
さっき、何の気なしに「赦しのカリキュラム」というワプニック夫妻著の書籍をパッと開いてみたら
P92 質問22「私たちが死ぬとき何が起こり、私たちはどこへ行くのでしょうか?
多くの人々が報告している臨死体験は、『奇跡講座』を学ぶ者たちにも関係する事柄なのでしょうか?」
というページで、「へえ、どんなことが書いてあったんだろう。」と、よく読んでみました。
ワプニックさんの「臨死体験」に関する結論は、P104最後の3行にありました。
幻想の中におけるそれらの唯一の意味は、それらが、意味あるものと
無意味なものとを弁別するレッスンを私たちが学ぶための教室となることにあります。
「なるほどそうだな~。」
と感じたので、ワプニックさんの回答とはまた少し違った角度から
一応臨死体験を体験したことのある側として
そして奇跡講座を学び実践しているものとして、ここにメモしておこうと思います。
※赦しのカリキュラムをお持ちの方は、質問22を読んでみてください。
臨死体験を体験してしまうと、それがあまりにも神々しくて
肉体を去った後は、真理が待っている。
と、思いこんでしまうというところがあります。
私も、2013年1月くらいまでは そうでした。
多くの方もそうでしょうし、今もそう思っている方は多いと思います。
それ自体は誤った見方なのですが、「彼らにとって今は、そう思っていた方が良いのだ。」という言い方もできます。
とにかく、私たちは全く認識していない部分で、本当の真理に目覚めることから
遠回りしよう、遠回りしよう、と働くシステムの中にいます。
非二元のその先の、真の一元、純粋非二元の概念が
あまりに恐ろしいのです。
なので、スピリチュアルや、悟り系の目覚めの概念で癒しを感じるところで
留まっていた方が、その人のその段階の準備状況としては完璧だ。
という場合も、よくあります。
今までもそうであったように、引き続き聖霊は、その方その方を導き続けています。
本人の自覚あるなしにかかわらず、もしも準備が整ってきたら
誤って解釈していた、臨死体験に対する本当の見方を、
何等かの形で理解させるようなことが必ず起きてゆきます。
私にとって16歳の臨死体験は、あれは聖霊が私を導くために必要とした体験でもあったようです。
「とてもあっちに行きたいのだけれど、けど、今回に限っては何かとてつもないことをやりに来た。それはやったかな?あ!まだだ。じゃあだめだ!」
と、普段のように肉体の中にいる。という幻想の中では知りえないことを知って、
え?「それ」ってなに?と、人生を歩む中で「それ」を探し続けることになり、
聖霊の導きにより「それ」をやっと見つけたのです。
人生のあらゆる体験のパズルのピースが完璧にはまってゆき、「それ」とは
「幻想から真に目覚めるための赦しの実践だった」必ず「それ」をやり遂げよう。
と、覚悟できたのです。
聖霊は、真理に導き真理を教えるために、あらゆる幻想を使います。
その幻想は、真理そのものではないけれども、目を覚ましてゆく幻想・夢を見るためには
有効利用できる。そのために意味ある幻想ということになりますね。
ちなみに、この見方は、他のあらゆるものにも当てはまります。
たとえば、
今は、この世界を神の戯れだ。と思っている場合、
今は、奇跡講座を曲解したり薄めて解釈している場合、
今は、非二元の悟りが最終的なゴールだ。と思っている場合、などなど
今はそれで平安を感じていられるのであれば、それでいい。
ちゃんと準備が整うまでは聖霊が導き見守っているわけです。
いずれは誰もが必ず、純粋非二元の道へ導かれ、真理を受け入れてゆけます。
そしてそれは、時空の外においては、すでに終わっています。
私たちが真に焦点を合わせるべきは、今この瞬間の自分自身のレッスンのみだ。ということですね。
ありがたや、ありがたや。。
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