奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

映像は変わる必要があるのか?[再]

2018年01月17日 11時29分59秒 | ACIM奇跡のコースという生き方
以下、2015年3月5日掲載の記事です。
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T-1.1.2
このような奇跡そのものは問題ではない。重要なのは奇跡の源だけであり、
その源は評価できる範囲をはるかに超えている。
(中央アート出版社 奇跡講座テキスト編 P36)







2013年から、コースを学び合っていって沢山の兄弟たちが直面する、あらゆる試練のシーンで

「早く、この日常という映像が変わってほしい。」

「こんな風になったら、私は幸せなのに。」

という想いが上がってくるというシェアを耳にします。



「この知覚は、映し出されている映像によって感じられているんだ」

という信念は、私たちの中でとてもとても根強い。



正直言って、わたしはアンフィニの統合を実践していた当時から

あらゆる人や状況が変化していったことよりも

本当にうれしかったのは、人や状況が変わったこと自体ではなく


それらの映像を、自分が原因で映し出しているんだ。

と見られることの方だった。

変化するそれらは、実在ではないって感じていたからかな?




映像は、変わることもあれば

全く変わらないこともあるのだと思う。


けれども、全く変わらない その間も心はどんどん癒され得る。

実際、それらの映像によって心が影響を受けていないから。


自分が、自我と一つになることを決断していれば苦しみを知覚する。

聖霊と一つになることを決断していれば平安を知覚する。



先日の実践コース中にもお伝えしたけれど、赦しを実践してゆくにつれて

心は、どんどん神に接近してゆくから

ほんの微妙な知覚も、ものすごく強烈なものとして知覚されてゆくことが多々ある。



やっぱり、この世界の原因である心の選択のパワーには警戒すること。

それだけが、救いに直結するのだという確信。


沢山の兄弟たちが教えてくれた。

彼らは聖霊であるから、私の教師なんだ。

そして、彼らはわたしなんだ。



どこを指差しても、自分じゃない部分なんてない。

愛そのものの、自分。

慈しむべき、自分。


Jが私たちをどんなに大切に想い、大切にあつかっているのかが

だんだんと、わかってくる。



十字架刑そのものが消滅する(映像が変わる)から救いなのではなく

十字架刑に対する解釈が変化することが救いなんだ。




本当に、ほんとうに、分離は起きていないし

本当に、ほんとうに、世界は無い。



だから、儚い夢をしっかり見て、それは無だと否定するのみ。

あるのは愛のみで、すべてが愛で満たされていると宣告する。



聖霊と一つになること、それを意志することが本当の救いであり、解放なんだ。

映像の変化に原因がなく、心の変化にのみ原因がある。


3月も、ここをしっかりと深め合ってゆきたいな。



わたしの人生にも、ほとんど変化が起きない映像はいくらでもある。



それでも良い。それらに対する解釈が、聖霊と全く同じになること

すなわち正気になることが、涙が出るほどの、このうえない歓びなんだな。。






T-6.1.13
十字架刑のメッセージは、次の通り、明白である。
愛だけを教えなさい。それがあなたの本性だからである。



T-6.1.15:8~T-6.1.16:1
ユダは、私の兄弟であり、私自身と同じように一なる子の一部をなす神の子であった。
罪の宣告は不可能だと実証する用意ができていた私が、彼に罪を宣告しようとすることが、あり得ただろうか。
使徒たちの教えを読むときには、当時はまだ彼らが完全に私に従う準備ができていなかったために、
後にわかるようになることがたくさんあると、私自身が彼らに語ったことを思い出しなさい。

(中央アート出版社 奇跡講座テキスト編より)



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