奇跡講座を中心に置いて実践してゆくとか
何らかのティーチャーを中心に置いて実践してゆくとか
そういう防衛が起こるのは、よくあるみたいです。
誰もが通る通過点かも知れません。
しかし、そうじゃなくて
いついかなるときも
神・聖霊を絶対的に中心に置くことなんですね。
それこそ、究極的には奇跡講座をしていなくてもいいんです。
神・聖霊は奇跡講座に限定して存在していません。
神・聖霊を絶対的に中心に置くのなら
そのとき、自分は完全に退かなければなりません。
聖霊は、自我をあなたの中心から退かせたいんです。
奇跡講座を中心に置く自我を、あなたの中心から退かせなければなりません。
何らかのティーチャーを中心に置く自我を、あなたの中心から退かせなければなりません。
「奇跡講座を正しく学ぶ」
という真摯な意欲は必要ですが、
大抵そこに、自我がスルリと入り込みます。
そのとき、正しく学ぶ目的・動機が
神を凌駕するため。実相を乗っ取るため。
に、すり替わっています。
「正しく学ぶ」=「負けないため」なんです。
負けるって?
何に?
神にです。
なぜなら、すべての関係性は
神と私との関係だからです。
神と私との関係でない関係性なんて、一つもありません。
なぜなら、神しか無いからです。
実在するものは、神なのだから
非実在とは、「神ではない何か」という幻想です。
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