ようするに、
すべての苦しみの根源は
自己保存・自己防衛の欲求からきている。
真理は、God is
なのだから「私」が、「私」は、
と言っている「私」はどこにも存在していない。
だからこそ
God isであり真の幸せ以外になにも実在していなかった。
もしも、神を迎え入れるのであれば
神(真理)を一番にするのであれば
今までしきりに訴えを起こしていた「私」という
なんらかのアイデンティティーは消滅する。
けど、消えたくない。
けど、幸せになるにはアイデンティティーが消滅するらしい。
この間で葛藤が起きる。
葛藤する「誰か」は、
信じているし、訴えている。
「葛藤があり得ることだ」と。。。
要するに「私」は、存在しているんだよ。と
信じているし、訴えている。
これを書いているわたしの中で、その信念の力と訴える力が劇的に減退している。
日に日に、減退し続けている。
これまで数年間ほぼ一日中やっていることって
「禅」だったんだなあ。
やっていることは、やはり「禅」らしい。
座布団に座らなくても「禅」はできるものなはず。
この世界のレベルで、師匠がいるかどうかは関係なく
聖霊が取り仕切っている。
すべてのアレンジメントを聖霊がやっている。
それは、とても自然なこと。
じつは、奇跡でもなかった。
おっとっと、という一瞬の夢見から
目を覚ますのは、そのアレンジがとっとと起きてゆくのは
ごくごく自然なことだったようだ。
自分が黙れば、聖霊は常に語りかけている。
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すべての苦しみの根源は
自己保存・自己防衛の欲求からきている。
真理は、God is
なのだから「私」が、「私」は、
と言っている「私」はどこにも存在していない。
だからこそ
God isであり真の幸せ以外になにも実在していなかった。
もしも、神を迎え入れるのであれば
神(真理)を一番にするのであれば
今までしきりに訴えを起こしていた「私」という
なんらかのアイデンティティーは消滅する。
けど、消えたくない。
けど、幸せになるにはアイデンティティーが消滅するらしい。
この間で葛藤が起きる。
葛藤する「誰か」は、
信じているし、訴えている。
「葛藤があり得ることだ」と。。。
要するに「私」は、存在しているんだよ。と
信じているし、訴えている。
これを書いているわたしの中で、その信念の力と訴える力が劇的に減退している。
日に日に、減退し続けている。
これまで数年間ほぼ一日中やっていることって
「禅」だったんだなあ。
やっていることは、やはり「禅」らしい。
座布団に座らなくても「禅」はできるものなはず。
この世界のレベルで、師匠がいるかどうかは関係なく
聖霊が取り仕切っている。
すべてのアレンジメントを聖霊がやっている。
それは、とても自然なこと。
じつは、奇跡でもなかった。
おっとっと、という一瞬の夢見から
目を覚ますのは、そのアレンジがとっとと起きてゆくのは
ごくごく自然なことだったようだ。
自分が黙れば、聖霊は常に語りかけている。
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