もう、この心の姿勢でなければ
「私は決して満たされないのだな。」
その確信になってきました。
「それ」は当たり前のことなのに
世界は「それ」を
犠牲と言う。失うものは大きいと言う。
この世界が差し出す卑小なものでは、心は決して満たされない。
幻想が無だからこそ、世界が無いからこそ
神との分離が起きていないからこそ
私は真理で満たされることができる。
奇跡講座マニュアル編(中央アート出版社)
P93
M-13.2:1~3
「犠牲の真の意味は何か」
この世界が与えることのできるものなど何もないという事実を悟り、受け入れるには、多大な学びを必要とする。
無を犠牲にすることに、どのような意味があり得るだろうか。
それには、そうした犠牲のゆえにあなたの持ち分が減るという意味にはなり得ない。
M-13.4:1~6
神の教師たちが世界の楽しみを諦めるのを残念に思うことはあり得ない。
苦痛を諦めることは犠牲だろうか。
大人が子供の玩具を諦めるのを嫌がるだろうか。
自らの心眼ですでにキリストの顔を垣間見た者が、場を懐かしんで振り返ったりするだろうか。
世界とその中にある病苦のすべてを逃れてきた者は、世界を咎めようとして振り返ったりはしない。
それどころか、世界の価値観が彼に要求していた犠牲のすべてから自分が自由であることを、彼は喜ぶに違いない
(補足:神の教師とは、赦しを実践する者のことです。教える者と教えられる者は、同一である一者です。)