11月の合宿は、1日延泊(3泊4日)があったので昨日終わりました。
11月も、相当な合宿だったように感じます。
最初は合宿参加に、おっかなびっくりだった(今回初参加だった)Kさんも、いろいろと受け取られてゆかれました。
どうやら引き続き12月も参加なさるようです。
わたしは、合宿が終わった昨夜
イエスと五井先生に全託してゆくことを深く決心し、彼らに宣言しました。
(常に常に、今出来る段階までの全託をしていますから、次の段階の全託です。清水の舞台から飛び降りるどころではない覚悟から。。ようやくでした。)
そしたら、即座にそれに相応しいであろう極端なレッスンがやってきました。
明らかに、彼ら(イエス・五井先生・聖霊)が送り込んで来たのだとわかります。
放蕩息子の物語で、帰って来た息子を無条件に歓迎した父の想い。
実相の神の想いが降って来ます。
ある縁があって、わたし自身にとっては見ず知らずの人「Eさん30代」を
我が家に、しばらくの期間(期間は不明)招き入れることになりました。
Eさんは困窮のさなかにいますから身の回りの最低限のものを、これから私たちが買い揃えることになります。
「奇跡講座」の存在すらご存知ない方です。
今朝、それを知らされて「YES」としか答えが来ませんでした。
そして、招き入れるそのEさんは、彼ら(イエス・五井先生・聖霊)から送り込まれた彼ら自身なのでした。
会う前から、それを感じ取りました。
この関係性から、いかに神は神の子のことを想い、愛し、慈しんでいるのかを学ぶことになるようです。
ただ、そうであるということがわかって
ベッドの中で、お風呂の中で、号泣しました。
Eさんを、一切の損得勘定なしに、無条件に、我が家に招き入れるというレッスン。
あとは聖霊に、イエスに、五井先生に、従うほかありません。
招き入れるのも、除外するのも、常に自分自身なのですね。
よそ者はいない。
「招き入れるのも、除外するのも、常に自分自身なのだよ。」
彼らは、そう言っているのでしょう。
驚くことに、家族の誰1人も除外を選んでいないということ
これも今のわたしの反映なのですね。
2016年の学び(の、伸びしろ)は、まだまだあるようです。
(聖霊、休ませねーなー。。)
この記事には続きがあります。
2017.05.10その後☆放蕩息子の物語を思い出す、極端なレッスン。
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11月も、相当な合宿だったように感じます。
最初は合宿参加に、おっかなびっくりだった(今回初参加だった)Kさんも、いろいろと受け取られてゆかれました。
どうやら引き続き12月も参加なさるようです。
わたしは、合宿が終わった昨夜
イエスと五井先生に全託してゆくことを深く決心し、彼らに宣言しました。
(常に常に、今出来る段階までの全託をしていますから、次の段階の全託です。清水の舞台から飛び降りるどころではない覚悟から。。ようやくでした。)
そしたら、即座にそれに相応しいであろう極端なレッスンがやってきました。
明らかに、彼ら(イエス・五井先生・聖霊)が送り込んで来たのだとわかります。
放蕩息子の物語で、帰って来た息子を無条件に歓迎した父の想い。
実相の神の想いが降って来ます。
ある縁があって、わたし自身にとっては見ず知らずの人「Eさん30代」を
我が家に、しばらくの期間(期間は不明)招き入れることになりました。
Eさんは困窮のさなかにいますから身の回りの最低限のものを、これから私たちが買い揃えることになります。
「奇跡講座」の存在すらご存知ない方です。
今朝、それを知らされて「YES」としか答えが来ませんでした。
そして、招き入れるそのEさんは、彼ら(イエス・五井先生・聖霊)から送り込まれた彼ら自身なのでした。
会う前から、それを感じ取りました。
この関係性から、いかに神は神の子のことを想い、愛し、慈しんでいるのかを学ぶことになるようです。
ただ、そうであるということがわかって
ベッドの中で、お風呂の中で、号泣しました。
Eさんを、一切の損得勘定なしに、無条件に、我が家に招き入れるというレッスン。
あとは聖霊に、イエスに、五井先生に、従うほかありません。
招き入れるのも、除外するのも、常に自分自身なのですね。
よそ者はいない。
「招き入れるのも、除外するのも、常に自分自身なのだよ。」
彼らは、そう言っているのでしょう。
驚くことに、家族の誰1人も除外を選んでいないということ
これも今のわたしの反映なのですね。
2016年の学び(の、伸びしろ)は、まだまだあるようです。
(聖霊、休ませねーなー。。)
この記事には続きがあります。
2017.05.10その後☆放蕩息子の物語を思い出す、極端なレッスン。
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幻想をどんどんつくりだして、
赦して、自分が癒されたいだけではないかな?
作り出したらソレ永遠に続きますよね・・
こんにちは。
コメントありがとうございます(*^^*)
ご自身は、この文章をご覧になってどのように感じ、どのように考えたでしょうか?
その考えは、どこから来ているのでしょうか?
その考えは、
即、いまここで自分を幸せにしてくれるものでしょうか?
☆そこにフォーカスをなさってみると良いだろうな〜。
私はそんな風に感じます。
大橋のりこという兄弟が、
何を言い、何を感じているのか?
どう行動しているのか?
が、問題ではありません。
そこにはそのような人はいません。
「夢見る一者が、無の世界をどのように見るのか?」=「あなたが、無の世界をどのように見るのか?
そこのみが大切です。
ここでは誰もが、あらゆる映像を現しています。
しかし、映像には問題が無いんです。
十字架刑が問題では無いんです。
心に映し出されているあらゆるすべて(映像)を、
「私」が愛しているかどうか?
そして、その「私」も、あらわれるすべても「一つ」であり
現れは単なる象徴に過ぎず、
本当に起きていることは
「いまここで全面的に神に愛されている。」
そのことに気がついてゆき
その事実に感謝して
「夢見る私」が、神の愛を完全に受け入れてゆくこと。
それのみが、私たちに求められていることです。
Sayuriさん自身が、自分の思考を頼りにして生きることから
聖霊を頼りにして生きてゆく道のりを、いずれこれから歩まれるはずですし
それはすでに開かれていますね。
これからもどうぞ、ご自身の聖霊に尋ねていって下さいね☆
Sayuriさんの真の心の解放をお祈りしています。ありがとうございます。