「罪はある。という世界」とは
罪はある。という信念を持つ心が見ている世界。
それは自分の思考、信念。
たとえば、お店の棚に陳列されていた器aに
通りすがりの客Aの手が、ふと触れて割れた。
というシーン。
その器aは、陳列棚の中央ではなく端っこに置かれていたため
Aが落とさずとも、他の客が割ったであろうという設定。
約30分前
販売員Bが、その器aや他の商品を陳列しかけていたところで
上司Cに急用で呼び出され、器をそのまま忘れてしまっていた。
この設定の場合も、ほかのどのような場合も
「罪」=「処罰されるべき悪」が実在しているはず。という認識の中では
かならず誰かに「罪」が付与されなければならない。
このシーンを見た
Dさん、Eさん、Fさん、Gさんそれぞれが、
誰か・もしくはどれかに罪を与える必要性を感じていれば
必ず投影する。
Aに投影するかもしれない。
Bに投影するかもしれない。
Cに投影するかもしれない。
器に投影するかもしれない。
通路の広さに投影するかもしれない。
棚に投影するかもしれない。
運命に投影するかもしれない。
結局、やりたいことは
自分が見た(考えた)ストーリーが真実であって、本当にその通りに起きていて
自分が見たいままに(考えたいままに)、罪をどこかにあてがう。
ということ。
「何かを否定したい。」
ということ。
そうやって、また何億年でも夢見を繰り返そうとしている。
正しさ、正当性を望むのか?
幸福を望むのか?
幸せを望むなら
自分のすべての解釈を放棄しなければならない。
「罪」=実在していない。それは「訂正されるべき誤り」である。
これが真実なのだから。
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罪はある。という信念を持つ心が見ている世界。
それは自分の思考、信念。
たとえば、お店の棚に陳列されていた器aに
通りすがりの客Aの手が、ふと触れて割れた。
というシーン。
その器aは、陳列棚の中央ではなく端っこに置かれていたため
Aが落とさずとも、他の客が割ったであろうという設定。
約30分前
販売員Bが、その器aや他の商品を陳列しかけていたところで
上司Cに急用で呼び出され、器をそのまま忘れてしまっていた。
この設定の場合も、ほかのどのような場合も
「罪」=「処罰されるべき悪」が実在しているはず。という認識の中では
かならず誰かに「罪」が付与されなければならない。
このシーンを見た
Dさん、Eさん、Fさん、Gさんそれぞれが、
誰か・もしくはどれかに罪を与える必要性を感じていれば
必ず投影する。
Aに投影するかもしれない。
Bに投影するかもしれない。
Cに投影するかもしれない。
器に投影するかもしれない。
通路の広さに投影するかもしれない。
棚に投影するかもしれない。
運命に投影するかもしれない。
結局、やりたいことは
自分が見た(考えた)ストーリーが真実であって、本当にその通りに起きていて
自分が見たいままに(考えたいままに)、罪をどこかにあてがう。
ということ。
「何かを否定したい。」
ということ。
そうやって、また何億年でも夢見を繰り返そうとしている。
正しさ、正当性を望むのか?
幸福を望むのか?
幸せを望むなら
自分のすべての解釈を放棄しなければならない。
「罪」=実在していない。それは「訂正されるべき誤り」である。
これが真実なのだから。
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