ストーリーは「無」
ほんとうに、笑うくらい例外なく、、
果てしなく。。。
無なんですね。
赦しの実践をしていると、
この実践自体は起きているような 笑
「有」ということにしてしまいがちなんだけど
いやいや。。
例外なく、無なんですね。
分離は起きていないから
世界は無いし
自分も他者もいない。
聖者も、覚者も、愚者もいない。
今も、完全な愛・天国の中安らいでいる。
それだけが真に起きている。
真の赦しは、分離(自我)から見るのではなく
全一(聖霊)から見るためのもの。
その正気な心に一致してゆき
「なあんだ。何もほんとうに起きていないんじゃないか。」
「すべては、自分のイメージで、、、罪と分離ありきの、正当化ゲームで誇大妄想劇だったんじゃあないか。」
ちゃんちゃん!!
ということに、気が付いて
大笑いしながら
な~~~んだ~!!!か~~~えろう☆
と、なってゆくこと。
ストーリーありきで、実践しようとすると
分離ありき、罪ありきで実践することになっちゃって
すんごく、ややこしく、複雑になる。
自我は、シンプルをシンプルに見ることが不可能ですね。
その、自我の見方を、放棄すること。
全一から見ること。
聖霊と見ること。
とても大切ですね。
コースの実践に関して出てくる、様々な意味付け・判断・思考も
シナリオに書いてあれば、沢山やってくるけれど、
それはつかむものではない。
どんなに正しそうに見えても、それは、聖霊に捧げるもの。
天国には、そんなもの無いのだもの~~~♪
神の子は、ただ愛されているだけで、その完全な愛の中 悦んでいるだけで
完璧な幸せと自由を永遠に、無限に感じているだけだから。
God is以外の意味は、すべて無意味なんだよ☆
そうやって、自分に教えることですね~~~。