香港さんもブログで書いてくださっていたので、そのあたりについて触れてみたいと思います。
(いつも楽しい体験のシェアをありがとうございます^^)
意識の目覚めのプロセス中に、様々な体験が起きてゆくことはよくあることでもあるし
ほとんど体験しないまま進んでゆく(準備が整うまでは)場合もありますね。
― あらゆる奇跡体験や啓示体験は、非常にすばらしいものなのですが
それと同時に、「気を付けなければならない。」ということを肝に命じよう。 ―
というメッセージを、何度も聖霊から釘をさされているので。。
どうしても、それについて共有する必要はあるようです。
(もちろん、あらゆる体験は感謝から受け取っていれば良いですね)
これは、てっちゃんもよく たとえ話として話してくれることなのですが、、
あらゆる方面の 宗教家の方たちは きっとそれなりの体験をしているんだろうと
しかしながら、ともすると
その体験している「私」が、神の座を自分のものとして
おかしな方向に行ってしまった例は、山ほどあるのだろうと
(極端な例はサリン事件や婦女暴行など、、)
私たちは、本当に神が創造なさったままの神の子そのものなので
その真理を思い出す瞬間や、垣間見る瞬間が、頻繁にあっても普通なんだ。
誰にでもありえるんだ。ということで
その体験をしたと思っている「私」も神(もしくは聖霊)に捧げていって、私不在になってゆく。(精神的に)
きっと、
そのことの方が、奇跡体験や啓示体験をした その先に大切な心の姿勢なのだろうなと感じるんです。
でないと、逆に「私」や「自我」の存在感が強化されてしまう例はとても多いのだと思います。
※もしも純粋非二元からの、真の目覚めを目指していないのであれば、それはそれで良いと思います。
(非二元、ノンデュアリティなど)
結局のところ、ここで夢を見続けている状態のスタートが
神が源で原因であり、その結果が被造物・神の子である。
↑という、真の実相を否定して
「自分が神の座を横領し、自分が源になって、
自分の好きなように実相を変える力が自分にある!そしてその通りにする!」
という傲慢さから来ているのだから。
その傲慢さは、潜在意識の奥深くに隠し続けているままなので
顕在意識として 普段はそれに気が付きませんが
意識として相当目が覚めていっても、
その傲慢なチャレンジは今もなお継続されようとしている。
ということを認めることは大切だなと、、
とても感じています。
奇跡講座テキスト編 中央アート出版社 P496
(T-18.2.5:8~12)
あなたは目を覚ますかに見え、そのとき、夢は消えている。
だが、あなたが認識できていないことは、夢の原因となったものは、
夢と一緒に消えてしまったわけではないという点である。
実在しない別の世界を作り出したいという願望は、依然としてあなたに残っている。
そしてあなたが目覚めるかに見えるときに目の前にあるのは、
夢の中で見るものと同じ世界の別の形態に他ならない。
「夢の原因となったもの」
とは、観察者意識のことであり、純粋意識、セルフ、ライフ、などと呼ばれていますね。
コース用語で言うと分離した心、分裂した心、あなた..etc
「夢の原因となったもの」は、
夢・幻想を作りたい願望そのものであり、分離の始まりなので
今度は、その私が、自我からではなく聖霊から学び贖罪(※1.キリスト教の贖罪のことではありません)
を受け入れていって、神へと向かってゆくレッスンが必要なんですね。
それには、「どうしても見たくなかったもの」に、目を向けてゆく必要があるのだと思います。
自我の隅石を見ないでいるということは、神を見ないでいる。ということなんですね。
徐々に、それができるようになるための日々の赦しのレッスンなのでしょうね☆
「これからが本番だぜい!!♪」
※1
奇跡講座による「贖罪」とは「罪と罪悪感の実在性を信じる信念を訂正すること」です。
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(いつも楽しい体験のシェアをありがとうございます^^)
意識の目覚めのプロセス中に、様々な体験が起きてゆくことはよくあることでもあるし
ほとんど体験しないまま進んでゆく(準備が整うまでは)場合もありますね。
― あらゆる奇跡体験や啓示体験は、非常にすばらしいものなのですが
それと同時に、「気を付けなければならない。」ということを肝に命じよう。 ―
というメッセージを、何度も聖霊から釘をさされているので。。
どうしても、それについて共有する必要はあるようです。
(もちろん、あらゆる体験は感謝から受け取っていれば良いですね)
これは、てっちゃんもよく たとえ話として話してくれることなのですが、、
あらゆる方面の 宗教家の方たちは きっとそれなりの体験をしているんだろうと
しかしながら、ともすると
その体験している「私」が、神の座を自分のものとして
おかしな方向に行ってしまった例は、山ほどあるのだろうと
(極端な例はサリン事件や婦女暴行など、、)
私たちは、本当に神が創造なさったままの神の子そのものなので
その真理を思い出す瞬間や、垣間見る瞬間が、頻繁にあっても普通なんだ。
誰にでもありえるんだ。ということで
その体験をしたと思っている「私」も神(もしくは聖霊)に捧げていって、私不在になってゆく。(精神的に)
きっと、
そのことの方が、奇跡体験や啓示体験をした その先に大切な心の姿勢なのだろうなと感じるんです。
でないと、逆に「私」や「自我」の存在感が強化されてしまう例はとても多いのだと思います。
※もしも純粋非二元からの、真の目覚めを目指していないのであれば、それはそれで良いと思います。
(非二元、ノンデュアリティなど)
結局のところ、ここで夢を見続けている状態のスタートが
神が源で原因であり、その結果が被造物・神の子である。
↑という、真の実相を否定して
「自分が神の座を横領し、自分が源になって、
自分の好きなように実相を変える力が自分にある!そしてその通りにする!」
という傲慢さから来ているのだから。
その傲慢さは、潜在意識の奥深くに隠し続けているままなので
顕在意識として 普段はそれに気が付きませんが
意識として相当目が覚めていっても、
その傲慢なチャレンジは今もなお継続されようとしている。
ということを認めることは大切だなと、、
とても感じています。
奇跡講座テキスト編 中央アート出版社 P496
(T-18.2.5:8~12)
あなたは目を覚ますかに見え、そのとき、夢は消えている。
だが、あなたが認識できていないことは、夢の原因となったものは、
夢と一緒に消えてしまったわけではないという点である。
実在しない別の世界を作り出したいという願望は、依然としてあなたに残っている。
そしてあなたが目覚めるかに見えるときに目の前にあるのは、
夢の中で見るものと同じ世界の別の形態に他ならない。
「夢の原因となったもの」
とは、観察者意識のことであり、純粋意識、セルフ、ライフ、などと呼ばれていますね。
コース用語で言うと分離した心、分裂した心、あなた..etc
「夢の原因となったもの」は、
夢・幻想を作りたい願望そのものであり、分離の始まりなので
今度は、その私が、自我からではなく聖霊から学び贖罪(※1.キリスト教の贖罪のことではありません)
を受け入れていって、神へと向かってゆくレッスンが必要なんですね。
それには、「どうしても見たくなかったもの」に、目を向けてゆく必要があるのだと思います。
自我の隅石を見ないでいるということは、神を見ないでいる。ということなんですね。
徐々に、それができるようになるための日々の赦しのレッスンなのでしょうね☆
「これからが本番だぜい!!♪」
※1
奇跡講座による「贖罪」とは「罪と罪悪感の実在性を信じる信念を訂正すること」です。
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