殺戮している者も
殺害されている者も
それを見ている者も、批判する者も、同感するものも
同じ一者であり、
これが自分が自分におこなっている夢であって
心のレベルで、
あらゆる形態に見せかけた形のレベル・結果の世界で、永遠と思えそうな時間の中で、
これが、ただただ繰り返し続けられている。
無意識の心の中での決断によって、繰り返し続けられている。
自我からのレッスンとして、そこから学んでいるか?
聖霊からのレッスンとして、そこから学んでいるか?
私たちは、必ず、このいずれか からの学びを受け入れている。
ということは、
自我にとっては知りたくもないし、見たくもないカラクリだけれども
そこに、急速な救いの道がある。
決して勝つことの無い戦闘を、ひたすら繰り返したいだけの者。
憎悪が動機で、その憎悪は、敵に対する憎悪だ。
と、、うまく見せかけられているけれども
自分自身に対する憎悪に他ならない。
憎悪の夢も、特別な幸せを体験する夢も、
分離を長引かせたい動機からの、分離の夢。
それとは真反対の、夢を終わらせるための夢経由でのみ
本当の幸せがもたらせられる。
それは、決して避けられない。
「いつにするか?」そこにのみ、自由がある。
↓2015/10/26(44分あたり〜) 、2015/10/31(1時間あたり〜)の講義内容にも関連しています☆
奇跡講座テキスト編P142〜143(中央アート出版社)
第6章、セクション1「十字架刑のメッセージ」段落9、10、11より
(ここでいう 私とは、イエスのことです。あなたとは、この夢を見ている私たちのことです。)
T-6.1.9
私は、あなた方と私自身のために、自我の判断によれば最も残虐な猛攻撃とされるものですら、問題にならないと実証することを選択した。
世界がこれらの事柄を判断するところによれば、そして神がそれらを知るところとは違う見方によれば、
私は裏切られ、見捨てられ、むち打たれ、傷つけられ、そして最後には殺された。
これは、ひとえに他の者たちが私に投影したことによるのは明らかであった。
私は誰をも傷つけたことはなく、多くの者を癒したからである。
T-6.1.10:1〜4
私たちは同じ体験をする必要はないが、それでも学ぶ者として対等である。
あなたが私の体験から学び、それによって再び目覚めることができるとき、聖霊は喜ぶ。
それが、それらの体験の唯一の目的であり、私が「道であり、真理であり、生命である」と知覚され得る唯一の方法である。
あなたが一つの声だけを聞くとき、あなたは決して犠牲を払うように求められはしない。
T-6.1.11:5〜7
私が学んだがゆえに教えなければならない一つのレッスンは、聖霊の判断にそぐわないどのような知覚も正当化できないというものである。
私はこれが真実だということを極端な事例で示すことを引き受けたが、その理由は単に、怒りや猛攻撃に屈服してしまいたくなる誘惑が
それほど極端でない状況に居る者たちにとって、それがよき補助教材として役立つからであった。
私は、神の子の誰もが苦しむべきではないということを、神と共に意志している。
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殺害されている者も
それを見ている者も、批判する者も、同感するものも
同じ一者であり、
これが自分が自分におこなっている夢であって
心のレベルで、
あらゆる形態に見せかけた形のレベル・結果の世界で、永遠と思えそうな時間の中で、
これが、ただただ繰り返し続けられている。
無意識の心の中での決断によって、繰り返し続けられている。
自我からのレッスンとして、そこから学んでいるか?
聖霊からのレッスンとして、そこから学んでいるか?
私たちは、必ず、このいずれか からの学びを受け入れている。
ということは、
自我にとっては知りたくもないし、見たくもないカラクリだけれども
そこに、急速な救いの道がある。
決して勝つことの無い戦闘を、ひたすら繰り返したいだけの者。
憎悪が動機で、その憎悪は、敵に対する憎悪だ。
と、、うまく見せかけられているけれども
自分自身に対する憎悪に他ならない。
憎悪の夢も、特別な幸せを体験する夢も、
分離を長引かせたい動機からの、分離の夢。
それとは真反対の、夢を終わらせるための夢経由でのみ
本当の幸せがもたらせられる。
それは、決して避けられない。
「いつにするか?」そこにのみ、自由がある。
↓2015/10/26(44分あたり〜) 、2015/10/31(1時間あたり〜)の講義内容にも関連しています☆
奇跡講座テキスト編P142〜143(中央アート出版社)
第6章、セクション1「十字架刑のメッセージ」段落9、10、11より
(ここでいう 私とは、イエスのことです。あなたとは、この夢を見ている私たちのことです。)
T-6.1.9
私は、あなた方と私自身のために、自我の判断によれば最も残虐な猛攻撃とされるものですら、問題にならないと実証することを選択した。
世界がこれらの事柄を判断するところによれば、そして神がそれらを知るところとは違う見方によれば、
私は裏切られ、見捨てられ、むち打たれ、傷つけられ、そして最後には殺された。
これは、ひとえに他の者たちが私に投影したことによるのは明らかであった。
私は誰をも傷つけたことはなく、多くの者を癒したからである。
T-6.1.10:1〜4
私たちは同じ体験をする必要はないが、それでも学ぶ者として対等である。
あなたが私の体験から学び、それによって再び目覚めることができるとき、聖霊は喜ぶ。
それが、それらの体験の唯一の目的であり、私が「道であり、真理であり、生命である」と知覚され得る唯一の方法である。
あなたが一つの声だけを聞くとき、あなたは決して犠牲を払うように求められはしない。
T-6.1.11:5〜7
私が学んだがゆえに教えなければならない一つのレッスンは、聖霊の判断にそぐわないどのような知覚も正当化できないというものである。
私はこれが真実だということを極端な事例で示すことを引き受けたが、その理由は単に、怒りや猛攻撃に屈服してしまいたくなる誘惑が
それほど極端でない状況に居る者たちにとって、それがよき補助教材として役立つからであった。
私は、神の子の誰もが苦しむべきではないということを、神と共に意志している。
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