奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

怒りと、憎悪の矛先

2017年12月01日 17時34分55秒 | ACIM奇跡のコースという生き方
よく、神に対してものすごい憎悪がある。とか

イエスに対してものすごい憎悪がある。とか

聖霊に対しての憎悪や怒りがある。とか

そういうことを兄弟たちから耳にする。


どういうわけか、私の中はちょっと違う。


神(実在)に対しては、謝罪の想いがあり

怒りや憎悪の矛先は、自分自身(幻想)に対して向けられている。


確かに、自我は神の上に立つことを欲したが

その神は、すでに幻想の神であって、実在の神に対してではなかった。

実在の神に対しては、いかなる幻想を思い描くことができない。


うまく言えないが、そういう感じなんだなあ。


汚すことができないんだよ。

実在のことも、実在の神の代弁者としての聖霊も、それと同一のイエスのことも

実際に汚すことは不可能。


だから、幻想である夢を見る者が憎悪し怒ることができる相手というのは

幻想の自分自身でしかありえない。


うまく言えないが、そういう感じ。



どう頑張ったって、神に対して投影というのが不可能なんだよな。


だから、神と思っている神は、神じゃなくて

自分で祀り上げた神に過ぎなかった。


彼と思っていた彼は存在していなかった。


一度も汚されたことのない、一度も歪められたり投影されたことのない

実在の神は、ずっとここにいらっしゃったのでした。



なんだろな、そういう感じ。



だから、私は神に怒りを向けることは実際に不可能で

イエスに対しても絶対に不可能なんだよね。



そういう感じ。


その不可能さを、そのまま知覚しているのだろうな。

なんだか、そういうことらしい。



私は、彼を愛することしかできなかった。








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