Facebookというものは、便利なもので
○年前の今日は、あなたはこんな投稿をしていたんだよ。
と、わざわざ教えてくれます。
3年前の私は、写真一杯に赤福餅を撮影してFacebookで何かをシェアしていました(笑)
「なんで赤福?」と記憶をたどったら、
たぶん、名古屋リトリートの帰りに買ったんだわ。と
ああ、、、名古屋ではじめてやったセミナー。
もう3年も前のことなんだな。いや、もっと昔のことのよう。
3年前の今頃は、明らに私の心の転換期でした。
2013年後半~2014年後半、2015年6月は、絶望的挫折三昧の時期でしたね。
今思うと、それは明らかに祝福でした。
当時は「出来事での挫折・形のレベルによる挫折&絶望」
だと考えている部分が、、、
まだまだまだまだ残っていましたが
そうではなく、心のレベルの、
あの往古の一瞬の破滅の追体験だったわけです。
いかに、破滅の決断を自分がしたと考えているかを知るために
形のレベルでの象徴が必要だったのです。
つい最近も、目玉が飛び出そうな
「はあ~~~~???????」という象徴がありました。
「そんなことって、悲惨すぎる。悲惨すぎる。悲惨すぎ」(私自身のことではないです)
と、絶望的挫折と言えそうなストーリーが目の前に入ってきました。
とても素晴らしいのは、昨年末・今年1月くらいから、
パパジ、ムージ、アジャシャンティの書籍をむさぼるように読み続けてきて、
特にアジャシャンティの具体的な言葉が聞こえてきたり、
パパジの臨在を心の中で感じるようになっているのですが
「それは歓迎すべきものです」
という黄金の光の粒子が、
絶望的挫折感に対して降り注いでいるかのように感じ始めます。
なぜ、「ようこそ!」なのでしょう?
それでこそ、私が夢見を諦めここから退こうと
決意しうるからです。
私に必要なのは、この世界での栄光ではありません。
そんなものはいらないんです。
それは悪夢の産物だからです。
私に必要なのは、神の栄光、神の輝きのみです。
それを、真に求め受け入れるには、自我は絶望し挫折しきる必要があるんです。
それは、苦しみに見せかけられていますが、実は神の御国の復活のための光の入り口なんです。
光の入り口が「私」に向かって開いています。
そこに、向かってゆこうではありませんか。
その中に、入ってゆこうではありませんか。
絶望・挫折を歓迎してしまった心は
イチかバチか、その開かれた入り口へ入る気になるものです。
「入った」と思った瞬間、
あちらからすべてが押しよせてきます。
そして、沈黙。
.
○年前の今日は、あなたはこんな投稿をしていたんだよ。
と、わざわざ教えてくれます。
3年前の私は、写真一杯に赤福餅を撮影してFacebookで何かをシェアしていました(笑)
「なんで赤福?」と記憶をたどったら、
たぶん、名古屋リトリートの帰りに買ったんだわ。と
ああ、、、名古屋ではじめてやったセミナー。
もう3年も前のことなんだな。いや、もっと昔のことのよう。
3年前の今頃は、明らに私の心の転換期でした。
2013年後半~2014年後半、2015年6月は、絶望的挫折三昧の時期でしたね。
今思うと、それは明らかに祝福でした。
当時は「出来事での挫折・形のレベルによる挫折&絶望」
だと考えている部分が、、、
まだまだまだまだ残っていましたが
そうではなく、心のレベルの、
あの往古の一瞬の破滅の追体験だったわけです。
いかに、破滅の決断を自分がしたと考えているかを知るために
形のレベルでの象徴が必要だったのです。
つい最近も、目玉が飛び出そうな
「はあ~~~~???????」という象徴がありました。
「そんなことって、悲惨すぎる。悲惨すぎる。悲惨すぎ」(私自身のことではないです)
と、絶望的挫折と言えそうなストーリーが目の前に入ってきました。
とても素晴らしいのは、昨年末・今年1月くらいから、
パパジ、ムージ、アジャシャンティの書籍をむさぼるように読み続けてきて、
特にアジャシャンティの具体的な言葉が聞こえてきたり、
パパジの臨在を心の中で感じるようになっているのですが
「それは歓迎すべきものです」
という黄金の光の粒子が、
絶望的挫折感に対して降り注いでいるかのように感じ始めます。
なぜ、「ようこそ!」なのでしょう?
それでこそ、私が夢見を諦めここから退こうと
決意しうるからです。
私に必要なのは、この世界での栄光ではありません。
そんなものはいらないんです。
それは悪夢の産物だからです。
私に必要なのは、神の栄光、神の輝きのみです。
それを、真に求め受け入れるには、自我は絶望し挫折しきる必要があるんです。
それは、苦しみに見せかけられていますが、実は神の御国の復活のための光の入り口なんです。
光の入り口が「私」に向かって開いています。
そこに、向かってゆこうではありませんか。
その中に、入ってゆこうではありませんか。
絶望・挫折を歓迎してしまった心は
イチかバチか、その開かれた入り口へ入る気になるものです。
「入った」と思った瞬間、
あちらからすべてが押しよせてきます。
そして、沈黙。
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