Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

霧の向こうに... 

2006-12-23 21:25:58 | 音楽・芸術・文学
きょうは今上天皇のご誕生日。1933(昭和8)年のお生まれ。皇后様は1934年のお生まれ。お元気でなによりです。

須賀敦子さん1929年生まれ、聖心女子大学文学部卒業ということは皇后様の先輩。1953年から71年までフランス・イタリアに長く暮らし、帰国後は上智大学教授もされた。このかたは皇后様になっていたかもしれない。だが、彼女は日本とイタリアにおいて小説より奇なりの人生を生きて、われわれにすばらしい精神上の贈り物を残された。
10年前の1996年暮れ、珠玉の作品がようやく世の中に現れ日本の読書人が気づいたときには、須賀さんにはもやは闘病に費やすだけの1年余の命しかなかった。

キリスト教の殻に閉じこもらない共同体、聖と俗の垣根を取り払った人間の言葉を話す場、広く世界に目をむけた活動をすることを目指した拠点、ミラノの「コルシア・デイ・セルヴィ Corsia dei Selvi書店」を彼女はソルボンヌから帰った日本で知る。
29歳で今度はイタリアに渡り、そして、とうとうたどりついた。

ミラノ、コルシア、ヴェネツィア、トリエステ、ユルスナール、一般向けに日本で生前に出たご本は、たったの、5冊であった。この十年でようやく、新聞に書かれたエッセイなどを集めた単行本や全集までが出るようになった。
このような文章と文学を、はたしてエッセイというのであろうか。時間によって熟成された出来事の記憶、想いをこめた作家や作品と自らの交錯、肉親や友人知人の物語、選び抜かれた言葉と流れる表現。散文なのか、叙事詩なのか。
ぼくは、これはエッセイなどではなく、ながーい詩、のようなもの、と思った。

コルシア書店などあるはずもない日本の地方都市、もはや、まともな書店は丸善ぐらい。
「文藝別冊 須賀敦子追悼特集」がおいてあった。追悼文にはイタリア人の文学者・友人も並ぶ。ここから、ほんの一部だが引用させていただき記憶にとどめたい。

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...でも、まず何よりも、日本とイタリアのあいだで敦子が果たした文化の橋渡しとしての役割の重要さを、それまであまり知られていなかった日本の作家をイタリアに紹介するためになしとげた仕事の大きさを、強調しておきたい。
その仕事は彼女の優れた翻訳だけではない。まだ国際的な評価を得ていなかった作家たちの作品の翻訳出版を、イタリアの出版社に納得させたのである。
1965年にボンピアーニBompiani社から刊行された、大岡昇平が序を寄せた日本文学アンソロジーは、将来にわたってきっとその名を残すことだろう。イタリアの読者は、すでに知られていた谷崎潤一郎、芥川龍之介、川端康成に加え、泉鏡花、国木田独歩、志賀直哉、井伏鱒二、井上靖、深沢七郎、中島敦、石川淳らに初めて接する機会を得たのである。
その頃、私は日本文学に熱中しだしてまだ数年だったが、755ページものこの分厚いアンソロジーを手にしたときの興奮は、今もはっきり覚えている。この本は私の前に、それまで考えてもみなかったすばらしい世界を開いてみせてくれたのである。1970年代の初めには敦子は安倍公房をイタリアに紹介し、さらに、谷崎潤一郎、川端康成の翻訳を続けた。それから、イタリア文学の日本語訳を手がけた。イタリア、日本でのこの二つの仕事の自然の発展として、敦子は彼女自身が作家であることを見出したのだった。...
(アドリアーナ・ボスカロAdriana Boscaro「私をおいて逝ってしまった友だち」 から)



...1971年の秋、41歳の須賀敦子は東京に帰ってきた。
「純粋な時間として考えると、六十年の人生のなかの十三年は、さして長い時間でないかもしれない。しかし、私にとってイタリアで過ごした十三年は、消し去ることのできない軌跡を私のなかに残した。二十代の終わりから、四十代の初めという、人生にとって、さあ、いまだ、というような時間だったから、なのかもしれない。(『ミラノ 霧の風景』215頁)
しかし、読者が彼女のイタリアをめぐる随筆を読むのには、あと二十年を要する。
 あるとき「日本へ帰って十年間はどん底だったわよ」「私、くず屋をしてたこともある」と出し抜けに言い出し、目をくりくりさせた。
...
須賀敦子の帰国は、「バラード神父からの再々の帰国の要請」があってのことらしい。イタリアでも日本のエマウスEmaús運動は連絡を取りつづけていたと思われる。夫もいなくなったイタリアをさびしく引き上げたのではなかったようだ。彼女はあくまで前向きな人だった。
「日本に帰ってきてよかったと思ったわ。日本の教会をみてると眠っているようだった。日本では、やらなきゃならないことが山積み。直接、肌に感じる仕事ができるかも知れない」

国際ワークキャンプに参加した若い仲間を組織して東京でヤングエマウスが誕生した。練馬区に「エマウスの家」をつくり、須賀敦子はその責任者として廃品回収を陣頭指揮した
「汚い仕事と思うでしょ。でもいちばん、人間が裸になれるんです。最も貧しい人を助けることによって、気がついたら自分自身がいちばん救われているんです。」
..こうして活動をする一方で、須賀敦子は大学世界でのキャリアも築いていった。
帰国直後は、慶應大学国際センター嘱託として翻訳に携わった。1972年より慶應大学でイタリア語を、73年より上智大学で日本文学を、78年より京都大学で現代イタリア語を教え、82年上智大学外国語学部助教授となった。翌83年からは東京大学で現代イタリア詩を教えている。81年には、ウンガレッティGiuseppe Ungaretti の研究で文学博士号取得。
60代に入ってからオリベッティOlivetti社の広報誌「SPAZIO」にエッセイを発表し、1990年白水社から『ミラノ 霧の風景』として発刊されるとその端正で魅力的な文章に読書家は瞠目し、女流文学賞と講談社エッセイ賞をダブル受賞した。
それからの須賀敦子は、上智大学教授、イタリア文学者としてだけでなく、随筆家として多忙であった。...

1996年の暮れ、数人で忘年会をしたとき、「年がかわったら入院するの」と、その病名も聞かされ、驚いた。...
「閉じこもった悲しみの日々にわたしが
自分を映してみる一本の道がある」
(森まゆみ「心に伽藍を建てる人」―須賀敦子の人生 から)



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以下を参考、引用しました。

「文藝別冊 須賀敦子追悼特集 霧の向こうに 河出書房新社 ISBN4-309-97566-6」
「ミラノ 霧の風景 須賀敦子 白水Uブックス 白水社 ISBN4-560-07357-2」
「コルシア書店の仲間たち 須賀敦子 白水Uブックス 白水社 ISBN4-560-07353-8」
「ヴェネツィアの宿 須賀敦子 白水Uブックス 白水社 ISBN4-560-07354-6」
「トリエステの坂道 須賀敦子 白水Uブックス 白水社 ISBN4-560-07355-4」
「ユルスナールの靴 須賀敦子 白水Uブックス 白水社 ISBN4-560-07356-2」
「塩一トンの読書 須賀敦子 河出書房新社 ISBN4-309-01542-5」

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須賀敦子―霧のむこうに

河出書房新社

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