新春は、箱根駅伝・「東京箱根間往復大学駅伝競走」。ことしで第83回にもなるのか。(箱根駅伝公式Webサイト。)
本日1月2日は往路・1区から5区まで108.0km。小田原から芦ノ湖までの最終5区の23.4km、4人抜きの今井正人主将の走りで、1区出遅れヒヤッとした順天堂大学が最終区でゴボウヌキ、往路優勝を飾った。最後のがんばりも、ほんとにいい顔だ。
今井君は2年のとき、このタフな5区で11人抜き、去年5人、4年生で最後の今年は4人抜いて順位をひっくり返した。小柄だが腿の筋肉ときれいな体型、揺れのない前傾フォーム、腰は少し高いが接地・着地が早いのでタン・タン・タンと地面に足を置いて疲労しない走り、とか。小田原からの標高差が八百数十m、彼は上りに強い「山登りの神様」と呼ばれているようだ。
福島の原町高出身、他校をつぎつぎ抜いていくが、抜かれるほうも一関学院・仙台育英出と、東北人としては複雑な感じ。順天堂大チーム、往路優勝インタビューでは皆話しっぷりも堂にいったもの、さすがテレビ・映像世代の若者たちだなあ。なによりも「箱根を走った」、この思いだけでもこれからの長距離の人生を乗り切ってゆけるだろう。
最近の学生は体力に最後の余裕があって、タスキをつないでもあまり倒れ込まなくなった。やっと渡して責任果たし崩れ落ちたり、時間制限のオーバーでがっくりするのを見ると、なんとも辛い。団体戦の良し悪しではある。
以前日本テレビの箱根駅伝ディレクタの話を聞いたことがあった。俯瞰カメラの設置ポイントやらのご苦労あったみたいだが、最近の映像は車載カメラから上位走者だけを撮りすぎかなとも思う。それよりも、民放のアナはよけいなことをしゃべりすぎる。懸命に走っているのを見て、何も言葉が言えなくなることはないのだろうか?(仕事でやるだけだから、本当に感激して涙が出たりしてはならないということなのか?これが、空虚な饒舌・絶叫調の作り声につながる。そんな音声で「感激」するほど、視聴者はバカではないのだ!)
うるさい時は、パソコン上のテレビ放送は音だけを消して、「Google Earth 」「Google Map」を見て遊んでいた。箱根のダラダラ坂上る道もクネクネ、地図で表現できる道路は、実はデフォルメされた記号みたいなもの。2万5千分の一の地図なら、1ミリの幅で描かれた道路は、幅員25メートルの大通り!?
1963年プレオリンピック、仙台・宮城野原のサブトラックで1万メートル競走の前、スポーツ刈りランニングシャツのランナーが黙々と一人でアップをしていた。翌年の東京五輪でマラソン銅メダルをとった円谷幸吉だった。その後「...お父様、お母様、幸吉はもう走れません...」との遺書を残して命を絶った。
彼は誰のために走ったのだろう。無責任な、マスコミと周囲のため?長距離走者の孤独...
ボクは、この五輪の聖火リレーの伴走者をやった。雨模様だった本番の日は、聖火を持った高校生のお兄さんが火を消さないように急ぎすぎ独走態勢!?に入ってしまった。必死についていったが中学生の僕らはずいぶん引き離されて、伴走者に見えなかったかもしれない。リレーで次にツツガナク繋ぐというのは、実に大変なことなのだ。
本日1月2日は往路・1区から5区まで108.0km。小田原から芦ノ湖までの最終5区の23.4km、4人抜きの今井正人主将の走りで、1区出遅れヒヤッとした順天堂大学が最終区でゴボウヌキ、往路優勝を飾った。最後のがんばりも、ほんとにいい顔だ。
今井君は2年のとき、このタフな5区で11人抜き、去年5人、4年生で最後の今年は4人抜いて順位をひっくり返した。小柄だが腿の筋肉ときれいな体型、揺れのない前傾フォーム、腰は少し高いが接地・着地が早いのでタン・タン・タンと地面に足を置いて疲労しない走り、とか。小田原からの標高差が八百数十m、彼は上りに強い「山登りの神様」と呼ばれているようだ。
福島の原町高出身、他校をつぎつぎ抜いていくが、抜かれるほうも一関学院・仙台育英出と、東北人としては複雑な感じ。順天堂大チーム、往路優勝インタビューでは皆話しっぷりも堂にいったもの、さすがテレビ・映像世代の若者たちだなあ。なによりも「箱根を走った」、この思いだけでもこれからの長距離の人生を乗り切ってゆけるだろう。
最近の学生は体力に最後の余裕があって、タスキをつないでもあまり倒れ込まなくなった。やっと渡して責任果たし崩れ落ちたり、時間制限のオーバーでがっくりするのを見ると、なんとも辛い。団体戦の良し悪しではある。
以前日本テレビの箱根駅伝ディレクタの話を聞いたことがあった。俯瞰カメラの設置ポイントやらのご苦労あったみたいだが、最近の映像は車載カメラから上位走者だけを撮りすぎかなとも思う。それよりも、民放のアナはよけいなことをしゃべりすぎる。懸命に走っているのを見て、何も言葉が言えなくなることはないのだろうか?(仕事でやるだけだから、本当に感激して涙が出たりしてはならないということなのか?これが、空虚な饒舌・絶叫調の作り声につながる。そんな音声で「感激」するほど、視聴者はバカではないのだ!)
うるさい時は、パソコン上のテレビ放送は音だけを消して、「Google Earth 」「Google Map」を見て遊んでいた。箱根のダラダラ坂上る道もクネクネ、地図で表現できる道路は、実はデフォルメされた記号みたいなもの。2万5千分の一の地図なら、1ミリの幅で描かれた道路は、幅員25メートルの大通り!?
1963年プレオリンピック、仙台・宮城野原のサブトラックで1万メートル競走の前、スポーツ刈りランニングシャツのランナーが黙々と一人でアップをしていた。翌年の東京五輪でマラソン銅メダルをとった円谷幸吉だった。その後「...お父様、お母様、幸吉はもう走れません...」との遺書を残して命を絶った。
彼は誰のために走ったのだろう。無責任な、マスコミと周囲のため?長距離走者の孤独...
ボクは、この五輪の聖火リレーの伴走者をやった。雨模様だった本番の日は、聖火を持った高校生のお兄さんが火を消さないように急ぎすぎ独走態勢!?に入ってしまった。必死についていったが中学生の僕らはずいぶん引き離されて、伴走者に見えなかったかもしれない。リレーで次にツツガナク繋ぐというのは、実に大変なことなのだ。