藤沢周平と江戸を歩く | |
クリエーター情報なし | |
光文社 |
藤沢周平「橋ものがたり」の解説は井上ひさしさんであった。この解説文の日付は昭和55年4月となっているから、用心棒日月抄、孤剣、立花登シリーズなど、その後繰り出されてくる藤沢作品をまだ目にされていない頃のものだと思われる。だが遅文堂さんについ寄り道させてしまう時代物の面白さだ。「橋ものがたり」では、人の出会いと別れの「橋」への着眼がみごと。
>>>>・・・さて、藤沢周平の小説は、ごぞんじのように大別して五つのジャンルにわけることができます。まず、『一茶』「檻車墨河を渡る』のような史伝もの、第二に直木賞受賞作『暗殺の年輪』のような御家騒動もの、第三が『鱗雲』のような下級武士の恋を描いた青春もの、そして第四が職人人情もの、第五が市井人情もの、おおざっぱですが、とりあえず以上の五つに分けた上で、故植草甚一氏風にいえば「雨の静かに降る日は、藤沢周平の職人人情もの、市井人情ものが一番ぴったりだ」ということになりましょうか。・・・ 「橋ものがたり 」の解説 井上ひさし
<<<<<
大晦日のきょうは雨模様、ニューヨークに行かずともあちこちのジャズクラブや路地裏にまで通じていた植草甚一さんを見習って、日暮れ竹河岸などの「市井人情もの」で、土地勘もない江戸下町あたりをさまよっていた。御用納め翌日、お向かいのご主人が亡くなった。定年直前、律儀な方だった.・・・こういうことばかりだったようなこの年・・・
この年も命ありけり除夜の鐘 紅白もなんだしなあ、あと数時間でことしも終わりだ。百足くんにお世話になって、サインまでいただいた本だから、なんとか年内に(!)書いとこう、間に合うか・・・
「藤沢周平と江戸を歩く」、この本は高橋敏夫先生と企画を持ちかけた呉(百足)光生先生の共著である。高橋先生の前書きにある藤沢さんの言葉によれば、江戸を書くのは、
>>>なぜ江戸時代を小説にするのかと自問しつつ、藤沢周平は書く。「庶民が歴史の表面に生き生きとして登場して来て、それ以前の、いわば支配者の歴史に、新たに被支配者の歴史が公然と加わってくる面白さのためかも知れない」(時雨のあと」のあとがき」<<< ということだ。
生涯で三百を越える作品という藤沢周平、たいへんな数だがいずれとも甲乙付け難い、こうなるとあなたはどれが好きかというところかもしれぬ。この三ヶ月ずっと藤沢さんを読んでいておおよそ8割までいったか。全集は重すぎるので第一巻だけでやめてしまったが文庫本でも60冊となると壮観だ。神谷玄次郎クンのがまだ届かないので今日は三屋清左衛門残日録を、もうボクもそろそろだからなあ・・・
藤沢さんの小説では、地図だけではなく脇道にそれることになる。道草でもなかろうが、今時はインタネットで見ることが出来る。たとえば浮世絵のサイトーアダチ版画。 北斎、広重、歌麿、写楽、国芳、清長、春信・・・一枚ずつ丹念に見てゆくと実にすばらしいものだ。
藤沢周平さんの作品群を場所で分けると北国の小藩ふくむ海坂藩ものと江戸ものとなる。今日のテーマ本は「藤沢周平と江戸を歩く」だから舞台は大江戸だ。高橋先生の藤沢作品の読みとその舞台の街をたどるのは百足氏。小説を読み流すにあたっていちいち地図をたどって読むのももどかしいしテンポと雰囲気優先に地理不案内のまま速読、あとでゆっくり再訪しようと思った。でも本所深川、両国吾妻橋、仙台堀などチンプンカンプンもなんなので、百足氏の真似をして「切絵図・現代図で歩く もち歩き江戸東京散歩」(人文社刊)にて、ホホウこの辺りなのかとやっていたが、登場人物たちにはすぐにマカレてしまった。いまの東京の街を足で丹念にたどって時空を超えて藤沢周平を味わうのもなかなかホネのようだ。まあ、ライター氏は足が百もあるのだからいいのだろうが・・・!?
この本で取り上げてくれた藤沢作品を、目次から辿ってあげておこう。さすがにこれだなという作品ばかり、だけど一度読んだぐらいじゃ、とても江戸を歩けぬよ・・・
1.広重『名所江戸百景』に人の哀歓を読む<市井もの1>
『日暮れ竹河岸』『飛鳥山』『猿若町月あかり』『桐畑に雨のふる日』
2.絵師たちの江戸<浮世絵絵師他>
『溟い海』『旅の誘い』『喜多川歌麿女絵双紙』『天保悪党伝』
3.探索のまなざし<捕物>
『霧の果て 神谷玄次郎捕物控』『愛憎の檻 獄医立花登手控え』『消えた女 彫師伊之助捕物覚』『ささやく河 彫師伊之助捕物覚』
4.出会いと別れと再会と<市井もの2>
『暁のひかり』『橋ものがたり』の「吹く風は秋」『おつぎ』『海鳴り』
5.もめごとを求めて<浪人もの>
『用心棒日月抄』『孤剣 用心棒日月抄』『凶刃 用心棒日月抄』『よろずや平四郎活人剣』
6.一瞬の決着にいたるながい彷徨<武家もの>
『回天の門』『刺客 用心棒日月抄』『漆の実のみのる国』『市塵』
青江又八郎、神名平四郎、彫師伊之助、おこうさん、立花登、牧文四郎・・・みんな、よかったね、いまどうしてますか・・・
・・・藤沢さんの小説にはいい人ばかり、ときに小悪党もいる、
でも・・・いちばんのワルでありんすお武家がた
=====
おおっと、このままじゃ周平との江戸探訪にならんだろう・・・ちょっとだけ、その雰囲気を書写してみた。藤沢周平さんの言葉で「いちばん忘れがたい小説」という「溟い海」を、百足氏の足と筆で散歩してみよう。(元旦に追記)
<<<< 「藤沢周平と江戸を歩く」 P60「溟い海」を歩く より引用、写真略。
老境に近づいた北斎は、広重という新しい才能の出現におびえ、嫉妬し、広重を暴力的に襲い、「腕の一本もへし折る」ことを企てる。深夜の上野、新黒門町の路地にならず者とともに待ち伏せを続ける。
新黒門町は、切絵図によれば、上野広小路が、御成街道に入ると急に狭くなる突き当たりにある。現在でいえば、上野松坂屋の南館の近くで、中央通りが緩やかにカーブする辺りということになる。
広重は、版元である錦樹堂伊勢屋利兵衛のところで接待をうけているはずだ。上野広小路には書籍商が何軒もあったことが知られているが、『江戸買物獨案内』という本によると、新黒門町に伊勢屋利兵衛が実在する。ただし、「諸国銘茶肆」である。
広重襲撃を諦めた北斎は、ならず者たちにいたぶられた身体で本所原庭町に向かって歩き出す。その道筋は小説では示されていない。そこで、途中に北斎自身のお墓がある誓教寺を経由する道を選ぼう。
まず、上野駅方向へ向かう。現代の「広小路」は、老若男女で溢れるようだ。一本右に入れば「アメ横」もある。駅前に蜘蛛の足のように歩道橋が走る。これを昇って浅草通りに降りる。すぐ左手に台東区役所が見える。ここはかつて広徳寺という禅宗のお寺だった。「おそれ入谷の鬼子母神」に続いて「びっくり下谷の広徳寺」なる地口があったほど有名なお寺だった。区役所のはずれに小さな公園があり、そこに広徳寺が区の依頼で移転した経緯を記した碑が残されている。禅宗のお寺らしく七言絶句が刻まれてもいる。
浅草通りに戻ると下谷神社だ。決して広くない境内だが、見るべきものはある。この神社は稲荷社で、明治になってから現在の場所に移転した。元の稲荷社の境内では「咄の会」が催された。これが現在の寄席の始まりとされる。境内の隅にある塚にも目を向けたい。小ぶりの塚だが、明らかに溶岩を積んだもので、富士塚の名残と思われる。
浅草通りに戻り、浅草方向へ。稲荷町交差点近辺は、仏具屋さんの街だ。そのなかに仏師のお店やすだれの専門店が紛れ込む。そんなお店のウインドウ・ショッピングも楽しい。
松が谷一丁目の交差点を右折して、道路を一本渡った左手に誓教寺がある。本堂の左手に北斎の胸像があり、その手前には生誕二百年の記念碑が建つ。富士山をかたどったしゃれたデザインだ。墓地は、庫裡の脇を抜けたところにある。「画狂老人卍墓」と刻された墓石の脇には、辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」も刻まれているが、見るのはちょっと難しい。
浅草通りにもどって、さらに浅草方向に歩く。菊屋橋の交差点を左折すると、かっぱ橋道具街に入る。あらゆる道具が売られていることで知られる。お店ののれん、看板、値段表、厨房の道具、皿や茶碗、伝票類等々。ずらりと並ぶ店々は、壮観であり、楽しい。
なかでも食品サンプルのお店は必見。魚の切り身、寿司、青物、ジョッキになみなみと注がれたビール、ケーキもあればパンもある。どれも本物そっくりで、食欲をそそられる。おみやげにはお寿司やケーキの携帯ストラップがお勧めだ。
この通りの適当な交差点を右折すれば、浅草寺界隈に出る。この周辺の楽しみ方は人それぞれだろう。昼間から営業している居酒屋もあれば、骨董品の店もある。天然温泉の銭湯で疲れを取ることもできる。奥山のかつての猥雑さには及ばないかもしれないが、その雰囲気を味わうことはできる。
ともかく浅草寺と浅草神社にお参りしたら、本堂裏手の駐車場の一角へ。戯作者・山東京伝の机塚もお参りしておこう。
いよいよ大川端に向かう。吾妻橋の向こうにはアサヒビールの本社ビルが見える。
橋を渡ったら、二股に分かれた道を右に。二本目の道を右に行くと霊光寺というお寺がある。この裏側が、北斎が暮らした原庭町ということになる。
向島まで足を伸ばし、すみだ郷土文化資料館に行くと、北斎縁の展示をみることができる。
<<<<
切絵図・現代図で歩くもち歩き江戸東京散歩 (古地図ライブラリー (別冊))クリエーター情報なし人文社
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます