今日は節分、明日2月4日は立春。そろそろ冬眠から覚めるか。「立春大吉」、母方のお爺さんの名は春吉。鉄砲、菊作り、椎茸づくり、将棋、競馬にパチンコ・・・小学1年のときの遠足の付き添いはこのおじいちゃんだった。初めて見たアメリカのキャラメル。急に現れた孫なのに、ずいぶんと面倒をみて可愛がってもらった。五右衛門風呂や熊の敷物もあったなあ。もう半世紀もたったかと、紫モクレンの木を眺めながら思う、枝には小鳥に呉れてやる干し柿だらけ、ツグミやメジロ、雀達、豪快に食べる奴はヒヨドリ。まあ小鳥さんに喜んでもらえれば、それでいいんだ。
女房はまたもいない、おばあちゃんは先週再々入院、小脳に転移、足腰立たず、この数ヶ月はドキドキの日々、ねこのたすけも大晦日などは大ピンチ。みな、心まではガンにならないよーとがんばってくれているのだが・・・
そして先週、びっくりしたのが、高校バレーの監督だった邦坊こと、早坂邦三郎先生のことであった。ここにアップしておくのはさしさわりも多いのだろうが、仲間うちのメール、どこまで行ったか・・・。体育会系でもこういう監督も居るのだなあ・・・と。尻位はたたかれたかもという主将だった佐々木といっしょに先生の病室でなんと16歳の僕等に再会したのだ。ほんの気持ちのお見舞いを手に握らせたら、すっかり小さくなった体でも先生の手は大きかった。食べられれば、大丈夫なのに。その後に行った2級下の優勝世代の櫻田には、「治って退院するんだ」と云っていたということで・・・、立春大吉だよ、せんせい。
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みなさまへ
佐竹でした。うかつにも早坂先生のご不調気づかず、本日御見舞いに行って参りました。
「先週、陳に定期で診て貰った時、邦坊はもう2ヶ月もXX病院に入院、あす療養病棟のあるXXX病院に転院すると聞かされた。・・・」
「年賀状の返事ないし、どうしたかと思ってたよ、あそこはウチで工事(内装)したから、場所も解ってる」
ということで、(1月)29日午後は休みを取り、佐々木支店長殿は外廻り営業なので彼の伝票でたらふく食べたあと、早坂先生の見舞いに行きました。加賀谷がXXの方に行ったときは、こっからは歩いても帰れるよなどと言ってまだまだ元気だったらしいのですが。
宮城県K郡XXX、XXX病院XX号室。
「せんせい、ぐーぐう寝てるぜ。こまったなあ、すこし待ってるか・・・」
「午餐の後は、患者は昼寝だよ・・・」
「おい、2ヶ月食べてないんだぜ・・。」
ちょうどよいぐあいに、看護師がシモの世話に出入りした。
「せんせーっ!」
「佐々木と来ました、成広さんのときは、あんなにげんきだったのに、食べれるといいのにね」(11月17日夜、成広さんが来仙され吉野さんの肝煎りで懇親会。早坂先生は特に成広さんに久しぶりに会った喜びを帰宅後午前2時過ぎまで奥様に話をされていたとか。吉野さんからいただいた写真も貼付しときます)
先生、入れ歯はずして、鼻あたりに管も付いてるから、眼でうなずくばかり。
「・・・」
おっと、サイドテーブルにりっぱな写真入れが2枚立てかけてある。裏には陳の署名入り。
「総体優勝のあとでの記念写真だ、郡山、都竹までいるなあ・・」と佐々木。
「せんせい、本郷さんが優勝カップかかえてますね、エンジ色のユニフォーム、4番水戸さん、あっ、水戸さんも心配してましたよ。5番、星、1番樋渡さん・・・陳だけがエンジ色で17番、佐々木以下、白い一高の体操着じゃねーか、」
「これ金子、駒板これだよ」
先生はどこに誰が写ってるか、ぜんぶわかっているようでした。もう1枚は40数年後の秋保、僕等の還暦祝いにきてくれたときのもので本日の二人はこの時さぼったので写っていません、すみませぬ。
「ぼくらで、さいしょのレギュラーは陳だったのかな」
「んだ・・・」先生、少し声が出た。
「むすこさんたちも立派になられて・・・」
「まさし、は・・、一週、間ごとに、来んの・・・」
「受験期だから暇か忙しいのか、ぼくら大学教授なんて誰もなれなかったから・・・」
「ん~ん、あんだ、だぢの、おかげ、だ・・・」
先生は、16、7歳の僕等も、還暦後の皆も来て呉れてるかというふうに、写真に向かっていいました。
もう。書けません。
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ずっとお世話をしている吉野さんや、陳には「誰にも云うな」と先生は口止めしてたらしいが、このところメールが行き交ってそろそろ皆さん、様子を見に行っている様だ。去年のあの日、平成24年11月17日夜は、ニコニコして何十年振りかであった成広先輩を囲む会にきてくれたのだ。先生、いつものようにすぐメモしておかないですみません、こんな感じだったね・・・あれっ、写ってるひとたち、先生含めてみなドクター江川(陳)の患者じゃないか!隣の調剤薬局で見せたら、奥さん、あれまっ!言っちゃいけないんだけど、大内先生は?ムスメ、一女だったの。早坂先生の奥様はこの前いらしたとき元気なかったわよ・・・
・・・
「成広さんは、どんなことされてたの?」
「くるまのフロントガラスには薄い膜が入ってるのよ、あれにかかわったり・・・、くるまといえば先生黄色いミニカに乗っておられましたね。」
「うんうん・・・」
「僕は、あれとか、マツダのキャロルとかをずいぶん磨かされました~」(のり坊、余計な事ばかり言う・・・)
何十年とやって来た専門の仕事というものは、人には、とくにネットなんかでは言えないことばかり。
「岡山の後楽園での成広さんの結婚式に、先生と行ったのよ」と星さん。「東北の民謡を一つと請われて、先生おれに振って寄越すんだっちゃ、冷や汗かいて、さんさ時雨うたった」
星さんは関西に居た玉造さんのとこか二人で成広さんのとこか、居候したこともあったらしい。「行ってらっしゃーい、とか云って、こっちは京都で遊んでんのよ。・・・」
いつだったかも、陶器にはまった邦坊先生は常滑か瀬戸の粘土を求めて名古屋に現れ玉造さんがお出迎え、このときはおみやげを山ほど持っていったようだ。「一高前の佐々源せんべいだ、なつかしいべ、食え・・・」みな割れている?、・・・お気持ちだけでも。
この日の主賓は、成広先輩だったから、先生は始終ニコニコ、口数は少ない。それでも、
「成広は、栄養失調かと思ってな・・・」
「寮にいたから、あまりいいもの喰ってなかったかも」と、成広さん。
お父上が当時宮城県北の細倉鉱山にいらしたから、成広さんは、仙台の寮から一高に通われていた。当時の寮の仲間の集まりがあって来仙され、それで今日の集まりとなったのだが、こちらの皆にも京名物を持って来てくれる律義な方だ。バレーは高校からはじめあんなに小さい体で一生懸命、主将もつとめられベスト4。同期には電気自動車の権威清水さん、いま、郡山の大学で先生している壮吉つぁん。
「ぼくは、55できっぱり仕事やめました・・・』
「あれっ?、せんぱい、わし、ってもう言わないの?」
中国地方のうまれの成広さんは、わかきころの言葉では自分のことを「わしは・・・」だったのだ。
「成広さん、仙台に会社のチーム連れて来られた時ありましたね、大学病院の向いの旅館にレモンかなんか差し入れにいったなあ」
「実業団の9人制の大会だったよ、よくおぼえているね」
あの旅館は、( × )⇨⇨ )×( ユニクロのXLも着れる様になったわと大はしゃぎの森公美子嬢のご実家だったはず。
「さたけクン、専門はなんだっけ?」
「専門と云っても、親爺死んで大学行けなかったし・・・、ソフトウエアなんかやってました・・・」
「ソフトねえ、なんか難しそうだが、結局は、読み/書き/そろばんだよ。いま、ぼく、もういちど、それやってる・・・」
成広さん、追いまくられる気がするとケータイも持たないので、この夜も一球会会長吉野先輩が連絡役。バイタリティの権化みたいな白髪会長は先生の入転院もずっと世話されている。
さて、会長の一級下の成広先輩、高校大学と仙台ですごされたので(幸か不幸か!?)始終邦坊先生と顔をつきあわて、たまには飯も食わせてもらったはず。ぼくらの代には、コーチとして来てくれていた。
「佐々木がブロック飛んだ時、腕が顔にぶつかって白い玉がポロッと出たから、目玉飛び出したかとびっくりしたよ」
「あはは、痰だったんですね、まあ、大事とって阿部前監督のいた安田病院にかつぎこんで、一晩入院させたっけ・・・」
先生のお宅に挨拶して旅立ち、その後40数年、立派なお顔(吉野会長の報告メールへの清水教授感想 RE:成広君とは長い間会っていませんでしたが、立派な紳士の風貌ですね・・・)で、いま再会できた。男の顔は履歴書。
先生は二次会の後帰宅されてから奥様に成広さんのことをえんえんと・・・朝方トイレで頭を少し打って、どうも肺炎気味と入院・・・ぶりかえし一進一退・・・これは、ずっと先生を支えている吉野さんが皆にメールしてくれた情報。吉野さんは成広さんの同期の壮吉つぁんにも、来れないかとお声をかけていたようで、ポパイみたいな体格に似合わず実に配慮が細やか、OB一球会会長。
「ジャンプの筋力付ける為に、卓球台や体育館の舞台にまで飛び乗る練習してたのよ、そしたら山形も何を思ったか真似して、失敗して弁慶の泣き所をしたたか打って皮がベロリ、泣いてたよ・・・肩の上に相手を乗せてスクワットをするのもやってたが、荒井さんの同期の小柄な高倉さんと組むとシメタと思った、たいへんだったはずの高倉先輩のほうは弱音を吐かなかったですね・・・」
(そういえば、一年生は冬直前のころ、邦坊に黒松か北根あたりの<俺のシャデコーのとこだという>鉄工場に連れて行かれ、エンジンオイルの缶にコンクリを詰めて鉄棒を入れてバーベルを作らされたっけ。缶の大きさがまちまちなので、大きなのが出来たときは、これをかつぐのに当たればたいへんだなあ~と思った。さだげ、バレーボール誌の全日本女子の体力測定のデータとウチのメンバーのと比べろとも仰せつかった。このヒョージュン・ヘンサ、つうのまでちゃんと出せえと言うから、せんせ、わかんのかいなとナマイキにも思ったことを白状しておく。速攻のためのボール廻しやポジション取りの絵は、監督ともども、どれほど書いたり皆で検討したことか、いまにして思えば、どれもこれもよかったことだった・・・ただ練習時間だけは、やたらと長過ぎたかなあ!?これは理不尽、これじゃ勉強出来ないなどとどの年代でも半分以上は退部してしまった。これもいまにして思えば、行き来も途絶えた彼等といまだに半世紀前の悪友と遊んで居る我々と、どれほどの差がついたのだろうか?やめていった連中のほうに運動能力の高いのが多かった。さだげ、引き止める子の順番が違うだろ、監督に言われたこともある。だが、2年下櫻田の代は他に行けば球拾いレベルの体格で優勝したのだ、彼等の努力を伝え聞けばあれは奇跡でもなんでもなかったろう・・・邦坊は確信していたのか想定外だったのか・・・誰か答えよ)
成広先輩、恐縮されているようですがそうではないですよ~、元気なときお会いできてほんとによかった。春が来たから、せんせい持ち直すことを祈る。だいだいが、そーっといなくなるような人じゃないんだ、あのひとは・・・ひたむきなレギュラーだった吉野会長、ホームドクタ両氏は「誰にも云うな」を素直に受け止めたようだが、マネージャだったのり坊氏の解釈では「たいくつだし淋しいから、みんなに早くうまく云ってくれや・・・」だなあ。
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(2013.2.4追記:おおっと、同期の早坂栄ちゃんからも先生の様子が来てたので、かってに転記させてもらうよ~)
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(2013.3、29追記:2月下旬2.24、こまいた君が東京から見舞いに来たが、同期の連中で先生の枕元で遊んでいた、としか思われない光景。このころは、せんせい、もう3ヶ月も飲まず喰わずだったというのに。)
昨年11月18日に早坂先生が誤嚥性肺炎を患い緊急入院して以来、肺炎が治まったのちに経口摂食が困難となり
消化臓器に管を挿入して直接栄養摂取による入院闘病中で、経口摂取までの回復が困難な状況と思われておりました。
しかし約1ヶ月ほど前から驚異的な回復をされて、経口の栄養補給が可能となり、今後は介護付きの老人ホームに
転院も検討されているようです。
このような回復を御家族が何よりも喜ばれて、多くの一高OBの見舞いに感謝されまして快気祝い(?)として
皆様個々にお礼される代わりに一球会宛に五万円の御寄付を頂きました。
お見舞いに行っていただきました皆様には私から御寄付の報告と佐竹さんからの近況報告を転送させて頂きました。
吉野より
-----Original Message----- From: 佐竹 則和
みなさまへ
さたけでした。昨日義母の納骨済ませてぐったりしたので本日は会社をさぼっていたところ、早坂先生奥様名義の病状報告お手紙が頂
き、見れば、
おおっ、先生、食べれるじゃないかと、いろいろ食べ物かきあつめて様子窺いに行って参りました。
フルーツゼリー等はいいようだが、気仙沼のさんまかんづめや海苔の佃煮などはまだちと無理か。生ものは置いてっちゃ駄目よ(看護
婦の言)。
三食おかゆらしいけど、昨日の食事状況、早坂邦三郎=<全><全><全>となっていたから、こりゃ完食ということですな、たいし
たもんだ。
数時間毎に、右横臥、左横臥、座位・・・と体位?を変えて、リハビリ中でもありました。
食事復活だからか、表情も良化、顔色もつやつやして来られたようでした。たいしたものですねえ・・・
「おお、いいカメラだな、いぐらだ?」
「2万ちょっとで手に入れました。ちょっと重いかな、軽いレンズつければね・・・」
「おれも、欲しいなあ・・・」
「せんせいは、仙高バスケでは、何回優勝したの?」
「10回!」
「コーチは、あれ、松島町長の・・・」
「おおはしツ!」
頭も、クリーンになっておりまするぞ、奥様からのお手紙読んでさしあげましたが、
「おい、疲れた・・・」
このあとは、おねえさん看護婦にすごいかっこうで抱かれてともにベッドに倒れ込みました!!
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