訪問日:平成26年5月11日(日)
出 発:地下鉄「ドーム前千代崎駅」
到 着:地下鉄「四ツ橋駅」
明治12年の郡区町村編制法制定により「北区」「南区」「東区」とともに4大区として誕生した「西区」。大阪市以外に全国11カ所ある「西区」の中でも最も古い歴史を有する。そして、明治22年の大阪市発足とともに初代大阪市役所が、ここ「西区」に置かれた。
しかし、おそらくは私鉄が入らなかったためだろう、後年、ターミナル・繁華街として発展することはなく、優雅な大阪市の発展に取り残されたように静かに佇んでいる。人口約8万5千人、ちょっとレトロな「近代大阪市発祥の地」を歩く。
大阪地下鉄「長堀鶴見緑地線」。既路線の延伸ではなく「花と緑の博覧会(花博)」を機に着工し、平成2年、「京橋駅」「鶴見緑地駅」間が部分開通。その後、「門真南駅(大阪府門真市)」から「大正駅(大阪市大正区)」までの15kmを結ぶ新線として平成9年8月、全線開通した。その「ドーム前千代崎駅」を午前10時10分、出発する。
1番出入口を出ると目の前には、駅名の由来となる「京セラドーム大阪」が現れる。平成9年「大阪ドーム」として建設された全天候型のドーム球場だ。
前を流れる「木津川」に沿って遊歩道が整備されているので、上流の「千代崎橋」まで川沿いを歩く。ちょっと「ドブ臭い」な。
「千代崎橋西交差点」を西へ。250mほどで「みなと通」と呼ばれる国道172号線「九条新道交差点」に出る。交差点東南角には「大阪市電創業の地」碑が立つ。昭和44年に廃線となった大阪市電は、明治36年9月、ここから築港までの約5kmから営業を開始したそうだ。
正面には「ナインモール九条」という商店街が。
しかし、アーケードには入らず右折。すぐに「茨住吉神社」前に出る。
寛永元(1624)年、九条島開発に際して勧請されたといわれる。昔、この辺りは島だったんだな。祭神は、もちろん「住吉四神」。今日一日の安全を祈願する。
参拝を終え、神社前の西側に位置する「九条1丁目」の町に入る。
ここは、大阪にいくつか残る旧遊郭のひとつ「松島新地」である。昔ながらの建物が残る。
「料理屋」と呼ばれる建物が並ぶ。
「松島会館」。「行政と組合」の「厳格かつ微妙」な関係により、旧遊郭は長い歴史を刻み続けている。
遊郭街に面した「中央大通」を左折。高架を走る地下鉄中央線「九条駅」の下に出れば、先ほどの「ナインモール九条」が「中央大通」で分断され、新たに「キララ九条」というアーケード街となる。
全長約530mのアーケードを進む。
途中、右から交わる「新栄会商店街」は、ちょっとレトロだ。
アーケードを抜けると、そこは「源兵衛渡交差点」。その先には「源兵衛渡」に代わって市民の足となっている「安治川隧道」の管理棟。
ここは、全国でも珍しい川の底を渡るトンネルだ(「野里町歩紀~摂河泉をゆく~市民の足『川底トンネル』と『八つの渡し』」参照)。
トンネルがくぐる「安治川」に沿って東に歩く。
途中、道路真ん中の緑地に「贈正五位河村瑞賢紀功碑」と刻まれた石碑が建つ。横の説明文によると、貞享4(1687)年の「安治川開削」に功労のあった「河村瑞賢」という人物を讃えるものらしい。
さらに「安治川」に沿って歩く。
何か「香港映画」に出てきそうな風景だな。
間もなく「大阪税関富島出張所」前に着く。
庁舎前の案内板には、敷地内に「碑」が建っていると記されているが、どう見ても「閉鎖」しているようであり、説明文の文字も消されている。
「安治川」堤防の方へ行くと、金網の中に何やら「碑」が。一旦、戻って堤防を歩いて行くと金網の中へ入ることができる。そこには3つの碑があった。右から「大阪電信発祥の地」「大阪開港の地」「川口運上所址」。
説明文によると、慶應3(1867)年8月、ここに「大阪税関」の前身である「川口運上所」が設置され、明治3年、運上所内に大阪で初めての電信局が開設されため、ここが「大阪税関発祥の地」「大阪電信発祥の地」になるとのこと。また、明治元年7月、ここに「大阪港」が開港したが、出張所内にあった「大阪開港の地」碑も出張所の閉鎖とともに、ここに移されたようだ。
出張所跡から更に進むと右手に「川口聖マリア幼稚園」。その角には「富島天守堂跡」碑が建つ。
これより「川口」の町に入る。安治川に沿って進むと「住友倉庫」。一見ではわからないが、昭和3年に建てられた古い建物らしい。
これは、以前「福島区」を歩いた際に対岸の「大阪中央卸売市場本場」前から撮ったもの(平成25年11月2日撮影)。
ここから南に下がり「川口ビルディング」前で「川口交差点」を渡る。
木津川沿いに歩けば「日本聖公会川口基督教会聖堂」。
大正9年に建てられたものだが、平成7年の「阪神大震災」で倒壊。今は立派に再建されている。
そしてここは、大阪港開港と同時に外国人居留地に指定され、多くの西洋人が居住したかつての「川口居留地」である。
市立本田(ほんでん)小学校の北西角に「川口居留地跡」の碑が立つ。
「中央大通」の「木津川大橋」で木津川を渡り「江之子島」に入る。木津川沿いに古い木造の家。ネットで調べると「木村邸」。確かに「木村」という表札がかかっている。大正8年の建築だそうだ。
慶應4(明治元)年4月、「鳥羽伏見の戦い」に敗れた幕府軍は、将軍徳川慶喜が大坂城から江戸に逃れ、進駐した新政府軍が「西町奉行所(現中央区)」に鎮台を設置。その後、同年5月、鎮台を「大阪府」と改め、大阪府が発足。そして明治7年、手狭となった初代大阪府庁(西町奉行所)から「江之子島」に2階建てながら煉瓦造りルネッサンス様式の二代目大阪府庁を建築した。その偉容から人々は「江之子島政府」と呼んだ。「木村邸」の向かいに「旧大阪府庁」の碑が立つ。
その後、明治22年、「大阪市」発足と同時に特例法により大阪府知事が大阪市長を兼任。江之子島政府と呼ばれた大阪府庁内に「大阪市役所」が設置された。近代大阪市の始まりである。
二代目大阪府庁は、大正15年、現在の中央区大手前に移転したが、その後、旧庁舎は「大阪府工業奨励館」となり、昭和20年、戦災により焼失する。「旧大阪府庁碑」の後ろには、昭和13年に建築され、戦災を免れた附属棟の「工業会館」が。その後、変遷を経て「大阪府立産業技術総合研究所」となるが、平成24年4月、現存する建物が改装され「大阪府立江之子島文化芸術創造センター(通称:enoco)」として生まれ変わる。
明治31年9月、特例法は廃止され、大阪市役所は独立庁舎建設を迫られる。府庁北側に大阪市役所が建築されるのだが、今はマンション横に小さな「大阪市役所江之子島庁舎跡」碑が残るだけだ。あまりにも小さ過ぎる。
碑文には、明治45年「堂島」に大阪市役所が移るまで、ここに大阪市役所が存在したと記されている(その後、大正10年、現在の中之島に移転)。
「江之子島」は、現在は完全に陸地だが、当時は、木津川と「百間堀川」に挟まれた「島」であった。「市役所跡碑」の近くには、埋め立てられた百間堀川を偲ぶように、「雑魚場(ざこば)橋」の橋灯が今も残る。
「大阪税関発祥の地」碑前に置かれていた説明文の地図。「税関」「居留地」「府庁」の位置関係がよくわかる。
旧百間堀川に沿って北上する。
「昭和橋」で木津川を渡り、これより「近代大阪市」の象徴であるレトロビルを訪ねるが、時間は、午後0時10分。写真の「グリルキムラ」で昼食にしようと思ったが、休店だったので隣の「福島上等カレー」に入る。
「カレーライス(630円)」を注文。
昼食を終え「土佐堀通」を東へ。
三井倉庫角には「薩摩藩蔵屋敷跡」碑。
次の路地を左へ入ると「菅澤眼科クリニック」。
個人の開業医のようであるが、昭和3年の建築だとか。
そのまま進み、土佐堀川の道に沿って東へ歩く。「常安(じょうあん)橋」南詰で「なにわ筋」を過ぎると左に「旧大阪産業信用金庫本店」。
今は、イタリアンレストランとして利用されているが昭和初期の建築物らしい。
さらに小径を進み「筑前橋」を過ぎれば「山根商店」。この建物も昭和初期のものだとか。
小径が「肥後橋交差点」で「四つ橋筋」と交わる手前に「山内ビル」が建つ。「土佐」「筑前」「肥後」、この辺りはかつて各藩の蔵屋敷が並んでいたのだろう。
昭和5年、法律事務所として建築されたものらしいが、今はカフェが入っている。すぐ裏は「土佐堀川」を隔てて「中之島」だ。
土佐堀川から北は「北区」になるので、ここから土佐堀通を南に下がる。すぐ左に北京料理「徐園」。大阪では、結構、昔からある「中華レストラン」である。西区は「中国総領事館」があったりするが、特に「中華街」というわけではない。
「船町ビル」。昭和12年の建築だそうだ。
さらに土佐堀通を南下する。
「ダコタハウス」。大正時代の建築で、レストランや洋風居酒屋が入っている。
次の角で左折し、1本南の小径に入る。角には「日本高等学校野球連盟」の建物。「高野連」は、ここにあったのか。角を左折する。
「ダコタハウス」のちょうど裏辺りに「日本基督教団大阪教会」。
大正11年に建造される。ここも阪神大震災で半壊したが、再建されている。
そのまま東へ進めば、昭和10年築の「旧児玉竹次郎邸」。
元綿布商の住宅だったそうだが、今はテナントビルとして利用されている。
「四つ橋筋」に出て南下する。地下鉄が走り、大阪でも有数の「筋」だ。大阪市内では、南北を走る道路を「筋」、東西を走る道路を「通」と呼ぶ(野里町歩紀~コラム「チンチン電車」「筋を通す」~参照)。
四つ橋筋沿いに「京町ビル」。大正15年の建築である。
南に下がり次の信号を右折。「安田ビル」。昭和10年頃の建築らしい。
その南側には「靫(うつぼ)公園」。ここは、かつて飛行場があったところ。そのため東西約600mの細長い公園だ。飛行場は、空襲で焼け野原になった跡地に進駐軍が造ったそうだ。
「なにわ筋」で二つに分断されており、東半分は緑豊かな公園。
「バラ園」が有名。
ちょうど満開で、辺りはバラの香りで一杯だった。
たくさんの人が花見を楽しんだり、子どもたちは噴水で水遊びをしていた。
西半分は、国内有数のテニス競技場で、コート1面を5000人収容の観客席が囲む「センターコート」では、国際大会も開催される。
その西側には15面のテニスコートが広がる。
靫公園を通り抜け「あみだ池筋」を南下。
「本町通」と名を変えた国道172号線と「中央大通」を過ぎ、さらに進むと「長堀通」と交わるので右折。一旦、「あみだ池筋」を離れ「鰹座交差点」で「新なにわ筋」を渡る。
西区役所手前に「旧細野組本社」。昭和11年築のレトロビルだ。
この会社は、付近のいくつかのレトロビルを手がけている。
西区役所前で「長堀通」を渡ると右に大きな神社が現れる。遠回りをして正面に回ると「稲荷神社」前に出る。元々、土佐藩の蔵屋敷にあった屋敷社であったらしく「土佐稲荷神社」と呼ばれる。
先ほど渡った「鰹座交差点」の「鰹」も土佐藩に因むものだ。
もちろん稲荷神である「宇賀御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)」を祀る。
慶應2年の刻字がある石灯籠の「黒い焦げ」は、大阪大空襲の名残だという。
参拝を終え、神社南側の「大阪市立中央図書館」横を抜け「新なにわ筋」を渡る。
さらに「あみだ池交差点」で「あみだ池筋」を渡り左折。
次の四つ角を右折する。
次の角を左に曲がれば「和光寺」。浄土宗の寺院である。正面の門は鍵がかかり閉ざされていた。
南側の「葬儀会館」から境内に入ることができた。本堂の奥には「阿弥陀池」。「浪華百景」にも描かれたこの小さな池が、大大阪を南北に走る「筋」名の由来となっている。
和光寺から東に進み、右に「堀江タクシー」の古い社屋が見えれば「なにわ筋」。
「なにわ筋」を左折し「長堀通」を越える。
一つ目の信号の角に「大阪屋ビル」。
前身は、大正11年、芸妓のために建てられた「新町演舞場」と言われる。
「大阪屋ビル」から西に進み、2つ目の信号で右折北上する。角には「日本キリスト教会大阪西教会」。
さらに進むと右に「サムハラ神社」。ネットで見ると、これは漢字ではなく「神字」であるらしい。そのため漢字変換はできない。
「古事記」冒頭、高天原に最初に成りませぬ「造化三神」と呼ばれる「天御中主大神(アメノミナカヌシノカミ)」「高皇霊産大神(タカミムスビノカミ)」「神皇霊産大神(カミムスビノカミ)」を祭神とする。
「弾除け」「災難除け」の御利益があるらしい。
神社の北側には「大阪府警察第一方面機動警ら隊」。パトカー部隊の基地である。その角を右に曲がる。
「なにわ筋」を越えて更に進み「四つ橋筋」に出て左に曲がると「立売堀ビル」。
昭和2年築のレトロビルだ。京都では「たちうり」と読むが、大阪ではこれで「いたちぼり」と読む。
前の交差点には信号がないので、1つ南の信号で「なにわ筋」を渡り、南に進む。すぐに左側に「長瀬産業旧館」が建つ。
この建物も昭和3年築のレトロビルである。「長瀬産業」とは、天保3(1832)年創業の西陣染めの染料御を前身とする総合商社らしいが、かつて流行った「ポケットカメラ」の「コダック」総代理店として知られる(若い人は「ポケットカメラ」は知らないだろうな)。
「四つ橋筋」を南下する。「長堀通」との交差点である「四つ橋交差点」。
交差点中央の分離帯には、石碑と案内板が備えられている。実際は、後ろに見える「阪神高速道路」の真下に、昭和40年代まで4つの橋が架かっていたそうだ。
「西横堀川(四つ橋筋)」と「長堀川(長堀通)」の「川の交差点」に架かった「上繋橋」「下繋橋」「炭屋橋」「吉野屋橋」の4つの橋が地名の由来である。案内板の後ろには「吉野屋橋」が再現されていたが、ホームレスが布団を敷き、ゴミを散らかしていた。ここは「観光地」ですよ。「大阪市」さん、しっかりしてください。
「通」を渡って1つ西の「筋」へ入る。そこには「北堀江病院」。一見すれば普通の建物のようだが、昭和4年の建築らしい。
玄関は、やはり趣がある。今日、最後の訪問先である。
「大阪市発祥の地」を歩き、今日のゴールである地下鉄「四ツ橋駅」へ。午後3時20分着。本日の歩紀「23234歩」(19.98km)。
なぜか駅名は「つ」ではなく「ツ」である。官庁間で意思疎通が図られなかった、いわゆる「お役所仕事」が原因らしい。
出 発:地下鉄「ドーム前千代崎駅」
到 着:地下鉄「四ツ橋駅」
明治12年の郡区町村編制法制定により「北区」「南区」「東区」とともに4大区として誕生した「西区」。大阪市以外に全国11カ所ある「西区」の中でも最も古い歴史を有する。そして、明治22年の大阪市発足とともに初代大阪市役所が、ここ「西区」に置かれた。
しかし、おそらくは私鉄が入らなかったためだろう、後年、ターミナル・繁華街として発展することはなく、優雅な大阪市の発展に取り残されたように静かに佇んでいる。人口約8万5千人、ちょっとレトロな「近代大阪市発祥の地」を歩く。
大阪地下鉄「長堀鶴見緑地線」。既路線の延伸ではなく「花と緑の博覧会(花博)」を機に着工し、平成2年、「京橋駅」「鶴見緑地駅」間が部分開通。その後、「門真南駅(大阪府門真市)」から「大正駅(大阪市大正区)」までの15kmを結ぶ新線として平成9年8月、全線開通した。その「ドーム前千代崎駅」を午前10時10分、出発する。
1番出入口を出ると目の前には、駅名の由来となる「京セラドーム大阪」が現れる。平成9年「大阪ドーム」として建設された全天候型のドーム球場だ。
前を流れる「木津川」に沿って遊歩道が整備されているので、上流の「千代崎橋」まで川沿いを歩く。ちょっと「ドブ臭い」な。
「千代崎橋西交差点」を西へ。250mほどで「みなと通」と呼ばれる国道172号線「九条新道交差点」に出る。交差点東南角には「大阪市電創業の地」碑が立つ。昭和44年に廃線となった大阪市電は、明治36年9月、ここから築港までの約5kmから営業を開始したそうだ。
正面には「ナインモール九条」という商店街が。
しかし、アーケードには入らず右折。すぐに「茨住吉神社」前に出る。
寛永元(1624)年、九条島開発に際して勧請されたといわれる。昔、この辺りは島だったんだな。祭神は、もちろん「住吉四神」。今日一日の安全を祈願する。
参拝を終え、神社前の西側に位置する「九条1丁目」の町に入る。
ここは、大阪にいくつか残る旧遊郭のひとつ「松島新地」である。昔ながらの建物が残る。
「料理屋」と呼ばれる建物が並ぶ。
「松島会館」。「行政と組合」の「厳格かつ微妙」な関係により、旧遊郭は長い歴史を刻み続けている。
遊郭街に面した「中央大通」を左折。高架を走る地下鉄中央線「九条駅」の下に出れば、先ほどの「ナインモール九条」が「中央大通」で分断され、新たに「キララ九条」というアーケード街となる。
全長約530mのアーケードを進む。
途中、右から交わる「新栄会商店街」は、ちょっとレトロだ。
アーケードを抜けると、そこは「源兵衛渡交差点」。その先には「源兵衛渡」に代わって市民の足となっている「安治川隧道」の管理棟。
ここは、全国でも珍しい川の底を渡るトンネルだ(「野里町歩紀~摂河泉をゆく~市民の足『川底トンネル』と『八つの渡し』」参照)。
トンネルがくぐる「安治川」に沿って東に歩く。
途中、道路真ん中の緑地に「贈正五位河村瑞賢紀功碑」と刻まれた石碑が建つ。横の説明文によると、貞享4(1687)年の「安治川開削」に功労のあった「河村瑞賢」という人物を讃えるものらしい。
さらに「安治川」に沿って歩く。
何か「香港映画」に出てきそうな風景だな。
間もなく「大阪税関富島出張所」前に着く。
庁舎前の案内板には、敷地内に「碑」が建っていると記されているが、どう見ても「閉鎖」しているようであり、説明文の文字も消されている。
「安治川」堤防の方へ行くと、金網の中に何やら「碑」が。一旦、戻って堤防を歩いて行くと金網の中へ入ることができる。そこには3つの碑があった。右から「大阪電信発祥の地」「大阪開港の地」「川口運上所址」。
説明文によると、慶應3(1867)年8月、ここに「大阪税関」の前身である「川口運上所」が設置され、明治3年、運上所内に大阪で初めての電信局が開設されため、ここが「大阪税関発祥の地」「大阪電信発祥の地」になるとのこと。また、明治元年7月、ここに「大阪港」が開港したが、出張所内にあった「大阪開港の地」碑も出張所の閉鎖とともに、ここに移されたようだ。
出張所跡から更に進むと右手に「川口聖マリア幼稚園」。その角には「富島天守堂跡」碑が建つ。
これより「川口」の町に入る。安治川に沿って進むと「住友倉庫」。一見ではわからないが、昭和3年に建てられた古い建物らしい。
これは、以前「福島区」を歩いた際に対岸の「大阪中央卸売市場本場」前から撮ったもの(平成25年11月2日撮影)。
ここから南に下がり「川口ビルディング」前で「川口交差点」を渡る。
木津川沿いに歩けば「日本聖公会川口基督教会聖堂」。
大正9年に建てられたものだが、平成7年の「阪神大震災」で倒壊。今は立派に再建されている。
そしてここは、大阪港開港と同時に外国人居留地に指定され、多くの西洋人が居住したかつての「川口居留地」である。
市立本田(ほんでん)小学校の北西角に「川口居留地跡」の碑が立つ。
「中央大通」の「木津川大橋」で木津川を渡り「江之子島」に入る。木津川沿いに古い木造の家。ネットで調べると「木村邸」。確かに「木村」という表札がかかっている。大正8年の建築だそうだ。
慶應4(明治元)年4月、「鳥羽伏見の戦い」に敗れた幕府軍は、将軍徳川慶喜が大坂城から江戸に逃れ、進駐した新政府軍が「西町奉行所(現中央区)」に鎮台を設置。その後、同年5月、鎮台を「大阪府」と改め、大阪府が発足。そして明治7年、手狭となった初代大阪府庁(西町奉行所)から「江之子島」に2階建てながら煉瓦造りルネッサンス様式の二代目大阪府庁を建築した。その偉容から人々は「江之子島政府」と呼んだ。「木村邸」の向かいに「旧大阪府庁」の碑が立つ。
その後、明治22年、「大阪市」発足と同時に特例法により大阪府知事が大阪市長を兼任。江之子島政府と呼ばれた大阪府庁内に「大阪市役所」が設置された。近代大阪市の始まりである。
二代目大阪府庁は、大正15年、現在の中央区大手前に移転したが、その後、旧庁舎は「大阪府工業奨励館」となり、昭和20年、戦災により焼失する。「旧大阪府庁碑」の後ろには、昭和13年に建築され、戦災を免れた附属棟の「工業会館」が。その後、変遷を経て「大阪府立産業技術総合研究所」となるが、平成24年4月、現存する建物が改装され「大阪府立江之子島文化芸術創造センター(通称:enoco)」として生まれ変わる。
明治31年9月、特例法は廃止され、大阪市役所は独立庁舎建設を迫られる。府庁北側に大阪市役所が建築されるのだが、今はマンション横に小さな「大阪市役所江之子島庁舎跡」碑が残るだけだ。あまりにも小さ過ぎる。
碑文には、明治45年「堂島」に大阪市役所が移るまで、ここに大阪市役所が存在したと記されている(その後、大正10年、現在の中之島に移転)。
「江之子島」は、現在は完全に陸地だが、当時は、木津川と「百間堀川」に挟まれた「島」であった。「市役所跡碑」の近くには、埋め立てられた百間堀川を偲ぶように、「雑魚場(ざこば)橋」の橋灯が今も残る。
「大阪税関発祥の地」碑前に置かれていた説明文の地図。「税関」「居留地」「府庁」の位置関係がよくわかる。
旧百間堀川に沿って北上する。
「昭和橋」で木津川を渡り、これより「近代大阪市」の象徴であるレトロビルを訪ねるが、時間は、午後0時10分。写真の「グリルキムラ」で昼食にしようと思ったが、休店だったので隣の「福島上等カレー」に入る。
「カレーライス(630円)」を注文。
昼食を終え「土佐堀通」を東へ。
三井倉庫角には「薩摩藩蔵屋敷跡」碑。
次の路地を左へ入ると「菅澤眼科クリニック」。
個人の開業医のようであるが、昭和3年の建築だとか。
そのまま進み、土佐堀川の道に沿って東へ歩く。「常安(じょうあん)橋」南詰で「なにわ筋」を過ぎると左に「旧大阪産業信用金庫本店」。
今は、イタリアンレストランとして利用されているが昭和初期の建築物らしい。
さらに小径を進み「筑前橋」を過ぎれば「山根商店」。この建物も昭和初期のものだとか。
小径が「肥後橋交差点」で「四つ橋筋」と交わる手前に「山内ビル」が建つ。「土佐」「筑前」「肥後」、この辺りはかつて各藩の蔵屋敷が並んでいたのだろう。
昭和5年、法律事務所として建築されたものらしいが、今はカフェが入っている。すぐ裏は「土佐堀川」を隔てて「中之島」だ。
土佐堀川から北は「北区」になるので、ここから土佐堀通を南に下がる。すぐ左に北京料理「徐園」。大阪では、結構、昔からある「中華レストラン」である。西区は「中国総領事館」があったりするが、特に「中華街」というわけではない。
「船町ビル」。昭和12年の建築だそうだ。
さらに土佐堀通を南下する。
「ダコタハウス」。大正時代の建築で、レストランや洋風居酒屋が入っている。
次の角で左折し、1本南の小径に入る。角には「日本高等学校野球連盟」の建物。「高野連」は、ここにあったのか。角を左折する。
「ダコタハウス」のちょうど裏辺りに「日本基督教団大阪教会」。
大正11年に建造される。ここも阪神大震災で半壊したが、再建されている。
そのまま東へ進めば、昭和10年築の「旧児玉竹次郎邸」。
元綿布商の住宅だったそうだが、今はテナントビルとして利用されている。
「四つ橋筋」に出て南下する。地下鉄が走り、大阪でも有数の「筋」だ。大阪市内では、南北を走る道路を「筋」、東西を走る道路を「通」と呼ぶ(野里町歩紀~コラム「チンチン電車」「筋を通す」~参照)。
四つ橋筋沿いに「京町ビル」。大正15年の建築である。
南に下がり次の信号を右折。「安田ビル」。昭和10年頃の建築らしい。
その南側には「靫(うつぼ)公園」。ここは、かつて飛行場があったところ。そのため東西約600mの細長い公園だ。飛行場は、空襲で焼け野原になった跡地に進駐軍が造ったそうだ。
「なにわ筋」で二つに分断されており、東半分は緑豊かな公園。
「バラ園」が有名。
ちょうど満開で、辺りはバラの香りで一杯だった。
たくさんの人が花見を楽しんだり、子どもたちは噴水で水遊びをしていた。
西半分は、国内有数のテニス競技場で、コート1面を5000人収容の観客席が囲む「センターコート」では、国際大会も開催される。
その西側には15面のテニスコートが広がる。
靫公園を通り抜け「あみだ池筋」を南下。
「本町通」と名を変えた国道172号線と「中央大通」を過ぎ、さらに進むと「長堀通」と交わるので右折。一旦、「あみだ池筋」を離れ「鰹座交差点」で「新なにわ筋」を渡る。
西区役所手前に「旧細野組本社」。昭和11年築のレトロビルだ。
この会社は、付近のいくつかのレトロビルを手がけている。
西区役所前で「長堀通」を渡ると右に大きな神社が現れる。遠回りをして正面に回ると「稲荷神社」前に出る。元々、土佐藩の蔵屋敷にあった屋敷社であったらしく「土佐稲荷神社」と呼ばれる。
先ほど渡った「鰹座交差点」の「鰹」も土佐藩に因むものだ。
もちろん稲荷神である「宇賀御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)」を祀る。
慶應2年の刻字がある石灯籠の「黒い焦げ」は、大阪大空襲の名残だという。
参拝を終え、神社南側の「大阪市立中央図書館」横を抜け「新なにわ筋」を渡る。
さらに「あみだ池交差点」で「あみだ池筋」を渡り左折。
次の四つ角を右折する。
次の角を左に曲がれば「和光寺」。浄土宗の寺院である。正面の門は鍵がかかり閉ざされていた。
南側の「葬儀会館」から境内に入ることができた。本堂の奥には「阿弥陀池」。「浪華百景」にも描かれたこの小さな池が、大大阪を南北に走る「筋」名の由来となっている。
和光寺から東に進み、右に「堀江タクシー」の古い社屋が見えれば「なにわ筋」。
「なにわ筋」を左折し「長堀通」を越える。
一つ目の信号の角に「大阪屋ビル」。
前身は、大正11年、芸妓のために建てられた「新町演舞場」と言われる。
「大阪屋ビル」から西に進み、2つ目の信号で右折北上する。角には「日本キリスト教会大阪西教会」。
さらに進むと右に「サムハラ神社」。ネットで見ると、これは漢字ではなく「神字」であるらしい。そのため漢字変換はできない。
「古事記」冒頭、高天原に最初に成りませぬ「造化三神」と呼ばれる「天御中主大神(アメノミナカヌシノカミ)」「高皇霊産大神(タカミムスビノカミ)」「神皇霊産大神(カミムスビノカミ)」を祭神とする。
「弾除け」「災難除け」の御利益があるらしい。
神社の北側には「大阪府警察第一方面機動警ら隊」。パトカー部隊の基地である。その角を右に曲がる。
「なにわ筋」を越えて更に進み「四つ橋筋」に出て左に曲がると「立売堀ビル」。
昭和2年築のレトロビルだ。京都では「たちうり」と読むが、大阪ではこれで「いたちぼり」と読む。
前の交差点には信号がないので、1つ南の信号で「なにわ筋」を渡り、南に進む。すぐに左側に「長瀬産業旧館」が建つ。
この建物も昭和3年築のレトロビルである。「長瀬産業」とは、天保3(1832)年創業の西陣染めの染料御を前身とする総合商社らしいが、かつて流行った「ポケットカメラ」の「コダック」総代理店として知られる(若い人は「ポケットカメラ」は知らないだろうな)。
「四つ橋筋」を南下する。「長堀通」との交差点である「四つ橋交差点」。
交差点中央の分離帯には、石碑と案内板が備えられている。実際は、後ろに見える「阪神高速道路」の真下に、昭和40年代まで4つの橋が架かっていたそうだ。
「西横堀川(四つ橋筋)」と「長堀川(長堀通)」の「川の交差点」に架かった「上繋橋」「下繋橋」「炭屋橋」「吉野屋橋」の4つの橋が地名の由来である。案内板の後ろには「吉野屋橋」が再現されていたが、ホームレスが布団を敷き、ゴミを散らかしていた。ここは「観光地」ですよ。「大阪市」さん、しっかりしてください。
「通」を渡って1つ西の「筋」へ入る。そこには「北堀江病院」。一見すれば普通の建物のようだが、昭和4年の建築らしい。
玄関は、やはり趣がある。今日、最後の訪問先である。
「大阪市発祥の地」を歩き、今日のゴールである地下鉄「四ツ橋駅」へ。午後3時20分着。本日の歩紀「23234歩」(19.98km)。
なぜか駅名は「つ」ではなく「ツ」である。官庁間で意思疎通が図られなかった、いわゆる「お役所仕事」が原因らしい。
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