訪問日:平成26年12月6日(土)
出 発:「大阪市道路元標」前
到 着:「大阪市道路元標」前
大阪の中心は、大坂城やかつて各藩の蔵屋敷などが並んだ現在の「中之島」周辺であった。ところが明治に入り汽車が走り始めると、火を噴きながら走る汽車が、ちょうど現在、騒音をまき散らす飛行機(空港)が都心から避けられるように、駅も大阪の北のはずれ「梅田」に置かれ、梅田の「すてん所(ステーション)」と呼ばれた。その後、電車の時代になり、皮肉にも大阪の玄関口は「梅田」に移り、現在も大阪一の繁華街として賑わっている。
大阪駅を中心とした「北区」。明治22年の大阪市発足以前から存在する区であるが合併・分離を経て昭和18年に区境を整理。その後、平成元年2月、北隣にあった「大淀区」と合区し、現在の姿となる。人口約11万3千人であるが、昼間人口は40万人を越える。大阪市のほか10の都市にも同名の区がある。
「キタ」と呼ばれる大阪駅前の「梅田」周辺は、ショッピングや食事など「遊」の空間である。今回は「歩紀」なので、あえて駅前を避けるように「北区」をぐるっと一周することにした。
「キタ」には、半径400mほどのエリアにJR「大阪駅」「北新地駅」、地下鉄「東梅田駅」「梅田駅」「西梅田駅」、阪急「梅田駅」、阪神「梅田駅」と7つの駅があるが、今日は、駅ではなく「梅田新道交差点」の北西角にある「大阪市道路元標」を午前8時45分、スタート。
7本の国道の起終点となっている。かつての道路元標(里程元標)は、高麗橋のたもとにあり、今は史跡として石碑が立つ(「中央区」編参照)。
この交差点を「梅田新道」と呼ぶのは、ニュース番組くらいで、大阪では「梅新(うめしん)」で通っている。
「梅新交差」を東に渡り、路地に入ったところに「露天神社(つゆてんじんじゃ)」。
近松門左衛門の人形浄瑠璃「曾根崎心中」の舞台として「お初天神」の名で広く知られる。
ビルの谷間に佇み、菅原道真等を祀る。今日一日の安全を祈願する。
神社の東側。この一角には、再開発される前の「梅田」が残る。
かなり「昭和」だぞ。
神社西の交番横から境内を出て「曾根崎お初天神通り」を北に進む。この交番も結構、レトロだな。
飲食店街を左折し、目の前の信号で「御堂筋」を渡る。ここは、梅田1丁目。その形から「ダイヤモンド地区」と呼ばれる。かつては闇市やバラックから立ち上がった店などがひしめいていたが、昭和50年代から再開発され、今では10以上の高層ビルが並ぶ。
中でも有名なのは「マルビル」だろうか。
他にも阪神百貨店やヒルトンホテルなどが並ぶ。
ビル街の真下は、そのまま「ダイヤモンド地下街(ディアモール大阪)」という第二の街だ(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「第二の都市『地下街』」参照)。
ダイヤモンド地区を抜けると「大阪駅前交差点」。
明治7年に開業した、かつての「梅田すてん所」から数えて5代目の「大阪駅」は、地上27階建ての高層ビルに生まれ変わった。
大阪駅に突き当たり左へ。すぐ右にJRをくぐるガードがある。この角には「大阪中央郵便局」という昭和14年に建てられたレトロビルがあったが、文化財指定の働きかけも実現せず、平成24年、取り壊された。
ガードをくぐって大阪駅北側に。大阪駅の真下をくぐるだけあって長大なガードだ。
大阪駅北側には、「JR梅田貨物駅」があったが、平成25年3月、138年の歴史に幕を閉じた。
広大な空き地は「大阪市内最後の一等地」と言われ、いろいろな再開発構想があるようだ。
元梅田貨物駅東側道路を北に進むと、その貨物駅跡をくぐる「北梅田地下道」の入口に出る。
約200mの地下道を抜ける。
そこは「新梅田シティ」。ウィスティンホテルと梅田スカイビルという高層ビルが並び、梅田スカイビル40階には、「空中庭園展望台」がある。ここは、かつての「大淀区」だ。
地下1階には「滝見小路」。
「昭和」の街が再現されている。
地上に上がり大淀中1丁目を抜ける。「大淀中1交差点」の角には「北消防署大淀町出張所」。何となくレトロ感が漂う。
交差点に戻り国道176号線に沿って東へ。「中津5交差点」で国道バイパスの側道に入る。
府営住宅前の角を左折し「地蔵堂」に出れば右へ。
すぐ右に「南蛮文化館」。私設の美術館で5月と11月の年2ヶ月間だけ公開されるそうだ。
少し進めば「DEEP」な世界への入口が。
「中津高架下」。チャップリンの隣から突入だ。
かつて倉庫や町工場が並んでいたようだ。
今は閉鎖され、静かに佇んでいる。
結構、通行人はいる。若い女性もひとりで歩いていた。
こんな光景も「開発」や「防災」の名の下に消えていくのだろうな。
頭上を走るバイパスへの階段。
映画のロケもされたようだ。
唯一、稼動中の工場。
階段を登ると左には「阪急中津駅」のホーム。
京都・宝塚・神戸の3線が併走する。それぞれ複線の鉄橋が交わるので駅の敷地は広いが、各駅しか停車しないので駅の規模は小さい(京都線は駅がない)。
駅への階段。通い慣れた人にとっては「日常」だろうが、私にとっては「非日常」な風景。
「駅前」というか「ガード下」というか。
駅前から北に進み左折すると「中津商店街」。
170mほどのアーケード街。
ここには本物の「昭和」が残っている。
あまりに狭いのでアーケード街というより「廊下」のような感じがする。
路地を入れば古い街並みも。
散髪屋さんも
酒屋さんも
豆腐屋さんも「エエ感じ」や。
アーケードを抜けて突き当たりを右折。「市立中津小学校」の塀を過ぎると「富島神社」。
旧牛頭天王社で速素戔嗚尊ら七神を祀る。
富島神社横から北に進むと淀川の堤防に突き当たる。そこにある小さな橋を渡る。
ここには、かつて「中津運河」という運河が流れていたそうだ。今は「廃川」となったが、このような橋がいくつか残る。
大阪を代表する「淀川」の堤防沿いに歩く。
水道橋と新御堂筋が渡る「新淀川大橋」をくぐれば、小さな橋で旧中津運河を渡り、豊崎6丁目の街並みに入る。
「豊崎二之橋」というらしい。
途中、煉瓦がむき出しの古い塀が。
今は駐車場になっているようだが、立派な灯籠や庭石があり、かつての邸宅だったのだろうか。
300mほどで「豊崎神社」の前に出る。御祭神は、645年の大化の改新により難波宮遷都を断行した孝徳天皇。
「難波長柄豊碕宮」の旧跡地と伝わる。ただ、難波長柄豊碕宮は、現在の大阪市中央区にある「難波宮跡」と言われる。しかし、周辺には「長柄」「豊崎」の地名が残る。
神社前の「梅田貨物線」ガードをくぐる。
しばらく東海道線と併走し、信号のあるアンダーパスをくぐり、次の角を右折する。
突き当たりを左折し、路地に入る。
そこは「豊崎長屋」。
大阪の中心にありながら奇跡的に空襲の被害を免れた一角である。
「昭和」がそのまま残る。
国の登録有形文化財に登録されている。当然だろう。
実際に暮らしている方もおられるようだが、町家を利用した店も見られる。
「豊崎長屋」の西側に隣接して「行基菩薩開基南濱墓所」。
今は市設の霊園だが、行基が設置したわが国最初の霊園と言われる。土葬から火葬になった最初の墓所とも言われる。
前の通りを越えると「旧大淀区」から「旧北区」へ戻る。古い町家が並ぶ。いろいろな店として利用されている。
ここは「中崎」。
大阪市中心部でこれだけの古い街並みが残っている所は、ここと「谷町6丁目」くらいだろう。
ここから先は、野里町歩紀~摂河泉をゆく~「中崎界隈から日本一長い商店街」と重なるので参照。
路地に入ると「白龍大神」。
平成元年頃、私用で訪れた時には何もなかったところに「野里町歩紀~摂河泉をゆく~『中崎界隈から日本一長い商店街』」で訪れた際、「ひがし茶屋町西向不動尊」という大きな不動尊ができていた。そして今回、そこはコインパーキングになっており、角に小さな「お不動さん」だけが残っていた。
その向かいには「韓国民団大阪府地方本部」。さすが日本一の「在日の町」大阪。立派な建物だ。
路地を右に折れ「真宗仏光寺派浄方寺」の横を抜ける。
「都島通」に出たところに「天五中崎通商店街」。
400mほどのアーケードで、東端は日本一長い商店街「天神橋筋商店街」と交わる。
入りたくなるような店が並ぶ。
交番を過ぎれば左へ。この建物は「赤灯」が残っている。病院だったのだろうか。
60mほどで「かね又食堂」。時間は、午前11時55分、昼ご飯にしよう。以前から入りたかった店のひとつだ。
名物といわれる「シチューうどん」(500円)を注文した。
昼食を終え、店を出て北に進む。「浮田町1丁目」この辺りも古い建物が残る。
「旧北天満小学校」前を通る。
児童数減少から平成16年、廃校となった。今は、公民館的に利用されているようだ。
都島通に出て右折すると「天神橋筋6丁目交差点」。大阪では「天6(てんろく)交差」で通っている。複雑な5叉路を北東に渡る。そして、再度、「旧大淀区」を歩く。
「関西大学天六キャンパス」前を通る。
300mほどで「城北公園通」に出るので右折する。150mほどで「長柄八幡宮」。
永仁4(1296)年、石清水八幡宮から勧請されたといわれる。八幡大神つまり誉田別命(ほむたわけのみこと)=応神天皇らを祀る。
神社から北に進み「長柄西2丁目」の街を抜ける。
すぐに淀川堤防に出る。ここは、琵琶湖を水源とする淀川が、明治36年、開削された「新淀川」と「旧淀川」に分かれる「毛馬閘門(こうもん)」なのだが、複雑に区境が走り、「毛馬閘門」自体は「都島区」の所在する。ただ、「旧毛馬閘門」や「旧毛馬洗堰」は「北区」側にあり産業遺産史跡公園として整備されている。また、河川敷の一部は「東淀川区」だ(「都島区」編。野里町歩紀~摂河泉をゆく~「桜の大川に沿って」参照)。
「旧毛馬閘門」。「閘門」とは、船を通過させるため、2つの川の水位を調整する設備である。
スエズ運河やパナマ運河のような施設で、旧洗堰とともに国の重要文化財に指定されている。
「毛馬の残念石」。江戸時代の大坂城再建の際、伏見城から運ばれ、運搬船から転落し、後に引き上げられた石垣用の石である。採掘用の杭孔や家紋が残る。
「旧毛馬洗堰」。明治40年、川の水を「新淀川」と「旧淀川」に分けるために造られた。
「中津運河」の延長は、ここでは「長柄運河」と呼ばれたようだ。かつて長柄運河に架かっていた「眼鏡橋」。修復・保存されている。
船溜まりを見ながら信号待ちをし、毛馬橋西詰で「城北公園通」を渡る。後方が現在の「毛馬閘門」。
しばらく「旧淀川」沿いに歩く。
対岸は「都島区」だ。
川沿いを進む。
「飛翔橋」という人道橋をくぐり、前方に「都島橋」が見えてくれば、再度、町中に入り「淀川リバーサイドタウン」という住宅街を抜ける。
高層住宅の間を抜けると「天台真盛宗鶴満寺」。建物自体は、荒廃・再興を繰り返しているが、太平10(1030)年の刻銘がある「朝鮮鐘」が国の重要文化財に指定されているそうだ。
天神橋筋を渡れば「淀川天神社」。
天平10(738)年、行基がこの辺りを開拓した際、守護神として「天穂日命(アメノホヒノミコト)」を勧請したのが始まりといわれる。
そして、すぐ西には「真言宗国分寺派国分寺」。「国分寺」とは「国分尼寺」とともに、国家鎮護のため各国に建立された官寺。
元は孝徳天皇の菩提のため建立された長柄寺が、聖武天皇の国分寺創設により「国分寺」になったと言われる。
国分寺前の都島通を渡り「引っ越しの時はどうするの?」と、いらぬ心配をしそうな狭い路地に入る。
ここからは、再度、「旧北区」だ。
路地を抜けると「市立菅北小学校」。大正11(1922)年開校の小学校。
路地を進むと左にNHK連続ドラマ「ごちそうさん」でも登場した「天満市場」が見えてくる。
市場を抜けると「日本一長い商店街」に出るのだが、その手前を左に曲がる。
居酒屋や大衆食堂などが並ぶ「昭和」の風景が残る。
JR大阪環状線「天満駅」。環状線の駅は古い建物が多い。
天満駅からJR大阪環状線に沿って東へ歩く。
中西金属工業の「煉瓦倉庫」。
「天神橋筋」を右に曲がる。「源八橋西詰交差点」の角にはレトロな「煙草屋さん」。
ここを左に折れれば「旧淀川」に突き当たるので、川筋に沿って南(右)へ進む。
すぐ右には「大阪アメニティパーク(OAP)」。
「帝国ホテル大阪」や「億ション」と言われる高層マンションなどが並ぶ。
途中、右に「旧桜宮公会堂」の案内が見えれば、そちらに進む。「旧桜宮公会堂」。国の重要文化財に指定されており、平成25年から民間委託され、レストランや披露宴会場として利用されている。
この日も結婚披露宴があったようだ。
その南側には「泉布観」。造幣局の前身「造幣寮」の応接所で国の重要文化財に指定されている。
以前は非公開であったが、「旧桜宮公会堂」とともに民間に委託され、外観が一般公開されるようになった。内部は年1回、春分の日前後に公開される。
そして国道を挟んで南側は「造幣局」。現在は、独立行政法人となっているが、硬貨・勲章等を製造する国の機関である。
造幣局の隣には「旧桜宮橋」の橋塔が残る。煉瓦造りだ。
中は「螺旋階段」になっている。
橋塔から再度、川辺に下り、南に進む。ここは「桜之宮公園」。春は桜が美しい(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「桜の大川に沿って」参照)。
川に沿って進めば「天満橋」が架かる。かつての「橋銘板」。
橋の上から下流を眺める。旧淀川は、前方に見える「天神橋」の下で「堂島川(右)」と「土佐堀川(左)」に分かれるが、およそ3.2km先で合流する。この間にできた細長い島が「中之島」だ。
川辺に戻り「南天満公園」を進む。「旧淀川」は、「大川」と呼ばれる。
観光船「アクアライナー」が川面を進む。
先ほど眺めた「天神橋」へ。これから「中之島」を歩こう。
中之島東端の「中之島公園」。明治24年に開設された大阪市初の市営公園らしい。
「ばらぞの橋」を渡れば「バラ園」。
両端にライオン像があることからライオン橋とも呼ばれる「難波橋」で上に上がる。ここから重厚な建築物が並ぶ(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「石の館『大大阪浪漫』」参照)。
正面には「大阪市中央公会堂」。大正7年竣工の国の重要文化財。夜間はライトアップされる。
堂島川(北側)沿いに回る。「水晶橋」。昭和4年完成のめがね橋。
その向かいには「大阪府立中之島図書館」。明治37年、ネオ・バロック様式で建築された。これも国の重要文化財だが「耐震化工事」のため全容は望めなかった。
その西側には「大阪市役所」が御堂筋に面して建つ。さすが「大阪24区」の頂点。その偉容から「大阪市庁」と呼ばれる。
大正10年に完成したルネッサンス風の塔が立つ旧庁舎は、昭和57年、取り壊されてしまった。やはり取り壊されてしまった大阪地方裁判所庁舎や他の民間ビルなどすべての建造物が残っていれば素晴らしい風景だっただろう(「大阪を翔ぶ」~大阪新聞社発行から)。
御堂筋を挟んで「日本銀行大阪支店」。この建物も明治36年、ベルギー国立銀行を模して建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。
さらに堂島川に沿って歩く。「渡辺橋」。元々は江戸時代に架けられた木造橋であったが、その後、何度か付け替えられ、現在の橋は昭和2年に架け替えられたもの。
阪神高速道路をくぐると「ダイビル本館」。旧ダイビルは「大阪ビルヂング」と呼ばれ、大正14年に完成したレトロビルだったが解体されてしまった。
平成25年、地上22階建ての高層ビルに生まれ変わったが、低層階部は旧ビルのレンガ約8割を再利用して建てられているそうだ。
次の「田簑橋」南詰で南(左)に曲がり、土佐堀川(南側)沿いに向かう。市立科学館を過ぎれば「常安橋」北詰。
この辺りが中之島で最も幅が広く330mほどあるだろうか。
さらに土佐堀川沿いに歩く。対岸は「西区」。
右に「中之島センタービル」が見えれば、そろそろ中之島西端だ。
土佐堀川に架かる「端建蔵橋」から「堂島川」と「土佐堀川」の合流点望む。正面のコンクリート壁が中之島の「最西端」になる。
ここで再度合流した2本の川は「安治川」と名を変え大阪湾に注ぐ。つまり、琵琶湖を水源とするこの川は、「瀬田川」「宇治川」「淀川」「大川」「堂島川」「土佐堀川」「安治川」と名を変えて海へ注ぐ「7つの顔を持った川」なのだ。右は「大阪中央卸売市場本場」。左は「住友倉庫」(「福島区」編、「西区」編参照)。
ここで中之島を東方向に折り返す。向かいは「福島区」。
しばらく歩くと「堂島大橋」。
右に「リーガロイヤルホテル」。昭和40年、「大阪ロイヤルホテル」として開業した天皇陛下もお泊まりになる大阪を代表するホテルだ。
「玉江橋」が渡る「なにわ筋」を越える。
途中「大阪府師範学校跡」の碑。
先ほど南に折れた「田簑橋」で左折。橋を渡る。橋を渡れば西側は「福島区」になるので東へ進む。
阪神高速道路下の信号を渡り、次の路地を右へ。すぐ右手に「中央電氣倶楽部」。
昭和5年に竣工したレトロビルだ。
会社事務所や会議室が入居する。
すぐに「四つ橋筋」に出るので左折する。目の前には「堂島アバンザ」。毎日新聞大阪本社跡地に建設された地上23階の複合テナントビルで「ジュンク堂」などが入る。
正面には「毎日新聞大阪本社旧社屋玄関」が保存されている。
ビル北東角の人工池上には「堂島薬師堂」。歴史的には聖徳太子の時代までさかのぼるそうだが、今はマジックミラーでできた近代的な作りになっている。
その前に良い雰囲気の路地。
「堂島アバンザ」の北側に約500mにわたって東西に走る「新地本通り」。
高級クラブやバー、料亭などが並ぶ。
北側に並行する通りとともに大阪で最も高級な歓楽街といわれる「北新地」だ。一般的に「新地」と呼ばれている。
「大江橋北詰交差点」で「御堂筋」を渡る。
「曾根崎変電所」と掲げられた古い建物。
大阪市交通局の変電所で、昭和11年の建築だそうだ。
変電所の裏には「大江ビルヂング」。
1921(大正10)年築の地上5階地下1階のレトロビル。
機動隊が警備する「アメリカ総領事館」の脇を抜けて「梅新」方向へ戻る。
「曾根崎通」には横断歩道がないので地下道でくぐれば、今朝スタートした「大阪市道路元標」。午後4時25分着。本日の歩紀「36151歩」(31.08km)。結構歩いたな。中心部を外れると多くの「昭和」が残る。しかし、開発のためレトロな町並みや建造物が、次々と取り壊されていくのが残念だ。
出 発:「大阪市道路元標」前
到 着:「大阪市道路元標」前
大阪の中心は、大坂城やかつて各藩の蔵屋敷などが並んだ現在の「中之島」周辺であった。ところが明治に入り汽車が走り始めると、火を噴きながら走る汽車が、ちょうど現在、騒音をまき散らす飛行機(空港)が都心から避けられるように、駅も大阪の北のはずれ「梅田」に置かれ、梅田の「すてん所(ステーション)」と呼ばれた。その後、電車の時代になり、皮肉にも大阪の玄関口は「梅田」に移り、現在も大阪一の繁華街として賑わっている。
大阪駅を中心とした「北区」。明治22年の大阪市発足以前から存在する区であるが合併・分離を経て昭和18年に区境を整理。その後、平成元年2月、北隣にあった「大淀区」と合区し、現在の姿となる。人口約11万3千人であるが、昼間人口は40万人を越える。大阪市のほか10の都市にも同名の区がある。
「キタ」と呼ばれる大阪駅前の「梅田」周辺は、ショッピングや食事など「遊」の空間である。今回は「歩紀」なので、あえて駅前を避けるように「北区」をぐるっと一周することにした。
「キタ」には、半径400mほどのエリアにJR「大阪駅」「北新地駅」、地下鉄「東梅田駅」「梅田駅」「西梅田駅」、阪急「梅田駅」、阪神「梅田駅」と7つの駅があるが、今日は、駅ではなく「梅田新道交差点」の北西角にある「大阪市道路元標」を午前8時45分、スタート。
7本の国道の起終点となっている。かつての道路元標(里程元標)は、高麗橋のたもとにあり、今は史跡として石碑が立つ(「中央区」編参照)。
この交差点を「梅田新道」と呼ぶのは、ニュース番組くらいで、大阪では「梅新(うめしん)」で通っている。
「梅新交差」を東に渡り、路地に入ったところに「露天神社(つゆてんじんじゃ)」。
近松門左衛門の人形浄瑠璃「曾根崎心中」の舞台として「お初天神」の名で広く知られる。
ビルの谷間に佇み、菅原道真等を祀る。今日一日の安全を祈願する。
神社の東側。この一角には、再開発される前の「梅田」が残る。
かなり「昭和」だぞ。
神社西の交番横から境内を出て「曾根崎お初天神通り」を北に進む。この交番も結構、レトロだな。
飲食店街を左折し、目の前の信号で「御堂筋」を渡る。ここは、梅田1丁目。その形から「ダイヤモンド地区」と呼ばれる。かつては闇市やバラックから立ち上がった店などがひしめいていたが、昭和50年代から再開発され、今では10以上の高層ビルが並ぶ。
中でも有名なのは「マルビル」だろうか。
他にも阪神百貨店やヒルトンホテルなどが並ぶ。
ビル街の真下は、そのまま「ダイヤモンド地下街(ディアモール大阪)」という第二の街だ(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「第二の都市『地下街』」参照)。
ダイヤモンド地区を抜けると「大阪駅前交差点」。
明治7年に開業した、かつての「梅田すてん所」から数えて5代目の「大阪駅」は、地上27階建ての高層ビルに生まれ変わった。
大阪駅に突き当たり左へ。すぐ右にJRをくぐるガードがある。この角には「大阪中央郵便局」という昭和14年に建てられたレトロビルがあったが、文化財指定の働きかけも実現せず、平成24年、取り壊された。
ガードをくぐって大阪駅北側に。大阪駅の真下をくぐるだけあって長大なガードだ。
大阪駅北側には、「JR梅田貨物駅」があったが、平成25年3月、138年の歴史に幕を閉じた。
広大な空き地は「大阪市内最後の一等地」と言われ、いろいろな再開発構想があるようだ。
元梅田貨物駅東側道路を北に進むと、その貨物駅跡をくぐる「北梅田地下道」の入口に出る。
約200mの地下道を抜ける。
そこは「新梅田シティ」。ウィスティンホテルと梅田スカイビルという高層ビルが並び、梅田スカイビル40階には、「空中庭園展望台」がある。ここは、かつての「大淀区」だ。
地下1階には「滝見小路」。
「昭和」の街が再現されている。
地上に上がり大淀中1丁目を抜ける。「大淀中1交差点」の角には「北消防署大淀町出張所」。何となくレトロ感が漂う。
交差点に戻り国道176号線に沿って東へ。「中津5交差点」で国道バイパスの側道に入る。
府営住宅前の角を左折し「地蔵堂」に出れば右へ。
すぐ右に「南蛮文化館」。私設の美術館で5月と11月の年2ヶ月間だけ公開されるそうだ。
少し進めば「DEEP」な世界への入口が。
「中津高架下」。チャップリンの隣から突入だ。
かつて倉庫や町工場が並んでいたようだ。
今は閉鎖され、静かに佇んでいる。
結構、通行人はいる。若い女性もひとりで歩いていた。
こんな光景も「開発」や「防災」の名の下に消えていくのだろうな。
頭上を走るバイパスへの階段。
映画のロケもされたようだ。
唯一、稼動中の工場。
階段を登ると左には「阪急中津駅」のホーム。
京都・宝塚・神戸の3線が併走する。それぞれ複線の鉄橋が交わるので駅の敷地は広いが、各駅しか停車しないので駅の規模は小さい(京都線は駅がない)。
駅への階段。通い慣れた人にとっては「日常」だろうが、私にとっては「非日常」な風景。
「駅前」というか「ガード下」というか。
駅前から北に進み左折すると「中津商店街」。
170mほどのアーケード街。
ここには本物の「昭和」が残っている。
あまりに狭いのでアーケード街というより「廊下」のような感じがする。
路地を入れば古い街並みも。
散髪屋さんも
酒屋さんも
豆腐屋さんも「エエ感じ」や。
アーケードを抜けて突き当たりを右折。「市立中津小学校」の塀を過ぎると「富島神社」。
旧牛頭天王社で速素戔嗚尊ら七神を祀る。
富島神社横から北に進むと淀川の堤防に突き当たる。そこにある小さな橋を渡る。
ここには、かつて「中津運河」という運河が流れていたそうだ。今は「廃川」となったが、このような橋がいくつか残る。
大阪を代表する「淀川」の堤防沿いに歩く。
水道橋と新御堂筋が渡る「新淀川大橋」をくぐれば、小さな橋で旧中津運河を渡り、豊崎6丁目の街並みに入る。
「豊崎二之橋」というらしい。
途中、煉瓦がむき出しの古い塀が。
今は駐車場になっているようだが、立派な灯籠や庭石があり、かつての邸宅だったのだろうか。
300mほどで「豊崎神社」の前に出る。御祭神は、645年の大化の改新により難波宮遷都を断行した孝徳天皇。
「難波長柄豊碕宮」の旧跡地と伝わる。ただ、難波長柄豊碕宮は、現在の大阪市中央区にある「難波宮跡」と言われる。しかし、周辺には「長柄」「豊崎」の地名が残る。
神社前の「梅田貨物線」ガードをくぐる。
しばらく東海道線と併走し、信号のあるアンダーパスをくぐり、次の角を右折する。
突き当たりを左折し、路地に入る。
そこは「豊崎長屋」。
大阪の中心にありながら奇跡的に空襲の被害を免れた一角である。
「昭和」がそのまま残る。
国の登録有形文化財に登録されている。当然だろう。
実際に暮らしている方もおられるようだが、町家を利用した店も見られる。
「豊崎長屋」の西側に隣接して「行基菩薩開基南濱墓所」。
今は市設の霊園だが、行基が設置したわが国最初の霊園と言われる。土葬から火葬になった最初の墓所とも言われる。
前の通りを越えると「旧大淀区」から「旧北区」へ戻る。古い町家が並ぶ。いろいろな店として利用されている。
ここは「中崎」。
大阪市中心部でこれだけの古い街並みが残っている所は、ここと「谷町6丁目」くらいだろう。
ここから先は、野里町歩紀~摂河泉をゆく~「中崎界隈から日本一長い商店街」と重なるので参照。
路地に入ると「白龍大神」。
平成元年頃、私用で訪れた時には何もなかったところに「野里町歩紀~摂河泉をゆく~『中崎界隈から日本一長い商店街』」で訪れた際、「ひがし茶屋町西向不動尊」という大きな不動尊ができていた。そして今回、そこはコインパーキングになっており、角に小さな「お不動さん」だけが残っていた。
その向かいには「韓国民団大阪府地方本部」。さすが日本一の「在日の町」大阪。立派な建物だ。
路地を右に折れ「真宗仏光寺派浄方寺」の横を抜ける。
「都島通」に出たところに「天五中崎通商店街」。
400mほどのアーケードで、東端は日本一長い商店街「天神橋筋商店街」と交わる。
入りたくなるような店が並ぶ。
交番を過ぎれば左へ。この建物は「赤灯」が残っている。病院だったのだろうか。
60mほどで「かね又食堂」。時間は、午前11時55分、昼ご飯にしよう。以前から入りたかった店のひとつだ。
名物といわれる「シチューうどん」(500円)を注文した。
昼食を終え、店を出て北に進む。「浮田町1丁目」この辺りも古い建物が残る。
「旧北天満小学校」前を通る。
児童数減少から平成16年、廃校となった。今は、公民館的に利用されているようだ。
都島通に出て右折すると「天神橋筋6丁目交差点」。大阪では「天6(てんろく)交差」で通っている。複雑な5叉路を北東に渡る。そして、再度、「旧大淀区」を歩く。
「関西大学天六キャンパス」前を通る。
300mほどで「城北公園通」に出るので右折する。150mほどで「長柄八幡宮」。
永仁4(1296)年、石清水八幡宮から勧請されたといわれる。八幡大神つまり誉田別命(ほむたわけのみこと)=応神天皇らを祀る。
神社から北に進み「長柄西2丁目」の街を抜ける。
すぐに淀川堤防に出る。ここは、琵琶湖を水源とする淀川が、明治36年、開削された「新淀川」と「旧淀川」に分かれる「毛馬閘門(こうもん)」なのだが、複雑に区境が走り、「毛馬閘門」自体は「都島区」の所在する。ただ、「旧毛馬閘門」や「旧毛馬洗堰」は「北区」側にあり産業遺産史跡公園として整備されている。また、河川敷の一部は「東淀川区」だ(「都島区」編。野里町歩紀~摂河泉をゆく~「桜の大川に沿って」参照)。
「旧毛馬閘門」。「閘門」とは、船を通過させるため、2つの川の水位を調整する設備である。
スエズ運河やパナマ運河のような施設で、旧洗堰とともに国の重要文化財に指定されている。
「毛馬の残念石」。江戸時代の大坂城再建の際、伏見城から運ばれ、運搬船から転落し、後に引き上げられた石垣用の石である。採掘用の杭孔や家紋が残る。
「旧毛馬洗堰」。明治40年、川の水を「新淀川」と「旧淀川」に分けるために造られた。
「中津運河」の延長は、ここでは「長柄運河」と呼ばれたようだ。かつて長柄運河に架かっていた「眼鏡橋」。修復・保存されている。
船溜まりを見ながら信号待ちをし、毛馬橋西詰で「城北公園通」を渡る。後方が現在の「毛馬閘門」。
しばらく「旧淀川」沿いに歩く。
対岸は「都島区」だ。
川沿いを進む。
「飛翔橋」という人道橋をくぐり、前方に「都島橋」が見えてくれば、再度、町中に入り「淀川リバーサイドタウン」という住宅街を抜ける。
高層住宅の間を抜けると「天台真盛宗鶴満寺」。建物自体は、荒廃・再興を繰り返しているが、太平10(1030)年の刻銘がある「朝鮮鐘」が国の重要文化財に指定されているそうだ。
天神橋筋を渡れば「淀川天神社」。
天平10(738)年、行基がこの辺りを開拓した際、守護神として「天穂日命(アメノホヒノミコト)」を勧請したのが始まりといわれる。
そして、すぐ西には「真言宗国分寺派国分寺」。「国分寺」とは「国分尼寺」とともに、国家鎮護のため各国に建立された官寺。
元は孝徳天皇の菩提のため建立された長柄寺が、聖武天皇の国分寺創設により「国分寺」になったと言われる。
国分寺前の都島通を渡り「引っ越しの時はどうするの?」と、いらぬ心配をしそうな狭い路地に入る。
ここからは、再度、「旧北区」だ。
路地を抜けると「市立菅北小学校」。大正11(1922)年開校の小学校。
路地を進むと左にNHK連続ドラマ「ごちそうさん」でも登場した「天満市場」が見えてくる。
市場を抜けると「日本一長い商店街」に出るのだが、その手前を左に曲がる。
居酒屋や大衆食堂などが並ぶ「昭和」の風景が残る。
JR大阪環状線「天満駅」。環状線の駅は古い建物が多い。
天満駅からJR大阪環状線に沿って東へ歩く。
中西金属工業の「煉瓦倉庫」。
「天神橋筋」を右に曲がる。「源八橋西詰交差点」の角にはレトロな「煙草屋さん」。
ここを左に折れれば「旧淀川」に突き当たるので、川筋に沿って南(右)へ進む。
すぐ右には「大阪アメニティパーク(OAP)」。
「帝国ホテル大阪」や「億ション」と言われる高層マンションなどが並ぶ。
途中、右に「旧桜宮公会堂」の案内が見えれば、そちらに進む。「旧桜宮公会堂」。国の重要文化財に指定されており、平成25年から民間委託され、レストランや披露宴会場として利用されている。
この日も結婚披露宴があったようだ。
その南側には「泉布観」。造幣局の前身「造幣寮」の応接所で国の重要文化財に指定されている。
以前は非公開であったが、「旧桜宮公会堂」とともに民間に委託され、外観が一般公開されるようになった。内部は年1回、春分の日前後に公開される。
そして国道を挟んで南側は「造幣局」。現在は、独立行政法人となっているが、硬貨・勲章等を製造する国の機関である。
造幣局の隣には「旧桜宮橋」の橋塔が残る。煉瓦造りだ。
中は「螺旋階段」になっている。
橋塔から再度、川辺に下り、南に進む。ここは「桜之宮公園」。春は桜が美しい(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「桜の大川に沿って」参照)。
川に沿って進めば「天満橋」が架かる。かつての「橋銘板」。
橋の上から下流を眺める。旧淀川は、前方に見える「天神橋」の下で「堂島川(右)」と「土佐堀川(左)」に分かれるが、およそ3.2km先で合流する。この間にできた細長い島が「中之島」だ。
川辺に戻り「南天満公園」を進む。「旧淀川」は、「大川」と呼ばれる。
観光船「アクアライナー」が川面を進む。
先ほど眺めた「天神橋」へ。これから「中之島」を歩こう。
中之島東端の「中之島公園」。明治24年に開設された大阪市初の市営公園らしい。
「ばらぞの橋」を渡れば「バラ園」。
両端にライオン像があることからライオン橋とも呼ばれる「難波橋」で上に上がる。ここから重厚な建築物が並ぶ(野里町歩紀~摂河泉をゆく~「石の館『大大阪浪漫』」参照)。
正面には「大阪市中央公会堂」。大正7年竣工の国の重要文化財。夜間はライトアップされる。
堂島川(北側)沿いに回る。「水晶橋」。昭和4年完成のめがね橋。
その向かいには「大阪府立中之島図書館」。明治37年、ネオ・バロック様式で建築された。これも国の重要文化財だが「耐震化工事」のため全容は望めなかった。
その西側には「大阪市役所」が御堂筋に面して建つ。さすが「大阪24区」の頂点。その偉容から「大阪市庁」と呼ばれる。
大正10年に完成したルネッサンス風の塔が立つ旧庁舎は、昭和57年、取り壊されてしまった。やはり取り壊されてしまった大阪地方裁判所庁舎や他の民間ビルなどすべての建造物が残っていれば素晴らしい風景だっただろう(「大阪を翔ぶ」~大阪新聞社発行から)。
御堂筋を挟んで「日本銀行大阪支店」。この建物も明治36年、ベルギー国立銀行を模して建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。
さらに堂島川に沿って歩く。「渡辺橋」。元々は江戸時代に架けられた木造橋であったが、その後、何度か付け替えられ、現在の橋は昭和2年に架け替えられたもの。
阪神高速道路をくぐると「ダイビル本館」。旧ダイビルは「大阪ビルヂング」と呼ばれ、大正14年に完成したレトロビルだったが解体されてしまった。
平成25年、地上22階建ての高層ビルに生まれ変わったが、低層階部は旧ビルのレンガ約8割を再利用して建てられているそうだ。
次の「田簑橋」南詰で南(左)に曲がり、土佐堀川(南側)沿いに向かう。市立科学館を過ぎれば「常安橋」北詰。
この辺りが中之島で最も幅が広く330mほどあるだろうか。
さらに土佐堀川沿いに歩く。対岸は「西区」。
右に「中之島センタービル」が見えれば、そろそろ中之島西端だ。
土佐堀川に架かる「端建蔵橋」から「堂島川」と「土佐堀川」の合流点望む。正面のコンクリート壁が中之島の「最西端」になる。
ここで再度合流した2本の川は「安治川」と名を変え大阪湾に注ぐ。つまり、琵琶湖を水源とするこの川は、「瀬田川」「宇治川」「淀川」「大川」「堂島川」「土佐堀川」「安治川」と名を変えて海へ注ぐ「7つの顔を持った川」なのだ。右は「大阪中央卸売市場本場」。左は「住友倉庫」(「福島区」編、「西区」編参照)。
ここで中之島を東方向に折り返す。向かいは「福島区」。
しばらく歩くと「堂島大橋」。
右に「リーガロイヤルホテル」。昭和40年、「大阪ロイヤルホテル」として開業した天皇陛下もお泊まりになる大阪を代表するホテルだ。
「玉江橋」が渡る「なにわ筋」を越える。
途中「大阪府師範学校跡」の碑。
先ほど南に折れた「田簑橋」で左折。橋を渡る。橋を渡れば西側は「福島区」になるので東へ進む。
阪神高速道路下の信号を渡り、次の路地を右へ。すぐ右手に「中央電氣倶楽部」。
昭和5年に竣工したレトロビルだ。
会社事務所や会議室が入居する。
すぐに「四つ橋筋」に出るので左折する。目の前には「堂島アバンザ」。毎日新聞大阪本社跡地に建設された地上23階の複合テナントビルで「ジュンク堂」などが入る。
正面には「毎日新聞大阪本社旧社屋玄関」が保存されている。
ビル北東角の人工池上には「堂島薬師堂」。歴史的には聖徳太子の時代までさかのぼるそうだが、今はマジックミラーでできた近代的な作りになっている。
その前に良い雰囲気の路地。
「堂島アバンザ」の北側に約500mにわたって東西に走る「新地本通り」。
高級クラブやバー、料亭などが並ぶ。
北側に並行する通りとともに大阪で最も高級な歓楽街といわれる「北新地」だ。一般的に「新地」と呼ばれている。
「大江橋北詰交差点」で「御堂筋」を渡る。
「曾根崎変電所」と掲げられた古い建物。
大阪市交通局の変電所で、昭和11年の建築だそうだ。
変電所の裏には「大江ビルヂング」。
1921(大正10)年築の地上5階地下1階のレトロビル。
機動隊が警備する「アメリカ総領事館」の脇を抜けて「梅新」方向へ戻る。
「曾根崎通」には横断歩道がないので地下道でくぐれば、今朝スタートした「大阪市道路元標」。午後4時25分着。本日の歩紀「36151歩」(31.08km)。結構歩いたな。中心部を外れると多くの「昭和」が残る。しかし、開発のためレトロな町並みや建造物が、次々と取り壊されていくのが残念だ。
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