訪問日:平成26年9月28日(日)
出 発:近鉄「河内天美駅」
到 着:JR「東部市場前駅」
「旧住吉郡」から成る広大な「住吉区」から昭和18年分区され発足。その後、人口増加などから昭和49年、東半分をさらに「平野区」として分区し、現在に至る。かつての農地は市街地化が進み、人口約13万人。区西部には、「2002FIFAワールドカップ」「2007世界陸上」が開催された「長居スタジアム」や「セレッソ大阪」の本拠地がある「長居公園」が広がり、市民の憩いの場となっている。
また、区内には、日本書紀にも登場する古い地名が残る。仏教・漢字など多くの文化をわが国に伝え、その後、唐・新羅連合軍の侵攻を受け、日本(倭)と同盟を組んで戦ったものの「白村江(はくすきのえ)の戦い」で敗北。日本に逃れ亡命政権を形成した「百済(くだら)」。そんな「百済」ゆかりの地を歩く。
「大阪阿部野橋駅」と「橿原神宮前駅」を結ぶ近鉄南大阪線「河内天美駅」を午前9時50分出発。ここは「大阪府松原市」。
「松原市」をスタート地点にした理由は?それは「大和川」を越えた松原市内に、今日、訪れる「東住吉区」の飛び地が存在するからだ。
駅から北西に約10分ほど歩くと「出雲大社前交差点」。ここが「東住吉区」への入り口である。
この道路の両脇は「松原市」。そして、南北約600mの道路上のみが「東住吉区矢田7丁目」なのだ。これより「東住吉区」を歩く。
この立派な旧家も松原市である。
10分ほどで「阿麻美許曽神社」に突き当たる。「あまみこそ」と読む。「東成区」編で「比売許曽神社」を訪れたが「許曽」とは、意味はよくわからないが「古代新羅語」に由来するらしい(「東成区」編参照)。
「素盞嗚命」「天児屋根命」「事代主命」の三神を祀る。今日一日の安全を祈願する。
由緒の詳細は不詳であるが「延喜式」に載る古社で、境内の楠は、樹齢800年といわれる。
参拝後、すぐ北の「下高野橋」で「大和川」を渡る。「東住吉区矢田」は、宝永元(1704)年の大和川開削により分断され、神社のある場所が飛び地となった。そして、先ほど歩いた細い道は、同社の参道であり、境内とみなされた事から道路のみ「東住吉区」に属するのである。「神社」の存在とは大きいものだ。
「大和川」を渡り、「矢田6丁目」の町に入る。
「六地蔵尊」と「宝神神社」という小さなお社に出れば右へ曲がる。
先ほど乗ってきた「近鉄南大阪線」のガードをくぐり、府営上大和川住宅の角を左折し北上する。
「住道本通商店街」というアーケードに入る。「住道」と書いて「すんじ」と読む。
駅前でもない町中の商店街だ。
アーケードを抜け、この「河内駿河屋」前の信号を右折。
400mほどで「中臣須牟地神社」。「なかとみすむち」と読む。
中臣鎌足の子、藤原不比等の勅命により創建されたという。「須牟地(すむち)」が、現在の地名「住道(すんじ)」の由来になった言われる。「住吉区」編で「神須牟地神社」を訪れたが「須牟地」も「新羅語」らしい(「住吉区」編参照)。
神社東側の道路の更に1本東の筋を北へ進む。筋に入ったのは、この辺りには少なからず水田が残るからだ。
5~6分ほどで「大阪総合保育大学」の校地に出る。
左に曲がれば「城南学園高・中学校」。「城南学園」は、幼稚園から大学までを運営する学校法人で、同校は昭和10年に開校した女子校である。先ほどの「大阪総合保育大学」は、同法人が平成18年に開校した4年制大学(+大学院)だ。
再度、「近鉄南大阪線」のガードをくぐり「大阪芸術大学短期大学部」を過ぎれば右へ。
「長居公園通」を渡り、北へ進めば「素戔嗚尊神社」。延徳元(1489)年の創祀と伝わる。
「日本書紀」仁徳天皇四三年秋九月条に、百済から帰化した「酒君(さけのきみ)」という「鷹匠」が「鷹甘部(たかかいべ)」として、この地を治めたとあることから、この辺りの地名が「鷹合(たかあい)」となった。そのため同社は、別名「鷹合神社」とも呼ばれる。もうここは「百済野」の一角である。
神社の前には、古い瓦葺きの木造の建物が。農協の「農業会館」らしい。
そう言えば結構、畑も残っている。
神社の前を西に進み、団地の緑道を抜け、押しボタン式信号を渡って左折。「長居公園通」の角には「長居公園南東口」。「長居公園」は、昭和29年から造成が始まった大阪市内でも有数の都市公園である。植物園、博物館を中心とした「文化区」と陸上競技場、サッカースタジアムなどを中心とした「スポーツ施設区」に分かれた緑豊かな公園だ。
外周道路を西へ。10分ほどで右に大きな競技場が見える。
「長居第2陸上競技場」。15000人収容のスタンドとナイター設備のある本格的な陸上競技場だ。「ヤンマー」が命名権を取得していることから「ヤンマーフィールド長居」と呼ばれる。向こうに見えるのは「長居陸上競技場」。
「長居陸上競技場」の真横を通る。かなり大きい。こちらは、50000人収容のスタンドがあり、「2002FIFAワールドカップ」「2007世界陸上」などが開催された。Jリーグ「セレッソ大阪」のホームスタジアムでもある。ここも「ヤンマー」が命名権を有し「ヤンマースタジアム長居」と呼ばれる。
その向かいには「長居球技場」。こちらは20000人収容。ここも「セレッソ大阪」のホームグランドである。命名権は、殺虫剤・蚊取り線香で有名な「大日本除虫菊」が取得しており「キンチョウスタジアム」と呼ばれる。そう、あの「金鳥」。
外周道路を渡る。今日は、「市民マラソン」が行われているようだ。みんなタイムを競うことなく自由に走っている。
公園の東半分は「市立長居植物園」になっており、24.2haの広大な敷地には「大阪自然史博物館」と「花と緑と自然の情報センター」がある。こちらは「有料エリア」で、入園料は200円(博物館との共通券は300円)だ。
植物園の入場券(200円)を購入して園内へ。
大きな池を中心に多くの花や木が植えられており、四季折り折りに楽しめる。
「大阪自然史博物館」。入口には大きなナガスクジラの骨格標本が。
とりあえず池の周りを一周することにしよう。
駆け足での見学となったが「植物園」を後にし「郷土の森」を抜ける。
公園北東口から「長居公園」を後にし、目の前の「鷹合1交差点」で右折、東へ進む。
300mほどでここにも「百済」。
「大橋」というが「駒川」に架かる小さな橋だ。
次の信号の左には「こまがわ商店街」。後ほど歩くが、時間は午後0時10分。ちょっと商店街に入り、昼食にしよう。
アーケードに入り、すぐ右の路地を曲がれば「洋食の庄屋」。
「特製オムライス(800円)」を注文。
食事を終え、先ほどのアーケード入り口まで戻り、商店街とは反対の南方向へ進む。
すぐに角に交番がある小さな公園に出る。
「酒君塚公園」。ここは「酒君塚古墳」跡であり、先ほど説明した「鷹甘部」の墓といわれる。
塚頂上の石碑は、明治34年に建てられたものである。
この交番、結構レトロだな。
公園をさらに東へ進み、「近鉄南大阪線」を越える。突き当たりには「市立南百済小学校」。明治7年創立の古い学校だ。そして、その名のとおり付近は「百済野」の南部に位置する。
学校の一角に「日露戦没記念碑」と「戦病死斎碑」。
学校の少し南には、何やら古い街並みが。
ここは「庚申街道」というらしい。
そう言えば街道らしい雰囲気が。
小学校前を北に上がり、信号を左折して「近鉄針中野駅」の前を過ぎる。
先ほどの「こまがわ商店街」前に出る。改めて商店街を歩く。
南北540m、東西190mのエリアに200以上の店舗が並ぶ大阪でも有名な商店街だ。
活気があるな。
アーケードを抜ければ「阪神高速」が通る。地下には地下鉄谷町線「駒川中野駅」。
右に曲がり、近鉄南大阪線のガードをくぐり、狭い路地を東に入る。「針中野1丁目」。
素晴らしい街並みが残る。引き込まれるように歩いていると道に迷ってしまった。しばし、風景をお楽しみ下さい。
地図を頼りに2丁目に入れば「真宗仏光寺派仏願時」「浄土真宗本願寺派林覚寺」が並ぶ。
その南隣には「中井神社」。
境内には立派な楠が。
この辺りも良い風景だ。
そのまま真っ直ぐ進むとタバコ屋さんの前に道標。
路地を斜めに入っていくと、ここにも道標。「でんしゃのりば」「はりみち」。「でんしゃのりば」とは、大正時代に走っていた南海平野線の「中野駅」のことらしい。
そして「はりみち」の方へ。そこは「中野鍼療院」。
「中野家」は、弘法大師から鍼治の秘法を伝授されたという桓武天皇の時代から続くという鍼医者。今で言う「鍼灸師」である。そこから「針中野」という地名になった。
大きな裏門の庇の下にも「鍼」の字が。
正面の門も大きな蔵に挟まれ立派だ。
路地を東に抜けていくと「南百済会館」。
突き当りを北に戻って「平等橋」という橋で「今川」を越えれば「南百済公園」。
川に沿って「今川緑道」が続く。
1300年以上続く流れだ。
「今川」や「百済大橋」が架かる「駒川」は、かつて「百済野」を流れた「百済川(今の平野川)」の名残りである(「生野区」編、「東成区」編参照)。
「今川」は、ここで二手に分かれる。右は「鳴戸川」。
途中、彼岸花が咲いていた。
コンクリートと鉄板に囲まれた味気ない川だが、下水処理水が流れているのか、結構、きれいな水で小魚も泳いでいる。
「今川」と「鳴戸川」は、ここで再度、合流する。
桁下1.5mの「櫨橋」をしゃがみながら抜け、2つ目の「蜆橋」。この先は「水門」で塞がれている。水門から北は「平野川」となる。
橋を渡って西へ。「駒川」を渡る。
地図を頼りに路地を進む。ここは「桑津3丁目」。ここにも古い街並みが残る。
「桑津」は、「日本書紀」応神天皇条に「髪長姫を日向國から摂津國桑津に召した」と記される古い地名だ。かつて、この地には桑の木を植え「養蚕」が行われたことから「桑村」と呼ばれるようになり、さらに「百済川」の船着き場があったことから「桑津」と呼ばれるようになったという。
街並みを抜けると右には「真言宗御室派京善寺」。大坂夏の陣で焼失し、承応2(1652)年、再興されたという。「桑津の不動さん」とも呼ばれる。
その向かいには「桑津天神社」の鳥居。
境内の半分は公園になっており「地車庫」が。ちょうど秋祭りに備えて「地車」の手入れが行われていた。
道を挟んで境内が。社伝によれば、仁徳天皇妃である「髪長媛(かみながひめ)」が病を患ったことから「少彦名神」を勧請して創建されという。
裏に回ると拝殿の後ろにも柏手を打つところが。
さあゴールも近い。神社裏から北に進む。この辺りにも何やら古い建物が。
国道25号線に出れば右へ。
国道を東へ進む。
途中、「蜆橋」から見えていた水門を北側から眺めながら、さらに東へ。
5分ほどで陸橋が渡る大きな「杭全交差点」。「くまた」と読む。国道25号線と大阪内環状線(今里筋)が交わる大阪でも有名な交差点だ。氾濫を繰り返していた旧大和川の改修のため打たれた「杭」に因んで付けられた地名のようだが諸説あり。「生野区」から「平野区」にまたがる地域で、平野区の「杭全神社」は有名。
「杭全交差」には、横断歩道がないので「陸橋」で交差点の北東角へ渡る。そのまま北へ進めば、本日のゴールとなるJR大和路線の「東部市場前駅」があるのだが、その向かいには「JR百済貨物ターミナル駅」。
駅の西側が「テラス状」になっており、構内が見渡せる。昭和38年、貨物専用の「百済駅」として開業。その後、JR貨物駅の再編により、現在の名称に改められた。「百済」と冠する施設で最も大きなものだろう。
駅前の交差点は昔のままだ。
そしてその北側には「大阪市東部中央卸売市場」。福島区の「中央卸売市場」を補完するため昭和39年、開場。早朝から活気あるせりの掛け声が飛び交う。
ここも一般向けの食堂がある。
先ほどのJR「東部市場前駅」に戻る。午後3時ちょうどに到着。本日の歩紀「23643歩」(20.33km)。
平成元年に開業した比較的新しい駅だ。この辺りは、ちょうど「百済野」の中央。ここから「百済川」に沿って北にも「百済野」が広がる。そこに位置する「生野区」「東成区」が「在日コリアン」だけでなく「古代朝鮮」ともゆかりが深い由縁である。
出 発:近鉄「河内天美駅」
到 着:JR「東部市場前駅」
「旧住吉郡」から成る広大な「住吉区」から昭和18年分区され発足。その後、人口増加などから昭和49年、東半分をさらに「平野区」として分区し、現在に至る。かつての農地は市街地化が進み、人口約13万人。区西部には、「2002FIFAワールドカップ」「2007世界陸上」が開催された「長居スタジアム」や「セレッソ大阪」の本拠地がある「長居公園」が広がり、市民の憩いの場となっている。
また、区内には、日本書紀にも登場する古い地名が残る。仏教・漢字など多くの文化をわが国に伝え、その後、唐・新羅連合軍の侵攻を受け、日本(倭)と同盟を組んで戦ったものの「白村江(はくすきのえ)の戦い」で敗北。日本に逃れ亡命政権を形成した「百済(くだら)」。そんな「百済」ゆかりの地を歩く。
「大阪阿部野橋駅」と「橿原神宮前駅」を結ぶ近鉄南大阪線「河内天美駅」を午前9時50分出発。ここは「大阪府松原市」。
「松原市」をスタート地点にした理由は?それは「大和川」を越えた松原市内に、今日、訪れる「東住吉区」の飛び地が存在するからだ。
駅から北西に約10分ほど歩くと「出雲大社前交差点」。ここが「東住吉区」への入り口である。
この道路の両脇は「松原市」。そして、南北約600mの道路上のみが「東住吉区矢田7丁目」なのだ。これより「東住吉区」を歩く。
この立派な旧家も松原市である。
10分ほどで「阿麻美許曽神社」に突き当たる。「あまみこそ」と読む。「東成区」編で「比売許曽神社」を訪れたが「許曽」とは、意味はよくわからないが「古代新羅語」に由来するらしい(「東成区」編参照)。
「素盞嗚命」「天児屋根命」「事代主命」の三神を祀る。今日一日の安全を祈願する。
由緒の詳細は不詳であるが「延喜式」に載る古社で、境内の楠は、樹齢800年といわれる。
参拝後、すぐ北の「下高野橋」で「大和川」を渡る。「東住吉区矢田」は、宝永元(1704)年の大和川開削により分断され、神社のある場所が飛び地となった。そして、先ほど歩いた細い道は、同社の参道であり、境内とみなされた事から道路のみ「東住吉区」に属するのである。「神社」の存在とは大きいものだ。
「大和川」を渡り、「矢田6丁目」の町に入る。
「六地蔵尊」と「宝神神社」という小さなお社に出れば右へ曲がる。
先ほど乗ってきた「近鉄南大阪線」のガードをくぐり、府営上大和川住宅の角を左折し北上する。
「住道本通商店街」というアーケードに入る。「住道」と書いて「すんじ」と読む。
駅前でもない町中の商店街だ。
アーケードを抜け、この「河内駿河屋」前の信号を右折。
400mほどで「中臣須牟地神社」。「なかとみすむち」と読む。
中臣鎌足の子、藤原不比等の勅命により創建されたという。「須牟地(すむち)」が、現在の地名「住道(すんじ)」の由来になった言われる。「住吉区」編で「神須牟地神社」を訪れたが「須牟地」も「新羅語」らしい(「住吉区」編参照)。
神社東側の道路の更に1本東の筋を北へ進む。筋に入ったのは、この辺りには少なからず水田が残るからだ。
5~6分ほどで「大阪総合保育大学」の校地に出る。
左に曲がれば「城南学園高・中学校」。「城南学園」は、幼稚園から大学までを運営する学校法人で、同校は昭和10年に開校した女子校である。先ほどの「大阪総合保育大学」は、同法人が平成18年に開校した4年制大学(+大学院)だ。
再度、「近鉄南大阪線」のガードをくぐり「大阪芸術大学短期大学部」を過ぎれば右へ。
「長居公園通」を渡り、北へ進めば「素戔嗚尊神社」。延徳元(1489)年の創祀と伝わる。
「日本書紀」仁徳天皇四三年秋九月条に、百済から帰化した「酒君(さけのきみ)」という「鷹匠」が「鷹甘部(たかかいべ)」として、この地を治めたとあることから、この辺りの地名が「鷹合(たかあい)」となった。そのため同社は、別名「鷹合神社」とも呼ばれる。もうここは「百済野」の一角である。
神社の前には、古い瓦葺きの木造の建物が。農協の「農業会館」らしい。
そう言えば結構、畑も残っている。
神社の前を西に進み、団地の緑道を抜け、押しボタン式信号を渡って左折。「長居公園通」の角には「長居公園南東口」。「長居公園」は、昭和29年から造成が始まった大阪市内でも有数の都市公園である。植物園、博物館を中心とした「文化区」と陸上競技場、サッカースタジアムなどを中心とした「スポーツ施設区」に分かれた緑豊かな公園だ。
外周道路を西へ。10分ほどで右に大きな競技場が見える。
「長居第2陸上競技場」。15000人収容のスタンドとナイター設備のある本格的な陸上競技場だ。「ヤンマー」が命名権を取得していることから「ヤンマーフィールド長居」と呼ばれる。向こうに見えるのは「長居陸上競技場」。
「長居陸上競技場」の真横を通る。かなり大きい。こちらは、50000人収容のスタンドがあり、「2002FIFAワールドカップ」「2007世界陸上」などが開催された。Jリーグ「セレッソ大阪」のホームスタジアムでもある。ここも「ヤンマー」が命名権を有し「ヤンマースタジアム長居」と呼ばれる。
その向かいには「長居球技場」。こちらは20000人収容。ここも「セレッソ大阪」のホームグランドである。命名権は、殺虫剤・蚊取り線香で有名な「大日本除虫菊」が取得しており「キンチョウスタジアム」と呼ばれる。そう、あの「金鳥」。
外周道路を渡る。今日は、「市民マラソン」が行われているようだ。みんなタイムを競うことなく自由に走っている。
公園の東半分は「市立長居植物園」になっており、24.2haの広大な敷地には「大阪自然史博物館」と「花と緑と自然の情報センター」がある。こちらは「有料エリア」で、入園料は200円(博物館との共通券は300円)だ。
植物園の入場券(200円)を購入して園内へ。
大きな池を中心に多くの花や木が植えられており、四季折り折りに楽しめる。
「大阪自然史博物館」。入口には大きなナガスクジラの骨格標本が。
とりあえず池の周りを一周することにしよう。
駆け足での見学となったが「植物園」を後にし「郷土の森」を抜ける。
公園北東口から「長居公園」を後にし、目の前の「鷹合1交差点」で右折、東へ進む。
300mほどでここにも「百済」。
「大橋」というが「駒川」に架かる小さな橋だ。
次の信号の左には「こまがわ商店街」。後ほど歩くが、時間は午後0時10分。ちょっと商店街に入り、昼食にしよう。
アーケードに入り、すぐ右の路地を曲がれば「洋食の庄屋」。
「特製オムライス(800円)」を注文。
食事を終え、先ほどのアーケード入り口まで戻り、商店街とは反対の南方向へ進む。
すぐに角に交番がある小さな公園に出る。
「酒君塚公園」。ここは「酒君塚古墳」跡であり、先ほど説明した「鷹甘部」の墓といわれる。
塚頂上の石碑は、明治34年に建てられたものである。
この交番、結構レトロだな。
公園をさらに東へ進み、「近鉄南大阪線」を越える。突き当たりには「市立南百済小学校」。明治7年創立の古い学校だ。そして、その名のとおり付近は「百済野」の南部に位置する。
学校の一角に「日露戦没記念碑」と「戦病死斎碑」。
学校の少し南には、何やら古い街並みが。
ここは「庚申街道」というらしい。
そう言えば街道らしい雰囲気が。
小学校前を北に上がり、信号を左折して「近鉄針中野駅」の前を過ぎる。
先ほどの「こまがわ商店街」前に出る。改めて商店街を歩く。
南北540m、東西190mのエリアに200以上の店舗が並ぶ大阪でも有名な商店街だ。
活気があるな。
アーケードを抜ければ「阪神高速」が通る。地下には地下鉄谷町線「駒川中野駅」。
右に曲がり、近鉄南大阪線のガードをくぐり、狭い路地を東に入る。「針中野1丁目」。
素晴らしい街並みが残る。引き込まれるように歩いていると道に迷ってしまった。しばし、風景をお楽しみ下さい。
地図を頼りに2丁目に入れば「真宗仏光寺派仏願時」「浄土真宗本願寺派林覚寺」が並ぶ。
その南隣には「中井神社」。
境内には立派な楠が。
この辺りも良い風景だ。
そのまま真っ直ぐ進むとタバコ屋さんの前に道標。
路地を斜めに入っていくと、ここにも道標。「でんしゃのりば」「はりみち」。「でんしゃのりば」とは、大正時代に走っていた南海平野線の「中野駅」のことらしい。
そして「はりみち」の方へ。そこは「中野鍼療院」。
「中野家」は、弘法大師から鍼治の秘法を伝授されたという桓武天皇の時代から続くという鍼医者。今で言う「鍼灸師」である。そこから「針中野」という地名になった。
大きな裏門の庇の下にも「鍼」の字が。
正面の門も大きな蔵に挟まれ立派だ。
路地を東に抜けていくと「南百済会館」。
突き当りを北に戻って「平等橋」という橋で「今川」を越えれば「南百済公園」。
川に沿って「今川緑道」が続く。
1300年以上続く流れだ。
「今川」や「百済大橋」が架かる「駒川」は、かつて「百済野」を流れた「百済川(今の平野川)」の名残りである(「生野区」編、「東成区」編参照)。
「今川」は、ここで二手に分かれる。右は「鳴戸川」。
途中、彼岸花が咲いていた。
コンクリートと鉄板に囲まれた味気ない川だが、下水処理水が流れているのか、結構、きれいな水で小魚も泳いでいる。
「今川」と「鳴戸川」は、ここで再度、合流する。
桁下1.5mの「櫨橋」をしゃがみながら抜け、2つ目の「蜆橋」。この先は「水門」で塞がれている。水門から北は「平野川」となる。
橋を渡って西へ。「駒川」を渡る。
地図を頼りに路地を進む。ここは「桑津3丁目」。ここにも古い街並みが残る。
「桑津」は、「日本書紀」応神天皇条に「髪長姫を日向國から摂津國桑津に召した」と記される古い地名だ。かつて、この地には桑の木を植え「養蚕」が行われたことから「桑村」と呼ばれるようになり、さらに「百済川」の船着き場があったことから「桑津」と呼ばれるようになったという。
街並みを抜けると右には「真言宗御室派京善寺」。大坂夏の陣で焼失し、承応2(1652)年、再興されたという。「桑津の不動さん」とも呼ばれる。
その向かいには「桑津天神社」の鳥居。
境内の半分は公園になっており「地車庫」が。ちょうど秋祭りに備えて「地車」の手入れが行われていた。
道を挟んで境内が。社伝によれば、仁徳天皇妃である「髪長媛(かみながひめ)」が病を患ったことから「少彦名神」を勧請して創建されという。
裏に回ると拝殿の後ろにも柏手を打つところが。
さあゴールも近い。神社裏から北に進む。この辺りにも何やら古い建物が。
国道25号線に出れば右へ。
国道を東へ進む。
途中、「蜆橋」から見えていた水門を北側から眺めながら、さらに東へ。
5分ほどで陸橋が渡る大きな「杭全交差点」。「くまた」と読む。国道25号線と大阪内環状線(今里筋)が交わる大阪でも有名な交差点だ。氾濫を繰り返していた旧大和川の改修のため打たれた「杭」に因んで付けられた地名のようだが諸説あり。「生野区」から「平野区」にまたがる地域で、平野区の「杭全神社」は有名。
「杭全交差」には、横断歩道がないので「陸橋」で交差点の北東角へ渡る。そのまま北へ進めば、本日のゴールとなるJR大和路線の「東部市場前駅」があるのだが、その向かいには「JR百済貨物ターミナル駅」。
駅の西側が「テラス状」になっており、構内が見渡せる。昭和38年、貨物専用の「百済駅」として開業。その後、JR貨物駅の再編により、現在の名称に改められた。「百済」と冠する施設で最も大きなものだろう。
駅前の交差点は昔のままだ。
そしてその北側には「大阪市東部中央卸売市場」。福島区の「中央卸売市場」を補完するため昭和39年、開場。早朝から活気あるせりの掛け声が飛び交う。
ここも一般向けの食堂がある。
先ほどのJR「東部市場前駅」に戻る。午後3時ちょうどに到着。本日の歩紀「23643歩」(20.33km)。
平成元年に開業した比較的新しい駅だ。この辺りは、ちょうど「百済野」の中央。ここから「百済川」に沿って北にも「百済野」が広がる。そこに位置する「生野区」「東成区」が「在日コリアン」だけでなく「古代朝鮮」ともゆかりが深い由縁である。
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