「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

大阪24区を歩く~町ぐるみ博物館「平野区」

2013-09-20 21:40:49 | 日記
訪問日:平成26年10月19日(日)
出 発:地下鉄「出戸駅」
到 着:JR「加美駅」

 大阪市の南東角に位置する。戦国時代に入り「摂津」「河内」「和泉」の要衝にあり、水運にも恵まれたことから木綿の商いなどで強大な経済力を有し、「環濠」で囲まれた自治都市は「平野郷」と呼ばれた。今も当時の町割りが残る古い町であるが、区自体は昭和49年、東住吉区から分区して誕生。人口約20万人は、24区中最多である。
 また、国道25号線南側の「平野本町」を中心とした1km四方ほどの地区が「町ぐるみ博物館」と呼ばれている。これは、特に博物館という建物があるわけではなく、喫茶店が「珈琲屋さん博物館」、新聞舗が「新聞屋さん博物館」などとして趣向を凝らし、一般に公開されているのだ(公開日はそれぞれ異なる)。
 融通念仏宗総本山「大念仏寺」や「杭全神社」などの旧跡を訪ねながら「平野郷」と「町の博物館」を歩く。


 地下鉄谷町線。大阪市を南北に縦断して「大日駅(守口市)」から「八尾南(八尾市)」を結ぶ。つまり、「河内国」を出て「摂津国」を縦断し、再び「河内国」に戻るのだ。終点から2駅手前の「出戸駅」。「でど」と読む。1番出口を午前9時20分、西に向かって出発。
 

 自転車屋さんの角を左に曲がると、何やら鐘や太鼓、笛の音が。
 

 真っ直ぐ進めば「成本天神社」。秋祭りのようだ。子どもたちがたくさん集まっていた。創建は定かでない。菅原道真を祀るが、孝徳天皇期(大化年間)の645年から649年に「天神」が現れ、社殿を造営したことから「天神社」と呼ばれる。
 

 しかし、菅原道真誕生前であるから「天神」とは、「菅原道真」ではなく「天の神様」と言うことだろう。今日一日の安全を祈願する。
 

 そのまま南に進むと、金網に囲まれた小さな丘。石標には「花塚山古墳」と書かれている。直径25mの円墳であるが、本格的な発掘調査が行われていないので、内部構造や被葬者は不明である。
 

 そして、その背後には広大な「瓜破霊園」が広がる。「うりわり」と読む。日本一の「関東平野」が広がる東京では、「多磨霊園」「小平霊園」など平地に大きな霊園があるが、大阪では「霊園」は、山地に造成されるというイメージがあり、「瓜破霊園」のように平地に広がる霊園は珍しい。
 

 個人墓の撮影は控えるが広大な敷地。空が広い。
 

 メインストリートから霊園の中央を東西に走る通りを抜け園外へ。この辺りには、わずかに水田が残る。
 

 南に進んだ突き当たりに「小松神社」。かつて瓜破の地に住む源氏の一族「宗光」が「安元の戦い」で「平重盛」に一命を救われ、その後、「重盛」が熊野灘で入水したことを知った「宗光」が、「重盛」への報恩のため「小松大明神」として祀ったのが起源と伝わる。
 

 この辺りの氏神として信仰を集めていたが、この後訪れる「瓜破天神社」に合祀された後、昭和22年、この地に遷座した。ここも祭りのようだ。
 

 「小松神社」から「瓜破東5丁目」の町に入る。この辺りには立派な旧家が並ぶ。
 

 「真宗大谷派敬正寺」。
 

 この辺りにも古い街並みが残る。
 

 お祭りのため、軒先には「献燈」の提灯がさがる。
 

 さらに旧家の間を抜けて行く。
 

 良い感じの街並み。
 

 このお屋敷は、すごいな。
 

 この屋敷は国の登録有形文化財に登録されているようだ。
 

 南北の筋に出れば右(北)へ。そこには「瓜破天神社」。孝徳天皇期、当地に居住した高僧「道昭」が「天神」を祀ったのが起源と伝わる古社。
 

 ここも祭りのようだ。
 

 その後、「牛頭天王(素戔嗚尊)」「菅原道真」、先ほど参拝した「小松大明神」などを合祀した。
 

 しばらく住宅街を歩く。
 

 「喜連住宅前」の交差点を渡る。「喜連(きれ)」と読む。この地下には、先ほど乗った「地下鉄谷町線」が走る。平野区には珍しい地名が多い。これは、漢字が伝わる前の地名に漢字を充てたからだといわれる。それだけ歴史が深いのだろう。
 

 「市立喜連小学校」の西側を抜ければ「馬倉地蔵尊」。この辺りにも古い街並みが広がる。
 

 「融通念仏宗専念寺」裏の筋を北へ。ここは「中高野街道」らしい。
 

 「旧屋敷小路」の風景。「お見事!」
 

 ここを右に折れる。
 

 「楯原(たてはら)神社」。延喜式に記された古社である。
 

 兵火・天災に見舞われ転々とし、合祀・分祀を繰り返しながら、明治以降、建御雷命(タケミカズチノミコト)、大国主命(オオクニヌシノミコト)を祀り、昭和26年、当地に遷座、現在に至る。
 

 神社の前も良い感じだ。
 

 神社前から「馬倉地蔵」方向に戻る。
 

 「馬倉地蔵尊」の前を左に曲がり「喜連6丁目」の町へ。この辺りにも古い街並みが残る。
 

 「尻矢口地蔵尊」。
 

 「喜連」の村もかつては濠に囲まれた「環濠集落」であり、集落の北東、つまり「鬼門」を守るために建てられたという。
 

 ぐるっと回って「真言宗如願寺」の前を抜ける。摂津国の霊場「札所」になっているようだ。
 

 「如願寺」の北側を抜けると、交差点の角には「北口地蔵尊」。かつて環濠の周囲に設けられた「木戸」と呼ばれる番所に祀られたものだろう。
 

 「喜連3丁目」の町を抜けていく。
 

 路地を抜けさらに北へ進む。「大阪教育大学附属平野中・高等学校」前を過ぎる。
 

 道を隔てて「附属小学校」。今は使われていないのだろう「通用門」跡。
 

 間もなく「南港通」に出る。右に曲がれば道路沿いには、何でもない自転車屋さんが。「スポーツ車の店・田川」。実は、このお店は「自転車屋さん博物館」なのだが、今日はお休みのようだ。もう博物館に「入館」している。
 

 先ほどの信号で「南港通」を渡る。「自転車屋さん博物館」と「南港通」を挟んで向かい側の「珈琲苑茶坊主」。ここも「珈琲屋さん博物館」。
 
 
 オーナーが集めた100年以上前のミルやカップが展示されている。
 

 「南港通」を東へ進む。信号が見えれば左の路地に入る。立派な「長屋」。
 

 ここは「お米屋さん」のようだ。
 

 「南港通」の南側は「流町」という。そこからの入口に立つ「流口地蔵尊」。
 

 立派な「町家」だな。
 

 再度「南港通」へ。ここは「歴史の散歩道」。
 

 路地を北に入ると「田畑口地蔵尊」。
 

その向かいには「野堂南地車庫」。
 

 路地を抜けていくと「出屋敷口地蔵尊」。
 
 
 「浄土宗櫻井寺」の前を過ぎる。
 

 北隣には「赤留比賣命(あかるひめのみこと)神社」。地元では「三十歩さん」と呼ばれている。
 

 御祭神である「赤留比賣」とは、新羅から逃れてきたと「記・紀」に記された女神で「比賣許曾(ひめごそ)命」とも言われる(「東成区」編参照)。
 

 神社の北から「平野公園」へ入る。公園内には「平野郷」を囲んだ「環濠」の名残り。
 
 
 野球場横を抜け、公園の北東角へ。
 

 かつて「平野酒」という銘酒にも利用された「平野の黄金水」と呼ばれる良質の井戸の跡碑が建つ。
 

 公園の北側の路地を北に抜ける。「市立平野図書館」の手前に古い石の「道標」が。隣の店は「お休み処くろせ」という茶店。お休みのようだ。
 

 一旦、「国道25号線」に出て左折。次の辻を左に折れ、さらに左へ進むと「野堂北地車庫」。
 

 次の四つ辻を左に曲がれば、先ほどの「平野公園」北西角に出る。交番の前には「平野郷」に13あったと言われる木戸のひとつ「樋尻口門跡」。今は地蔵尊だけが立つ。
 

 その隣には「野堂東地車庫」。
 

 筋向かいには、大坂夏の陣徳川方の武将「安藤正次」の墓所。
 

四つ角を南へ。古い街並みが。
 

 誘われるまま町中へ。良い感じの街並みが続く。
 

 

 古い街並みを抜けながら北へ。2つ目の四つ辻を左折すると、目の前には「平野中央本通商店街」のアーケード。
 

 その手前を右に曲がる。ここからは、道を引き返したり、同じ道を通ったりと縦横にさまよう様に歩く。
 

「町家」の前を抜けていくと、先ほどの「国道25号線」に出る。「旧奈良街道」だ。角にある眼科医の横には、当時の「道標」が立つ。
 

 道を戻り、四つ辻を右に曲がれば「京政食堂」。
 

 玄関横には、へっつい(かまど)が置かれている。「へっついさん博物館」だ。ここもお休みのようだ。
 

 次の路地を左に曲がれば、先ほどの「平野中央本通商店街」のアーケードへ。突き当たり斜め左には「和菓子屋さん博物館」。酒饅頭やきんつばなどを扱う「和菓子処梅月堂本店」という老舗だが、ここもお休み。
 

 「昭和」な商店街だな。
 

アーケードを西に進めば、すぐ左に「新聞屋さん博物館」。「小林新聞舗」という明治22年創業の新聞屋さんだ。石造りのレトロな建物。
 
 
 次の辻で左に曲がりアーケードからはずれる。すぐ左に「高野山真言宗全興寺」。聖徳太子の開祖と伝わる古刹である。
 

 山門をくぐれば、すぐ右に「地獄堂」。
 

 閻魔大王が睨みを効かす。
 

 こんなのもある。
 

 境内に入れば「小さな駄菓子屋さん博物館」。
 

 昭和20~30年代の駄菓子屋さんに並んでいたおもちゃなどを展示する。
 

 また「平野の音博物館」も併設されており、昔の電話機に耳を当てれば「昔話」などが聞ける。
 

 境内から出て左へ。「おもろ庵」という茶店。「おもろ」とは、大阪弁で「おもしろい」という意味。
 

 左に折れる。
 

 さらに右へ。ここにも古い街並みが残る。
 

 右へ曲がる。古い酒屋さん。
 

 「真宗大谷派専念寺」の前を抜ける。
 

 次の交差点を右に曲がり、アーケード方向に戻る。ここは「流門筋」と言われるらしい。
 

 アーケードを越えてさらに北へ。ここにも古い町家。空襲を免れた「平野郷」には、結構、古い街並みが残っている。
 

 
 
 子どもたちは、この医院につれて行かれたら泣き叫んだんだろうな。
 

 「亀乃饅頭」という古い饅頭屋さんの角を左へ。
 

 2つ目の四つ辻を左折すれば、角に呉服屋「まつや」。ここは、店主が撮影した昔の平野の映像や古い幻灯機が展示(第4日曜日)され「平野映像資料館」と呼ばれる。
 

 辻向かいには「かたなの博物館」。三代続く「刀剣研師」だ。
 

 アーケードに戻り西へ。区民の生活を支える活気ある商店街だ。
 

 町家を利用した喫茶店。角には「道標」が。左に曲がろう。
 

 「光源寺」の霊園を過ぎ、次の辻を右に曲がり「浄土宗観音寺」の前を進む。
 

 「堺口地蔵尊」と「脊組地車庫」が並ぶ。
 

「堺口地蔵尊」の前の路地を北に入り、道なりに進んでいく。四つ辻の角には「西脇口地蔵尊」。かつての「木戸」跡だが、今は「子安地蔵」として親しまれている。
 

 突き当たりを左に折れると「プロムナード平野」。後ほど訪れるとして、時間は午後0時30分。昼食にしよう。今日は「洋食花園」。しかし、何と「準備中」の表示。日曜日は休みの店が多かったので嫌な予感はしたのだが。
 

 他に店はないかと南に進めば「成金堂」というお好み焼き屋さん。景気の良い名前が気に入った。
 

 「豚玉(550円)」を注文。やっぱ大阪人は「お好み焼き」やね。
 

 食事を終え、先ほどの「プロムナード平野」へ。 大正3年から昭和55年まで「今池」~「平野」間を走った「南海平野線」の跡らしい(「東住吉区」編参照)。
 

道路には「線路」の絵が描かれている。
 

 「緑の電車みち」を進み「市立平野西保育所」の角を右折。道なりに進んでいくと、広い通りに出るので右へ。すぐに細い道になるが、そこには「大福稲荷大明神」が祀られている。
 

 古い街並みを東へ進んでいくと左角に「本屋さん」のある四つ角に出るので左折。
 

 次の角を右に曲がれば、ここにも古い街並みが。
 

 左の建物は、江戸後期建築の農家「今野家」。「町家博物館」だが、現在もお住まいのようだ。
 

 突き当たりを右に曲がり、ぐるっと「高野山真言宗長寶寺」と「本門法華宗本妙寺」の間を進み、次の四つ辻を左に曲がり北上する。古いアパートや町家が並ぶ。
 

 

 「三井住友銀行」の裏に突き当たれば左に折れ、路地を進んで行く。ここのお屋敷も立派だな。「登録有形文化財」のプレートが。
 

 「真宗大谷派浄永寺」と「融通念仏宗大融寺」が並ぶ角を左へ。
 

 先ほどの四つ辻を右に曲がって、次の辻をさらに右に折れる。ここにも「虫籠窓」の立派な町家が並ぶ。「浄土真宗本願寺派永福寺」の前を過ぎる。
 

 

 そのまま北へ進めば「融通念仏宗総本山大念仏寺」の山門前に出る。自分が唱えた念仏の効力が周りの人にも及ぶ。つまり「融通が利く」ということから「融通念仏宗」と呼ばれるようになった。
 

 大治5(1130)年、鳥羽上皇の勅願により、この地に開山されたと伝わる。幾度かの兵火や明治時代の火災により衰退したが、「大阪大空襲」を免れた昭和13年建築の本堂は、大阪府下最大の木造建築物といわれる。
 

 また、当寺は、多数の「幽霊画」を所蔵しており、毎年7月第4日曜日に「幽霊博物館」として公開される。
 

 「大念仏寺」の北東角には「馬場口門地蔵堂」が建つ。13木戸のひとつ「馬場口」に建つ地蔵堂。「平野郷」の北口にあたる。
 

 そのまま真っ直ぐ北に進めば、「国道25号線」の「平野元町交差点」。ここは「旧奈良街道」。国道沿いだが、多くの古い町家が並ぶ。
 

 

 

 「宮前交差点」で「国道25号線」を渡り、「杭全神社」の石鳥居をくぐる。「杭全(くまた)」と読む(「東住吉区」編参照)。
 

 今日はお祭りのようだ。屋台が並び多くの人が。
 
 
 「二ノ鳥居」をくぐると左には樹齢800年を越える「大楠」。大阪府の天然記念物に指定されている。ここにも「地車」と子どもたちが、たくさん集まっていた。
 

 神門をくぐると、多くの人が河内音頭に合わせて盆踊りを踊っていた。
 

 

 「拝殿」の後ろには「素戔嗚尊」「伊弉諾尊」「熊野権現」を祀る3つの本殿。いづれも国の重要文化財に指定されている。毎年7月には勇壮なだんじり祭り「杭全祭り」が行われる。「勇壮」というより「けんか祭り」だ。
 

 神社一帯は「鎮守の森博物館」である。
 

 参拝を終え「二ノ鳥居」をくぐり、左の「杭全公園」にある「お茶池橋」を渡る。これも「環濠」に架かっていた橋なのだろう。
 

 そして、その奥には「平野郷環濠跡」。
 

 かつての「環濠」の名残り。
 

 

 公園の北側から周り「市町地車庫」の角を右に曲がる。
 

 路地を抜ければ、300年にわたって両替商を営んできた「阪井家」が、所蔵の民具等を展示する「平野郷民俗博物館」。
 

 突き当たりには、立派な「二戸一家屋」。
 

 「国道25号線」に戻り左へ。すぐに「含翠堂跡」。享保2(1717)年に創設された郷塾で、明治の学制公布まで約150年存続したと言われる。今は、石碑と碑文が残るだけだ。
 

 路地を入った民家の玄関横にも「含翠堂址」碑。
 

 さらに国道を東に向かって歩こう。200mほどで左に「市ノ口門地蔵堂」。13木戸のうち「奈良街道」の出入口にあった「市ノ口」跡である。
 

 「享保21丙辰(1736年)2月24日」と刻まれた「石燈籠」が並ぶ。
 

 さらに東へ。「韓国民団」前を過ぎると「百済橋」で「平野川」を渡る。この辺りも「百済野」の一部だ(「東住吉区」編参照)。
 

 旧大和川の支流。かつて「百済川」と呼ばれた「平野川」は、これまでも何回か訪れたが、高いコンクリートの堤防に囲まれた「運河」だった。しかし、この辺りでは「川」の雰囲気を残している(「生野区」「東成区」「城東区」編参照)。
 

 次の「平野東1交差点」で国道と分かれ「府道(左)」へと進む。
 

 「加美鞍作(かみくらつくり)交差点」を過ぎる。古代、馬具である「鞍」を作る渡来人集団が住んでいた所と伝わる。やはり、古い土地なんだな。
 

 右には「平野消防署加美出張所」。
 

 そして左には「がんこ平野郷屋敷」。
 

 関西では有名な「がんこ寿司チェーン」の店であるが、江戸初期の豪農「辻本家」の蔵を利用している。
 

 ここもかつての民具を展示する「くらしの博物館」となっている。
 

 自由に見学ができるようになっており、トイレや休憩所も設けられている。
 

 国道を挟んで向かいには「浄土真宗本願寺派善正寺」「真宗大谷派真證寺」と二つの寺院が並ぶ。
 

 「子安地蔵尊」の前には「道標」。
 

 路地をに入れば、大きなお屋敷が。
 

 約1000坪の敷地に建つ江戸初期の豪農「奥田家住宅」。第1・3日曜日のみ公開される(要予約)。国の重要文化財に指定されている。
 

 大門の前には、江戸時代の「高札」。昭和30年、加美村が大阪市に編入されるまで、当時の加美村役場(現区役所加美出張所)前で使用されていたものを移転したもの。
 

 「奥田家」から路地を東に進んで行く。
 

 「ガード?」。かつて国鉄関西線から阪和線を結んだ「阪和貨物線跡」だ。
 

 土手から上に登ってみると、まだ線路が残っている。
 

 

ガードをくぐりぐるっと回ると、今は鳴ることのない「踏切跡」が。
 

 住宅の中を「鉄路」が進む。
 

 金網越しだが、いい風景だな。また「鉄道草」を歌いたくなった(「港区」編参照)。
 

 そのまま北に進み、左に見える歩道橋で「府道」を渡る。歩道橋の階段を下りれば「菅原神社」。
 

 その名の通り「菅公(菅原道真)」を祀る「天神さん」だ。
 

 最後に「天神さん」に参拝し、午後3時20分、すぐ西側のJR大和路線「加美駅」にゴール。本日の歩紀「29608歩」(25.46km)。「平野郷」は国内だけではなく、遠く「安南(ベトナム)」「シャム(タイ)」など海外との貿易でも栄えたという。
 
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