釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

川崎の北の方の散歩

2013年06月02日 20時04分41秒 | お散歩日記/東京地名の話
東京をちょっと外れて川崎北部へ。

まず、最近話題に出た二子新地の三業地あとを探訪。



旧大山街道はわかるけど、三業地らしきものはわからず

親戚が近くに住んでいたので、子供の頃によく遊びにきました。

そのころはこの道路に大井町線が路面を走っていた記憶があります。

どんだけ昔!(汗)

溝の口まで歩いて、南武線で稲田堤へ。

そこから梨畑を見たり

緑豊かな里山を見たり、



ホタルブクロを発見したり、

でも多摩丘陵は恐るべし、上り下りで疲れました。

小田急線生田駅で本日のお散歩終了。

気持ちよかったお散歩でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地キャラクター

2013年05月26日 18時25分57秒 | お散歩日記/東京地名の話
スカイツリー開業一周年

なぜかご当地キャラクターフェスティバルinすみだ2013

ちょっと面白そうなので見に行っちゃいました。

いやはや、玉石混交いろいろなキャラがいる。

本当キャラクター豊か。

そしてすごい人気。

なぜか子供より大人が多いのはなぜ?

ご当地キャラのストラップを下げている大人が多いんですよ。

アキバ系もいるけど、中高年の夫婦とか、女子、団塊世代、若いカップル・・・・・子供連れじゃない人の方が断然多いんですけどね。(自分も含めてね。)

でも意外に面白かったんですが。

なぜでしょう。

いや、はまるのわかるような気がする。

写真を撮りまくってしまった。



一番人気、「くまモン」



元祖ご当地キャラ、スカイツリーは始めての「ひこにゃん」



今治の「バリィさん」



青森県黒石市B級グルメ「つゆヤキソバン」



「西郷どん」



「みやざき犬」の「ひぃ」くん?



千葉県佐倉の「カムロちゃん」



戸越銀座の「銀次郎」



巣鴨の「すがもん」



佐野ラーメンの「さのまる」

トップ画像はエンディングの集合写真

スカイツリーのキャラクターと近隣のキャラクターほか

尼崎の「ちっちゃいおっさん」や北海道の「メロン熊」なんかいます。

いやはや楽しい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人形町

2013年05月24日 23時49分45秒 | お散歩日記/東京地名の話
たまには人形町で一杯。

人形町はご存知のように明暦の大火で吉原か浅草田圃に引っ越す前にあったところ。

埋立地で一面の葦の原っぱだったので「吉原」だとか。

末広神社はそんな元吉原の氏神様。

人形町にはその吉原の名残の大門通りも現存しています。

芳町の芸者さんは、その葦に由来する芳町。

また人形町は、江戸の芝居町、堺町、葺屋町のあったところ。

中村座に市村座。

江戸時代からざっと400年間も盛り場であることはすごいことだね。

一軒目は、某料亭の人形町生まれの総料理長が独立したという店。

美味しいし、値段もリーズナブル。

外へ出ると給料日の週末はすごい人出。



レトロな昭和の町の立ち飲み屋さんには人がいっぱい。

パワーを感じます。



二軒目で入った居酒屋のおでんは真っ黒。

これじゃなくっちゃ。

東京は奥深いのです。

ここが本当の下町。

浅草や葛飾あたりは在ですから。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下谷神社大祭

2013年05月12日 20時26分24秒 | お散歩日記/東京地名の話
今日は上野をお散歩。

上野にある下谷神社は大祭です。



神社の参道は露店も出て大にぎわい。

でもお神輿の渡御は終わったらしい様子。

少し近くを散策。

すると遠くからお囃子の音が聞こえます。

今の新御徒町駅近くは、江戸時代に佐竹家の上屋敷があったので佐竹町といわれ、日本で二番目に古い佐竹商店街があります。

そっちの方角から聞こえるので行ってみると町内神輿を発見。





佐竹商店街のアーケードを行く神輿を鑑賞。



町内の予定ではもう終わっているはずなのにね。

盛り上がっていました。

あとで調べたら、下谷神社は、将門の宿敵、藤原秀郷が勧請したらしいことを知りました。

昨日、神幸祭があった神田明神は御祭神が平将門、そして今日が神輿渡御。

敵味方の神社が同じ日にお祭りとは、不思議な巡り合わせです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新中川に沿って

2013年05月08日 14時54分44秒 | お散歩日記/東京地名の話
新中川といってピンとくる人はなかなかいないのではないでしょうか。

特に墨西の方々は。(笑)

※「墨西」とは、ごん汰の造語で「墨東」に対していいます。

だから、墨田区・江東区・足立区・葛飾区・江戸川区以外はみんな墨西です。

今回は墨田区と江東区の人もわからないかも。

さて話を戻して。

東京には中川と名乗る川が三本あります。

もともと一本の川で、過去には利根川や荒川の本流だったこともある川です。

三本のうち一つは中川の本流。

今、荒川の西側に寄り添うように流れている川です。

荒川の開削で下流の流路が変わっています。

そしてこのブログによく登場する旧中川

荒川放水路(現在の荒川)が作られたことによって荒川に分断された元の中川が荒川の西側に残ったものです。

江戸川区と墨田区・江東区の境になっています。

そして今回登場する新中川

昭和10年(1935年)利根川下流部が水害に襲われ、東京の被害は浸水面積62k㎡、浸水戸数61,000戸、浸水期間15日に及んだといいます。

その三年後、昭和13年(1935年)またしても関東地方が水害に襲われ、中川下流部にも被害が及びました。(昭和13年の洪水で六万戸以上の被害と書いた文章がネットに多く見られますが、これは昭和10年の水害です。)

そこで、中川と江戸川の放水路計画が持ち上がったそうです。

途中、太平洋戦争で中断されて完成したのは昭和38年(1963年)のことです。

葛飾区高砂からほぼ直線で南下し旧江戸川に合流しています。

さて、今回は京葉道路一之江橋下流から左岸を北上。

さすが人口の川、あまり風情がありません。

所々にクルーザーの係留場所があります。(左岸右岸交互に)



大杉橋



鹿本橋(鹿骨と松本を結んでいるから)



鹿骨(ししぼね)新橋から上流



鹿骨新橋の橋の上の像にはなぜかマスクが・・・・。

鹿骨新橋から新小岩方面を目指して川から離れました。

まぁ、のんびりゆったりの川辺散歩でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安行と赤山陣屋

2013年05月06日 20時03分42秒 | お散歩日記/東京地名の話
お散歩の後半は、植木の町「安行」。







農村の風情がいっぱいなんだけど何か違う。

畑の中は庭木だらけ。

変わった垣根も。



これなどは銀杏の垣根。

こんな低い銀杏を見たのは初めてです。

その畑の中にあるのが「赤山陣屋」(赤山城)跡。



関東郡代の伊奈家の陣屋跡で広大なもの。

伊奈家が改易のあとは農地に利用されたようで、陣屋跡の多くが植木畑になっていました。



でも空堀なども残って当時を忍ばせています。

安行の植木の歴史もこの赤山に伊奈家の陣屋ができて、植木の栽培を奨励したことや、大火のたびに大量の植木が必要だった江戸の事情が合致したためだといわれています。

伊奈家に関しては劇団時代に七代目忠順(ただのぶ)の宝暦富士噴火に対する復興事業を扱った「怒る富士」 (新田次郎原作)の上演に携わったことがあります。

ですから親近感を持っていました。

その居館あとを訪れることができたのは感慨無量でした。

そのあとそばにある伊奈家の菩提寺の源長寺にも行くことができました。


源長寺

歴史と植物の有意義な一日でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

草加・新田駅から川口・新井宿まで

2013年05月05日 21時29分14秒 | お散歩日記/東京地名の話
今日は少しだけ遠出しました。

東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の新田駅から埼玉高速鉄道の戸塚安行駅経由、新井宿駅までお散歩しました。

前半は綾瀬川沿いやその支流の用水沿い歩き、後半は植木の里・安行の中の史跡を歩きました。



綾瀬川は桶川市を源流として埼玉県から足立区を流れ、下流は荒川に注ぐ川ですが、昔は荒川の本流だったこともあるそうです。

荒川開削以前は、隅田川に注ぎ、合流地点は隅田川の難所で、鐘ヶ淵の伝説にもなった場所です。

今回は中流域、草加市と越谷市の境を上流に向かって歩きました。

河岸は桜並木で、葉桜が気持ちいい季節です。

この川なぜか橋が少ないです。

向こう岸と行き来がないんでしょうね。

橋があるところは、越谷市が南側にはみ出しているということは、昔はもっと蛇行していたんだろうな。

でも単調な川沿いの道。w

そのうち道は川から離れ、新興住宅地の中の用水沿いを西へ。

そして戸塚安行駅へ。

後半戦はまた明日。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町屋の山吹の里

2013年05月04日 22時50分42秒 | お散歩日記/東京地名の話
七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき

「後拾遺和歌集」の中務卿兼明親王の歌ですが、それよりも太田道灌の山吹伝説で使われているので、太田道灌の歌とか、山吹の里の女の歌だと思っている方も多いのではないでしょうか。

雨宿りの道灌、里の女に所望した雨具の簑。

その返答は山吹の一枝。

歌に寄せて簑がないことを暗に告げた女の真意を解らなかった道灌が、その後歌道に励むという逸話です。

落語「道灌」にも取り上げられている逸話なので広く知られています。

前にも書いたように、神田川にかかる面影橋あたりがその舞台だといわれています。

昨日はもう一つの伝承地、荒川区町屋の泊船軒というお寺に行ってきました。

泊船軒はもともと台東区松が谷の禅寺海禅寺の塔頭で、関東大震災後に先代住職の隠居所があった町屋に移転したそうです。



この境内に山吹塚という伝説にまつわる塚があります。



こじんまりした塚ですが、周囲に山吹が植えられていて風情を出しています。

町屋駅から京成線で二駅、日暮里駅前には太田道灌の銅像があります。



そのそばの道灌山といい、この町屋の地は山吹伝説にしっくりいく場所ではないでしょうか。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺の出開帳

2013年05月02日 15時32分52秒 | お散歩日記/東京地名の話
善光寺の出開帳が両国の回向院で行われています。

終戦後初めてだとか。

出開帳(でがいちょう)とは何でしょうか。

江戸時代には、現世利益をもとめ社寺への参詣が流行しました。

成田山新勝寺、江ノ島の弁財天、大山の阿夫利神社など遊山をかねた参詣が盛んに行われ、その人気は大変なものでした。

今はどこも電車ですぐですが、当時は徒歩の旅、誰でも行けるというものではありません。

まして旅行が自由ではなかった時代です。

もっと遠方の信州善光寺などなかなか行けるところではなかったのです。

そこで逆に、遠方の寺のご本尊が江戸まで出向してくるのです。

鎌倉時代に信州善光寺の出開帳が京都で行われた記録があるそうです。

江戸では元禄16年の4月から60日間行われた成田山新勝寺の出開帳がその最初で、現・深川不動堂(当時の永代寺の境内)で行われたものでした。

その賑わいぶりは大変なものでした。

それはそうでしょう、有名寺院のご本尊がご近所までいらっしゃるのだから。

その時は、ご本尊は江戸城まで出向たようです。

善光寺の出開帳は本所回向院(両国)で行われ、安永7年(1778)では、60日で1,603万人の参詣があったともいわれています。

江戸時代も今回も出開帳されているのはご本尊の分身仏である前立御本尊です。

善光寺ではこの前立御本尊を奉じて全国各地で出開帳をお行い資金を集めたようです。

宝永4年(1707年)に、この資金をもとに現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられたということです。

このように遠くの寺が江戸で本尊を開帳するのは、資金集めの意味もあったようです。

さて信州善光寺は何宗の寺院なのでしょうか。

実は無宗派なのです。

天台宗大勧進貫主と浄土宗大本願善光寺上人(大本願上人・尼僧)のお二人が善光寺の住職なのです。

その点でも珍しい寺院といえますね。

さて今回です。

いろいろなイベントがあるけど拝観料が1000円(もちろん全額東日本大震災の復興資金になるのですが。)・・・・微妙。

本堂の前はすごい人だかりだし。

長野の善光寺に行ったことあるし。

その時はちょうど御開帳(その場でやる開帳は居開帳という。)だったし。

それに、青山にも善光寺はあるし。

というわけでなかには入りませんでした。(笑)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太田道灌家供養塔

2013年04月30日 20時04分34秒 | お散歩日記/東京地名の話
東京には、江戸城を作った太田道灌に関する土地がいくつかあります。

落語「道灌」で知られる山吹の里の伝承の残る神田川面影橋や荒川区町屋、道灌山の名前が残る日暮里、赤羽駅の西側にある赤羽道灌山、皇居内にある道灌堀などですが、前にも書いた墨田区太平の法恩寺には太田道灌家供養塔があります。

現在の神奈川県伊勢原で殺害された道灌の墓は伊勢原にあります。

ここにあるのは、17世紀後半に子孫が建てた供養塔です。

2m以上もある大きなものです。

境内には山吹伝説に関する大きな石碑もあります。



光の加減で見えにくいですよね。

東京に多くの足跡を残している太田道灌なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする