釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

比企谷の雨

2006年09月21日 04時19分09秒 | お散歩日記/東京地名の話
久々に鎌倉を歩いた。
連休の人ごみの中を名所の寺院をめぐり、まだ少し夕暮れには時間があったので、鎌倉駅周辺のまだ訪れたことのない寺に詣でた。

鎌倉駅から東へ10分足らず、滑川を渡り、山に囲まれた比企谷(ひきがやつ)に妙本寺はある。

1203年(建仁3年)9月、鎌倉幕府の重要な御家人であった比企能員(ひき・よしかず)が幕府の覇権争いから北条氏に誅殺され、二代将軍頼家の長男で当時六歳の一幡とその母・若狭局をはじめとする比企一族は、この比企谷の屋敷で火をかけて滅亡に追い込まれる。

1979年のNHK大河ドラマ「草燃える」では、頼家(郷ひろみ)若狭局(白戸真理)比企能員(佐藤慶)でドラマ化されている。
「草燃える」配役一覧

その後、比企氏の菩提を弔うために、比企氏の生き残りで能員の末子、能本が一堂を建立したことに始まる寺である。頼家と若狭局の娘の竹御前が難産で亡くなったために、ここにお堂を建てたことがはじまりであるともいわれる。

どちらにしても、比企氏の怨念がいろいろと祟りを起こしていたと思われる。
次のような話も伝わる。若狭局の霊が、義時の孫娘に乗り移るという事件が起きている。
まさしく比企一族の怨霊が跋扈していたようだ。それを鎮める意味があったのであろう。1260年(文応元年)日蓮の弟子の日朗によって妙本寺として開山されている。


滑川の橋を渡ると正面に総門が見えてくる。
山門の右側に変わった形の幼稚園。その奥の谷間に寺がある。
木々が鬱蒼と茂り、鎌倉駅のそばなのに深山の趣である。
左手の冠木門から階段の上がると本堂。

本堂

直進して階段を上ると二天門、その先に広々とした境内と祖師堂がある。
祖師堂の三方は山である。
典型的な鎌倉の谷戸(やつ)地形である。


二天門


祖師堂

祖師堂の右手には比企氏の供養塔。
左手には大きな日蓮像と墓地。

ここまで来たところで、台風の余波だろうか、にわかに雨が降り出した。
細かい霧雨だ。広々とした境内なのに陰陰滅滅とした雰囲気が充満している。
とってもじゃないけど、供養塔にはカメラを向けられなかった。
相当に比企氏の怨念は強いらしい。

ただ、救いは祖師堂の階段にいた猫。
まったく人を怖がらない。
あとで鎌倉のいろいろなサイトで見たら、鎌倉では有名な猫らしい。


有名猫

境内を跡に、境内の北側にある蛇苦止(じゃくし)明神へ向かう。
北条氏の娘に乗りうつった若狭局の霊を鎮めるために作られたお堂だという。
そこまでの道のりは、細く階段が続く。
さらに陰陰滅滅としてくる。雨であたりも薄暗い。
お堂に着くと右手に古井戸があった。
若狭局が身を投げた井戸だとか・・・・・あれ、焼死したんじゃないんだ。
ここでもカメラを向ける気分には到底なれなかった。

画像がないのもなんなんで、サイトをリンクしておきます。
供養塔・蛇苦止堂の画像

こう考えると鎌倉はいくつもの谷戸にたくさんの怨霊を抱えた土地なんだなぁと思える。
鎌倉時代の初期には北条氏の有力御家人の排斥。
そして終末期には、新田義貞の鎌倉侵攻による大殺戮。
あんまり気持ちがいい土地ではない。

でも、妙本寺はそんなことも忘れさせるくらいに自然に満ちた寺である。
鎌倉にはまだまだ知らない寺があるし、知らない季節がある。
また紅葉の季節にでも訪ねてみたい。

妙本寺を出て、滑川を渡ると、そこには本覚寺が、怨霊が谷戸から出ないように、まるで蓋をするように妙本寺に対峙していた。



コメント
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