釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

富士山の山開き

2009年07月02日 06時29分24秒 | 季節
七月になりました。七月一日は富士山の山開きです。
富士山信仰が盛んであった江戸時代、富士山に登りたくても登れない庶民は、江戸市中各地に富士塚といわれる擬似富士山をたくさん作りました。都内だけでもその数100に及び、現存する80以上が現存しているようです。

富士山の山開きは五月晦日から六月朔日に登山して、六月朔日の御来光を拝むというのでした。現在では月遅れで七月朔日(一日)に行われています。
今年の富士山は残雪が多く、頂上までは登れなかったようですね。

東京各地の富士神社や浅間神社、また富士塚でも山開きの行事やお祭りが行われています。

特に有名なのが、浅草浅間神社のお祭りで、通称「お富士さんの植木市」と呼ばれいます。開催日は少し変わっていて、もともとの山開き直前の五月最終土日(旧暦の名残)と月遅れの六月最終土日(現在の山開き)の四日間に行われるというかたちで残っています。



浅草浅間神社


最寄り駅/浅草駅


祭神はコノハナサクヤヒメノミコト(木花咲耶比売命)で静岡県富士市の浅間神社から蔵前に勧請・分祀され、江戸時代に現在の場所に移されたということです。
ここはもともとここは小高い丘であったので特に富士塚のようなものは作られなかったようです。都内のどこの浅間神社や富士塚からも富士山が望めたそうで、ここからも富士山の姿が拝めたんでしょうね。

画像の社頭の幕に見える神紋の右側は三社祭でおなじみの浅草神社の神紋で、左側が桜紋です。コノハナサクヤヒメは富士山の女神として名高いと同時に、桜の神様としても知られています。
なぜ浅草神社の神紋が描かれているかというと、この神社は現在浅草神社が管理しているからです。

神社の目の前にはご丁寧に「台東区立富士小学校」まであってなかなか芸が細かいです。



「お富士さんの植木市」と呼ばれるように数多くの植木屋が明治以降たくさん出るようになりました。梅雨の時期だから植物の栽培に適していたからとか、「お富士さん」で求めた苗は根付がいいとか言われ盛んになったようです。
今でも60軒ほどの植木屋が並びます。

植木市がたつあたりは浅草花柳界の見番の前の通りで、いぜんにブログで紹介した旧象潟町の六郷家の下屋敷の跡になります。
今年も見事に西施の合歓の花が咲いていました。



象潟や雨に西施がねぶの花(去年のブログ)

ここの神社では麦藁蛇(むぎわらじゃ)というものが売り出されます。



これは昭和初期まで浅草浅間神社の植木市で頒布されていたものを復活させたものだそうです。
江戸時代寛永年間に駒込に住む喜八という人が、駒込の富士浅間神社の祭礼で売った麦わらの蛇を、珍しさから多くの人が買い求めたそうです。その年、夏に疫病は流行ったのですが、この蛇を飾った家からは病人が出なかったそうです。
それでたいそう評判になり、その後は誰もがこの麦藁蛇を買い求めたそうです。
そうしたことから江戸中の浅間神社でも麦藁蛇を頒布するようになって、浅草の浅間神社でも長く頒布されていたようです。



麦藁蛇は前に頂いたことがありましたので、今回はご朱印をいただきました。

さて次は、その麦藁蛇の発祥の地、駒込の富士神社に行ってみましょう。

駒込富士神社



こちらにはご覧のように立派な富士塚があり、その頂上に社殿が建っています。
富士塚には本当の富士山の溶岩などを使って、富士山に行かずとも富士山に登った気分にさせる工夫がいっぱいです。何合目と書いた石の標柱なんかもそれらしくていいですね。



これは境内にあった富士講の幡・・・本物の富士山に登山した時のものではないでしょうか。



この富士神社は
駒込は一富士二鷹三茄子
と川柳で詠まれています。
駒込には幕府の鷹匠屋敷が今の都立駒込病院のところにあり、また江戸野菜のひとつ駒込茄子で知られた土地だったことからです。
おめでたい土地なんですね。

最寄り駅/駒込駅.本駒込駅・文京区

ほかの富士塚も見てみましょう。

品川神社



品川神社自体が高台にあるので、そこに築かれた富士塚は非常に高く、見晴らしもよくなっています。
まさしく山登りの雰囲気です。

最寄り駅新馬場駅・品川区

鉄砲洲稲荷神社



中央区の鉄砲洲稲荷の富士塚はこじんまりしています。
小さいとはいえ登れるようです。

最寄り駅八丁堀駅・中央区



コメント
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