日比谷線は最短距離を通らずに不自然に六本木を通っているという事実があります。
本当は日比谷線は
神谷町→麻布十番→広尾
のルートを通る予定が、六本木経由になったからおおきく迂回しなくてはならなかったらしいのです。
ではなぜ麻布十番を通らなかったのでしょう。
その理由には、麻布十番で日比谷線がくることに反対したからだといううわさがあります。
さて私は現在、港区麻布支所の協働推進課が主催する「あざぶ達人倶楽部」という集まりに参加しているます。先日、その集まりで麻布十番商店街の方にお話を聞く機会がありました。
そこでこんな話が出ました。
商店街の方が、「大江戸線」「南北線」が開通したときの喜びを語られました。
麻布十番は、日比谷線が開通した昭和39(1964)年3月の5年後、昭和44(1969)年10月に都電が廃止されて、それから平成12(2000)年9月南北線、同年12月大江戸線の麻布十番駅が開設されるまで約30年間を鉄道が通らない陸の孤島となってしまいました。ですから悲願の地下鉄開通だったわけです。
その話に対して、参加者の方から、日比谷線の反対運動があったと聞くけれど、反対しなかったら駅ができていたのではないかという趣旨の質問がありました。
実際に反対運動があったのでしょうか?
お話によりますと、商店街の総意ではなかったが、実際に反対する人がいて、それを新聞社が取材して、麻布十番が反対していると大々的に取り上げてしまったそうです。
そのころはまだ都電も健在でした。客が他所から来るといういうことより、地元民が他所に行ってしまうということが反対の大きな理由だったようです。
日比谷線の開通の昭和39年は、ご存知のように東京オリンピックの年です。
日比谷線の建設もオリンピックの前にぜひとも作り上げるという意気込みだったのでしょう。ですから反対が少しでもあって開通が遅れるよりも、迂回の手段をとったのではないでしょうか。
もう少し時間に余裕があったら、話し合いをして、日比谷線は麻布十番を通っていたかもしれません。
当時の六本木は六本木族に代表されるおしゃれな町でした。全国区になりつつあった六本木が近くにあったのも、麻布十番の不幸だったのかもしれません。すんなり六本木駅を作ることになってしまったのではないでしょうか。
当時、今でも我が家が利用している信用金庫は麻布十番に支店はありましたが、六本木には支店がありませんでした。わざわざ麻布十番まで出かけるほど、麻布十番は大きな商店街だったのです。
明治時代は、人形町、神楽坂と並ぶ商店街だったそうです。しかし、戦災にやられた後は普通の商店街になっていたのでしょう。でもまだまだ活気はありました。
そのころは六本木よりも商店街の充実は上だったはずです。
六本木よりもはるかに生活に密着した町だったのです。
地下鉄開通前の麻布十番は35年間の空白で、ご存知のように大人の隠れ家とか山の手の下町、外国人がたくさんいる町・・・・という落ち着いたイメージの町になって行きましたが、一方で「納涼まつり」のほかは忘れられた町になっていたようです。
今は数十万人を集める納涼まつりもそんな忘れられた町のアイデアだったそうです。
昔の納涼まつりは、なんかホンワカしていい祭りでしたよ。大使館の屋台も一箇所に集められずに、中央の通りのそこかしこに出て、地元民と一緒に外国の方も楽しんでいました。
一方、六本木は、日本を代表する歓楽街に変貌していきました。
商店街の方が、負け惜しみではなく、空白の35年は今の麻布十番を形成するためには必要だったと言われていました。
もしも麻布十番に駅ができていたら、十番が今の六本木のような町になって、六本木が俳優座劇場や昔ながらの書店が並ぶ文化の町になっていたかもしれません。
たぶん、六本木は日比谷線が通らなくても、千代田線が少しずれて通っていたんじゃないかと想像しています。
日比谷線の大きな迂回にはこんな話があったんですね。
*画像は麻布十番の古刹「善福寺」と背後にそびえる「麻布ヒルズ」。
新旧の対比も麻布十番の魅力です。
本当は日比谷線は
神谷町→麻布十番→広尾
のルートを通る予定が、六本木経由になったからおおきく迂回しなくてはならなかったらしいのです。
ではなぜ麻布十番を通らなかったのでしょう。
その理由には、麻布十番で日比谷線がくることに反対したからだといううわさがあります。
さて私は現在、港区麻布支所の協働推進課が主催する「あざぶ達人倶楽部」という集まりに参加しているます。先日、その集まりで麻布十番商店街の方にお話を聞く機会がありました。
そこでこんな話が出ました。
商店街の方が、「大江戸線」「南北線」が開通したときの喜びを語られました。
麻布十番は、日比谷線が開通した昭和39(1964)年3月の5年後、昭和44(1969)年10月に都電が廃止されて、それから平成12(2000)年9月南北線、同年12月大江戸線の麻布十番駅が開設されるまで約30年間を鉄道が通らない陸の孤島となってしまいました。ですから悲願の地下鉄開通だったわけです。
その話に対して、参加者の方から、日比谷線の反対運動があったと聞くけれど、反対しなかったら駅ができていたのではないかという趣旨の質問がありました。
実際に反対運動があったのでしょうか?
お話によりますと、商店街の総意ではなかったが、実際に反対する人がいて、それを新聞社が取材して、麻布十番が反対していると大々的に取り上げてしまったそうです。
そのころはまだ都電も健在でした。客が他所から来るといういうことより、地元民が他所に行ってしまうということが反対の大きな理由だったようです。
日比谷線の開通の昭和39年は、ご存知のように東京オリンピックの年です。
日比谷線の建設もオリンピックの前にぜひとも作り上げるという意気込みだったのでしょう。ですから反対が少しでもあって開通が遅れるよりも、迂回の手段をとったのではないでしょうか。
もう少し時間に余裕があったら、話し合いをして、日比谷線は麻布十番を通っていたかもしれません。
当時の六本木は六本木族に代表されるおしゃれな町でした。全国区になりつつあった六本木が近くにあったのも、麻布十番の不幸だったのかもしれません。すんなり六本木駅を作ることになってしまったのではないでしょうか。
当時、今でも我が家が利用している信用金庫は麻布十番に支店はありましたが、六本木には支店がありませんでした。わざわざ麻布十番まで出かけるほど、麻布十番は大きな商店街だったのです。
明治時代は、人形町、神楽坂と並ぶ商店街だったそうです。しかし、戦災にやられた後は普通の商店街になっていたのでしょう。でもまだまだ活気はありました。
そのころは六本木よりも商店街の充実は上だったはずです。
六本木よりもはるかに生活に密着した町だったのです。
地下鉄開通前の麻布十番は35年間の空白で、ご存知のように大人の隠れ家とか山の手の下町、外国人がたくさんいる町・・・・という落ち着いたイメージの町になって行きましたが、一方で「納涼まつり」のほかは忘れられた町になっていたようです。
今は数十万人を集める納涼まつりもそんな忘れられた町のアイデアだったそうです。
昔の納涼まつりは、なんかホンワカしていい祭りでしたよ。大使館の屋台も一箇所に集められずに、中央の通りのそこかしこに出て、地元民と一緒に外国の方も楽しんでいました。
一方、六本木は、日本を代表する歓楽街に変貌していきました。
商店街の方が、負け惜しみではなく、空白の35年は今の麻布十番を形成するためには必要だったと言われていました。
もしも麻布十番に駅ができていたら、十番が今の六本木のような町になって、六本木が俳優座劇場や昔ながらの書店が並ぶ文化の町になっていたかもしれません。
たぶん、六本木は日比谷線が通らなくても、千代田線が少しずれて通っていたんじゃないかと想像しています。
日比谷線の大きな迂回にはこんな話があったんですね。
*画像は麻布十番の古刹「善福寺」と背後にそびえる「麻布ヒルズ」。
新旧の対比も麻布十番の魅力です。