今日は西麻布にある長谷寺の寺名について考えたいと思います。
「長谷寺」は「はせでら」とは読まずに、「ちょうこくじ」と読みます。
なぜ、「はせ」ではないのでしょうか?
みなさんは、奈良県にある長谷寺をご存知でしょうか?
奈良県桜井市初瀬(はつせ)にある長谷寺(はせでら)は真言宗豊山派の総本山で十一面観音で有名な寺です。
万葉集では「隠国(こもりく)の泊瀬」と詠まれている場所で、長い谷の地形から「長谷の泊瀬・初瀬」とも呼ばれて、そこから「長谷」を「はせ」と呼ぶようになったようです。
奈良の長谷寺は八世紀はじめに建立されました。
その後、国家の庇護を受けるようになって、観音信仰の発祥地として栄えていきます。
観音様といえば長谷寺というまでになっていきます。
ご存知のように「源氏物語」にも登場して、その賑わいは人々の知るところとなっていったのです。
そして、十二世紀中頃までに成立したといわれる西国三十三観音霊場の一つに数えらえ、庶民にまで浸透していきます。
さて、話を麻布の長谷寺に戻します。
長谷寺の現在ある場所には、寺の創建(慶長三年・1598年)以前から観音堂があったそうです。
この観音堂には、先ほどの大和の長谷寺と同じ木でできた四寸(約12センチ)あまりの観音様が祀られ、人々の信仰を集めていました。
この観音堂を元に、徳川家康の幼なじみで今川義元の孫といわれる門庵宗關を開山として、二万余坪の寺領を与えて開いたのが麻布の長谷寺なのです。
ですから、宗派は違えど観音様の縁で長谷寺と名付けられたのでしょう。
では何で「はせでら」ではないのでしょうか?
その答えを意外なところで見つけました。
先日NHK「新日本風土記・佐渡」を見ていた時のことです。
佐渡にある「長谷寺(ちょうこくじ)」が紹介されました。
この寺は大和の長谷寺を模して作られたそうで、本家の名前を憚って「ちょうこくじ」と呼ばれているそうです。
佐渡には同じく小規模ながら舞台造りの「清水寺(せいすいじ)」もあって納得させられます。
麻布の長谷寺もそんな理由から「ちょうこくじ」なのではないでしょうか。
さて明日は麻布長谷寺の境内の謎についてお話します。
*画像は現在の麻布大観音
*長谷寺については以前ブログで書きましたので参照してください。
「長谷寺」は「はせでら」とは読まずに、「ちょうこくじ」と読みます。
なぜ、「はせ」ではないのでしょうか?
みなさんは、奈良県にある長谷寺をご存知でしょうか?
奈良県桜井市初瀬(はつせ)にある長谷寺(はせでら)は真言宗豊山派の総本山で十一面観音で有名な寺です。
万葉集では「隠国(こもりく)の泊瀬」と詠まれている場所で、長い谷の地形から「長谷の泊瀬・初瀬」とも呼ばれて、そこから「長谷」を「はせ」と呼ぶようになったようです。
奈良の長谷寺は八世紀はじめに建立されました。
その後、国家の庇護を受けるようになって、観音信仰の発祥地として栄えていきます。
観音様といえば長谷寺というまでになっていきます。
ご存知のように「源氏物語」にも登場して、その賑わいは人々の知るところとなっていったのです。
そして、十二世紀中頃までに成立したといわれる西国三十三観音霊場の一つに数えらえ、庶民にまで浸透していきます。
さて、話を麻布の長谷寺に戻します。
長谷寺の現在ある場所には、寺の創建(慶長三年・1598年)以前から観音堂があったそうです。
この観音堂には、先ほどの大和の長谷寺と同じ木でできた四寸(約12センチ)あまりの観音様が祀られ、人々の信仰を集めていました。
この観音堂を元に、徳川家康の幼なじみで今川義元の孫といわれる門庵宗關を開山として、二万余坪の寺領を与えて開いたのが麻布の長谷寺なのです。
ですから、宗派は違えど観音様の縁で長谷寺と名付けられたのでしょう。
では何で「はせでら」ではないのでしょうか?
その答えを意外なところで見つけました。
先日NHK「新日本風土記・佐渡」を見ていた時のことです。
佐渡にある「長谷寺(ちょうこくじ)」が紹介されました。
この寺は大和の長谷寺を模して作られたそうで、本家の名前を憚って「ちょうこくじ」と呼ばれているそうです。
佐渡には同じく小規模ながら舞台造りの「清水寺(せいすいじ)」もあって納得させられます。
麻布の長谷寺もそんな理由から「ちょうこくじ」なのではないでしょうか。
さて明日は麻布長谷寺の境内の謎についてお話します。
*画像は現在の麻布大観音
*長谷寺については以前ブログで書きましたので参照してください。
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