月曜日に紹介しました加藤俊生さんの梵行という小冊子で紹介されている理趣経の現代語訳(解釈)について引き続き紹介させてください。 (春眠曉を覚えず)
本当の人生を行きたいと思い、永遠の命を得ようと決心した菩薩は、この世に生と死がくりかえされ、苦しみの続くかぎり、ひとりだけの幸福に安隠とすることはできず、我が身を捨てて利他を行う中に、かえって、本来の自己を取り戻す。
生物は地上において苦しみながら生きぬいてきた結果、『自分だけが』『私こそが』『私だけの』という『利己欲』を太らせ、この性によってますます他を苦しめ、自分を苦しめている。真の幸福を得るには、この『我欲』に根ざした妄想を除くほかにない。
そのためには、実は、他のためというよりも、自分のためにこそ、利他の行をする必要がある。『自他平等』と言われるが、自分と他人とは同じ生命あって平等であるという意味と、他人とは自分の心の中の一つであり実は自分であるという意味がある。
つまり、利他の行を行うとは、他者が自分と同じ『痛みをもつもの』であることを分かることであり、自分の中の他人という自己分裂を治療することでもある。すなわち、『我欲』をはなれた本当の心=『般若』と、我欲を退治する利他行=『方便』が必要である。この真実を見抜く知恵と、ひとりも不幸にしない方法を、みんなが出し合って、力を合わせるとき、すべての命と、ありとあらゆるものが、互いに輝きあい、互いに喜ばしく、楽しく、美しく、互いに励まし合うようになる。
この時、我々の『我欲』は『仏の大欲(真の意欲)』となり、世間を変革して、苦しみを生み出すことのない清浄な世界がつくられ、こんどは世界の清らかさによって、今は、のぼせ上がって有頂天にあるものも、苦境に喘ぐものも、自ら苦しむものも、苦しみや困難を跳躍台として、自分の『業=我欲 経歴 思い込み 環境 運命』を自ら改革し、仏の道につくのである。
泥の中にあっても、蓮の花はすばらしい花を咲かせるように、
苦しむがゆえに他の苦しみを知り、努力するがゆえに他の苦労を知り、もがくにしたがって学び、生に則して生きることの尊さを知るから、自分を潤して余りあって、諸々の生命をも潤すのである。
小我を離れた大欲は、いつもみんなの幸せを忘れず、大いなる安楽をゆたかにする。
そのように生きるならば、あらゆるところにおいて自由であり、変わりなき永遠のいのちを生み出すのである。