大川原有重 春夏秋冬

人は泣きながら生まれ幸せになる為に人間関係の修行をする。様々な思い出、経験、感動をスーツケースに入れ旅立つんだね

ソウルにて 4 (板門店風景)

2009-04-30 08:00:00 | 旅行
                 
板門店の南北会談が行われている建物(部屋の真ん中でテーブルを挟んで、南と北の軍事境界線になっている。韓国軍兵士の後ろのドアを開けるということは北朝鮮に亡命することを意味しているそうです。

                 
           韓国から軍事境界線を境にして北朝鮮の国内風景です。少し肌寒く緊張しました。

                 
板門閣という北朝鮮の建物で、おそらく要人と見られている15、6名の北朝鮮の視察団、もしくは観光客が韓国側に向けて(我々の方に向かって)指を指したりビデオカメラを回したりしていました。多分150メートルくらいか200メートルぐらいの距離だったと思います。ほんとに近くて遠い国ですね。

                 
右側の砂利を敷いてある所が韓国軍兵士が立っており、手前の舗装されている方が北朝鮮の領域で真ん中が休戦ライン(軍事境界線)です。写真撮影も厳しく制限されておりほんのちょっとでも指を指したり腕を上げたりしてはいけない、ぴりぴりと緊張した場面に出くわしました。南北の自主的平和統一を祈るのみですね。

ソウルにて 3(日本の近代化と関連して)

2009-04-29 18:50:51 | 旅行
 私は政治や歴史について、少しだけ関心があります。特にここ百数十年の近代日本史に興味というか、着目しています。約二年くらい前に携帯電話のニュースに気になる題名の本が紹介されていました。神戸学生青年センター出版部が発行元で竹内康人さんという方が編著作者で、『戦時朝鮮人強制労働調査資料集』サブタイトルが「連行先一覧・全国地図・死亡者名簿」という約240ページの書物です。竹内さんという方は約二十年以上の歳月をかけてこの書物をまとめあげました。本著の内容については、関心のある方は発行元?078-851-2760に問い合わせてみて下さいね。近代日本の歴史の裏側と言うか隠されている歴史の闇の部分が浮き彫りになると思います。
 私は高校時代、日本史の授業を受講していました。記憶が曖昧ですけれども明治期以降の朝鮮に関係する記述は、江華島条約、韓国併合、関東大震災、朝鮮人強制連行、という形で数カ所をほんのちょっとだけ数行でさわり程度に触れていたように思います。もちろん日本史の試験でも日本の侵略行為についてなんら出題がなかったように思うのですけどね。
 日本軍が中国大陸で全面戦争を展開し1938年4月、国家総動員法を制定し翌年の7月に国民徴用令が交付、この時に朝鮮人を日本の戦争に動員することを軍部が計画します。この時期辺りから、朝鮮人強制連行(事実上の拉致行為)とよばれています。日本政府と企業は最初は募集という形で鉱山(炭坑 約450)や土木現場発電工事(約180)、運輸港湾(約150)、海軍施設を含む軍事施設(約320)、鉄道工事、飛行場工事(約160)、ダム建設、トンネル工事、軍人軍属関連(約90)地下工場建設(約50)農林関係(約20)に連行していったのです。若い女性に対しては軍隊の性的な奴隷、慰安婦(約110)として、性的強要をしいたのです。(前記のかっこ内の数字は強制連行が確認できた事業所の数字で、だいたい約1550箇所が判明しています。)本書によると労務動員数は少なくとも67万人、軍務では約36万人が連行され、計100万人を超えていると指摘しています。この数倍の朝鮮人が朝鮮国内で日本人(抑圧民族)が植民地支配をしながら朝鮮半島で、労働支配をしていたのです。もちろん中国人も同様ですよ。
今でも韓国に行けばある年齢層の人は流暢に日本語を話しますよね。確か1910年から1945年まで、朝鮮語を話すことを一切禁止し、日本語以外の言葉を話してはいけない皇民化教育を朝鮮人は強いられていたわけです。
 本書によれば日本の総理大臣の麻生さんという方の一族は麻生鉱業というのを戦前から経営していましたが、福岡の飯塚を中心に佐賀の久原炭坑まで約8箇所の炭坑を所有し、約9700人の炭坑労働者のうち、朝鮮人数は3600人を越えており判明しているだけで3000人が強制連行され坑内で石炭を掘っていたそうです。戦後の厚生省、勤労局調査の資料によれば、1939年から45年にかけて一万人を超える朝鮮人を麻生は連行しているそうです。年齢は10代の若者が多く、暴力的な麻生の労務管理について多くの証言があり、戦後も麻生の炭坑周辺には多くの遺骨が残されているそうです。詳しくは本書をお読み下さい。
 日本の近代化はアジアへの植民地支配と収奪によって行われたという側面も否めないのは明々白々です。大本営発表によっていくら日本の政府やマスコミが打ち消そうとしても中国、朝鮮はもちろんシンガポール、マレーシアをはじめアジアの国々の歴史教科書、特に日本に関する記述は克明に歴史的事実を告発してるんですよね。一例を挙げれば、マレーシアの中学校の教科書は相当ためになると思います。例えば早稲田や慶応、明治の大学の創始者の名前、大学創立年度から始まってかなり詳しく日本の大学受験問題よりももっと細かく難問が勢揃いですよ。ついついおしゃべりして申し訳ありません。
 最後に、戦前朝鮮半島ではムグンファ、いわゆるムクゲの花を庭に植えておくだけで朝鮮の人々は日本軍に嫌がらせを受けたと聞いたことがあります。ムクゲの花は朝鮮人にとっては抵抗の花だったのです。(今では韓国の国花です)

尹東柱(ユン・トンジュ)の詩

2009-04-28 18:55:00 | 日記
 序  詩

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを

葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹きさらされる。

 1941年11月20日




 学生時代、この詩がとても好きでした。何度も何度も繰り返し読んで暗記しました。あれから、かなりの歳月が流れました。忙しさにかまけてすっかり序詞のことを忘れていたときもあります。尹東柱は私の大学の先輩です。ですから人一倍親しみやすさを覚えるというか、親近感があります。彼は1945年、ハングルで詩を書いたことが治安維持法違反になり、福岡刑務所で獄死したのです。満27歳でした。

ソウルにて 2

2009-04-27 17:00:00 | 旅行
 ソウル市内から板門店に向かう車の中で「もし死んでも、構いません」という同意書にサインするようにガイドさんから言われ、一瞬耳を疑いました。(正直言うと聞きまちがえたように思った)非武装地帯に近づくと無数の鉄条網と何度も何度も検問があり、パスポートを提示し、おびただしい数のバリケードを迂回しながら38度線のど真ん中に行ってみました。連合軍の建物に入ると、訪問者(見学者)宣言書という書類が配布されました。そこには1から3まで様々な条項が記載されており、
1、敵の行動(活動)によっては危害を受ける、または死亡する可能性があります~また、事変、事件を予期することはできま 
  せんので国連軍、アメリカ合衆国及び、大韓民国は訪問者の安全を保障することはできませんし、敵の行う行動に対し、責   任をおうことはできません。
と書かれていたのです。宣言書をすべて読み、サインをし、日付を記入して、共同警備区域の建物を見学しました。よくテレビで放映されている建物です。建物の中には、韓国陸軍の兵士が直立不動のまま微動だにもせず、そのわきで、記念写真を撮らせてもらいました。少し怖かったですね。
 
 1950年6月25日に勃発した、朝鮮戦争は約3年1ヶ月間、北と南で同じ民族が骨肉の争いを繰り広げ、やく1000万人にのぼる離散家族を生み出したのはよく知られた事実ですが板門店はソウルの北方60キロメートル北緯38度線、南方5キロの地点にあって、軍事境界線、(休戦ライン)を中心にして、南北約2キロメートルに渡ってもうけられている非武装地帯にあります。休戦後、軍事会談が頻繁に行われており、南北会談の窓口になっている所です。私が訪れた日はどんよりと、曇った日でしたが、すぐ目の前に北朝鮮の軍人がおり、北朝鮮の板門閣という建物にはおそらく北朝鮮の要人と思われる15、6名の男女が我々の方を指さしたり、カメラを向けて記念撮影している様子でした。近くて、遠い国とよく言われますが、本当にその通りだと納得しましたね。こちらが北の方に向かって、指さそうとするだけで、ガイドがもの凄い剣幕で注意する場面があり、緊張しちゃいました。板門店を中心に『北朝鮮』の軍事境界線を一望しながら様々なスポットを見学できたことはとても良い経験になりそうです。
 帰りの車の中では1200ミリリットルのマッコリ一本をラッパ飲みしながら、眠りこけました。本場韓国で飲むマッコリは格別美味しかったです。(近日中に共同警備区域での記念写真を紹介します。)

人はなぜ苦しむのか 2

2009-04-25 07:00:00 | 日記
 三浦俊良著『東寺の謎』(詳伝社)より、 木曜日の続きになります。


 餓鬼とはなんでも欲しがる、むさぼりつづける心の状態をいう。
 京都の石庭で有名な龍安寺(りゅうあんじ)には、水戸光圀が寄進した銭形のつくばいがある。そのつくばいには「吾唯足知(われただたることをしる)」という文字が刻まれており、「足ることを知るものは、貧しいといえども富めり。足ることを知らざるものは、富めりといえども貧し」という意味が秘められている。
 このような、足ることを知らない心の状態を餓鬼という。
 畜生とは人のことばが届かない、なにも聞きいれない心の状態、阿修羅とは人を罵倒し、戦うことを生きていることと正当化して争いつづける心の状態をいう。
 天上とはどういうものかというと、たとえば画家に「五百万円で絵を描いて下さい」とお願いする。画家は「五百万円は安いな」とか「儲けたな」とおもう。
 これは欲の世界だが、一度、絵筆をとってしまえば、一切を忘れて絵に集中する。命を静寂という世界にもっていって書きつづける。この心の状態が天上である。
 天上に至った画家は絵を描き終えると、やがて地獄あるいは餓鬼、畜生、修羅、人間のいずれかの道にもどってくる。
 そして、苦しくなったら涙を流し、哀しみ、嘆き、怒り、楽しくなったら喜ぶのが人間である。
 この人間は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上という、どの道にも自由に行くことができる。どの道も自由に選べるというのが人間である。
 だが、六道の世界にいるかぎり、人は苦しむと仏教は現実を示唆する。人生は四苦八苦であるという。
 生、老、病、死という四つの苦しみに加え、愛別離苦(あいべつりく)、愛する人と別れる苦しみ、怨憎会苦(おんぞうえく)、憎い人と一緒にいる苦しみ、求不得苦(ぐふとっく)、欲しいものが得られない苦しみ、それに五陰盛苦(ごうんじょうく)がプラスされる。五陰盛苦とは身体が盛んすぎて、心と分裂してしまう苦しみをいう。
 では、救われないのかというと、そうでもない。
 この世は十の世界からできているという。それは六道の世界である、地獄界、餓鬼界、修羅界、人間界、天上界、それに声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界を加えた十界である。
 声聞とは、真実の声を聞こうとする心の状態をいい、縁覚とは、自然現象もふくめ、あらゆるものを縁として悟ろうとする心の状態をいう。菩薩とは仏の教えを実践する人をいい、仏とは真理を悟った人をさす。
 講堂の二十一尊からなる立体曼荼羅は、六道をさまよう人間を前提に、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界に至る人間の可能性をあらわしている。人間本来の姿とは、六道を迷い歩く姿ではなく、仏を内に秘めた存在である。だから目覚めなくてはならないと語っている。

                 

ソウルにて

2009-04-24 12:16:15 | 旅行
おはようございます。
今ソウルのホテルにいます。パウロフレイレ神父が被抑圧者の教育学という本のなかで被抑圧者の抑圧性を捨象しない限り真の解放はあり得ないと述べていますがレーニンも自決権について優れた分析をしています。大学生の頃日本帝国主義のアジアへの侵略戦争を中心にかなり真剣に手探りで自習しました。目から鱗の連続でしたね。まあ支配者の歴史を被支配者の立場からの視点で読みとくとどんな歴史の風景が浮かび上がってくるかというすこぶる単純明快なことですけどね。ホテルにおいてあったパンフレット地図を見ると軍事境界線じゃなくて軍事分界線 と記述されています。なるほど…
これから板門店非武装地帯に行って来ますね。昨夜は本屋さんで尹東柱の詩集を二冊買い求めました。もちろんハングルですけどね。それじゃまたね!

※上記記事の訂正箇所
私の記憶違いで「被抑圧者の抑圧性を解放しない限り真の解放はあり得ない」と書きましたが「被抑圧者の抑圧性を捨象しない限り真の解放はあり得ない」と訂正させていただきます。旅先からの投稿でしたので記憶が不確かですみません。ちなみにパウロフレイレという方はブラジルで虐げられている人々(いわゆる社会的弱者)に対して識字教育を行いながら文盲や無知からの脱却をはかることに身を捧げた方です。


人はなぜ苦しむのか 1

2009-04-23 07:00:00 | 日記
 こんにちは。2,3年前にふらっと東寺に遊びにいった時、堂内でふと手にしたパンフレット(確か100円だったと思う)を読んでみて、すごく考えさせられて、時折読み込んでいる文章を皆様に紹介させて下さい。
本日と土曜日に二回に分けて引用紹介します。良かったら読んでみて下さい。

三浦俊良著『東寺の謎』(詳伝社)より 

 東寺講堂の二十一尊の仏像は、空海が、どうしても伝えたかったメッセージを発しているという。そのメッセージを知るために、自分とはなにか、人とはなにか、ということをあらためて考えてみたいとおもう。
 普段の生活のなかで人間とはなにか、とあらためて自分に問いかけることはあまりない。しかし仏教ではそれを探りつづける。
 人間とはなにか、人はなぜ苦しむのか、苦しみを生むものとはなにか、と仏教は考える。そしてひとつの結論を導いた。それは煩悩に執着することが誤りではないかと。人間は悟りより煩悩の方が好きではないだろうか。迷いたいとおもってはいないだろうか。悟りたいと口ではいうが、じつは煩悩のなかで迷っていたい、これが人間ではないだろうか。
 煩悩とは身体をわずらわす『煩』(ぼん)と心をなやます『脳』(のう)を合わせたことばで、百八種類、八万四千の煩悩があるといわれる。除夜の鐘を百八回撞くのは、煩悩を打ち砕き消し去るという意味をもつ。すべての煩悩を消し去り、新しい気持ちで新年を迎えようという希望から生まれた。
 さて百八種類の煩悩のなかには、根本煩悩といわれる六つの煩悩がある。
 それは、むさぼりの心をあらわす貧(とん)、いかりの心をあらわす瞋(じん)、智慧のない心をあらわす癡(ち)であり、それに自他を比較する心である慢(まん)、うたがう心である疑(ぎ)、よこしまな心である悪見を加えて六煩悩とよぶ。
 この煩悩のなかで泳いでいるうちはまだいいが、執着すると苦しみに転化していく。人は苦しみはじめる。ここではじめて迷いから抜けだすか、迷いのなかに沈んでいくかを選択することになる。問題は固執する心なのである。
 まず人間は、いま自分が、どの道を歩いているのかを知らなければならないという。仏教では人間は六つの道をさまよいながら生きていると説いている。
 それは地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の六道である。これはそういう道が実際にあるのではなく、人間がつくりだす意識の世界である。
 地獄とは、ご存知のように人間が死ぬと三途の川というのがあり、渡ると地獄がある。地獄では閻魔大王が待っており「お前は娑婆でなにをしてきたか」とたずねる。ほとんどの人は「なにも悪いことはしてきませんでした」と答える。すると閻魔大王は「その嘘は本当か」と聞き、「浄瑠璃の鏡」というすべてを見通すことのできる鏡を持ってくる。「浄瑠璃の鏡」には、なにもかもが映ってしまうため、閻魔大王は嘘を見破り、血の池地獄へいけと別府の血の池地獄よりも熱い地獄へと落としてしまう。これが地獄である。人は人を騙してうまくやったつもりでも、自分自身を騙すことはできない。自分の行為が、もしかしたら人にばれてはいないだろうか、ぜんぶ見抜かれてはいないだろうかと、たえずおびえ苦しんでいなければならない。こういう心の苦しみの状態を地獄という。
                       

続く(土曜日 7時に紹介します)

夜の遊園地

2009-04-22 17:30:00 | 日記
 スペインのラマンチャから約一年ぶりに帰国し、現在77で個展を開催中の阿部幸洋さんに会いに出かけました。一時間以上出品作品をじっくり拝見しながらいろんな世間話をして、ラマンチャでの制作活動やどんな暮らしぶりなのかをそれとなく伺うことができ、ためになりました。スペインは今、世情がすこぶる不安定でスリ、ひったくり、は日常茶飯事、犯罪がヨーロッパ一位という少しショッキングな耳学問。阿部さんは私と同郷でいわき出身、いわゆる浜通りの人です。ですから郷土愛に燃える私はちょっとでも応援したいと思い、エールを送っています。夜になって阿部さんと二人一緒に京のおばんざいをつまみました。軽く『米ジュース』も飲みました。食事を終えて外に出ると、土砂降りの雨、「また1年半後に会いましょう。」と言いながらお互い再会を約束して、別れました。その後がちょっと、、(笑)
 親分のYさんが電話、「港区の麗人○さんと合流するから一緒に飲もうよ。」と誘われてしまった。くだんのBというお店で総勢6名でワイワイ楽しく飲みまくりました。もちろん歌合戦もはじまり、、親分Yさんの社員Tくんは絶叫してました。(ごめん、熱唱してました)私はいつものように『I LOVE YOU』と『二十歳の巡りあい』『さらばシベリア鉄道』自信曲を披露しました。(拍手は少なかったなぁ。。気のせいかも。)麗人○さんはいきなり私にむかって「大川原ちゃん、キスしよう」一瞬自分の耳を疑いました。次の瞬間、右のほっぺたに思いっきり  されました。参りましたね。麗人○さんはその後も何度も波状攻撃をかけてきました。親分Yさんに「いくらなんでも、、○さんてこんな趣味あったんですか?」とべそをかきながら問いただしたところ、「僕なんか20代からされてるよ」とほとんどあきらめ顔です。「麗人○さんは人間が好きなんだよ。」と陽気な笑顔、○さんの夜の秘め事を有難く拝ませていただきました。〈夜の遊園地〉で煙草の煙がもんもん、僕の羽織っている、マルジェラの蓑虫君もかなり酸欠状態、煙の香水で苦しそうです。麗人○さんの口づけはほっぺた攻撃から唇へ攻撃目標を変えてきました。さすがに私も〈遊園地〉を逃げ回りました。私の真ん前に座っていたJ嬢は「麗人○さんは、ヒゲがジョリジョリしてほっぺが痛くなるんですよね。」と余裕の笑顔。私も趣味というか女性はもちろんいわずもがな、いろんなことに関心はありますけど、『両性具有』じゃないんですよね。そりゃあね、学生時代京都や名古屋etc.であちら系の方からしょっちゅう誘われましたけどね。(すべて拒み通しました。よくまちがわれますけど)夜の宴も佳境、麗人○さんは別れ際に「大川原ちゃん、がんばんなよ。」と心の底から温かく激励して下さいました。本当にありがとうございます。なんたって麗人○さんは雲上人ですからね。嬉しいですよね、大御所の御仁ですから。気になるお勘定!!親分Yさんのおごりでした。感謝してます。
 これから本物の麗人 美輪明宏「毛皮のマリー」に会いに行って来ます!

                     

心の態度について 1

2009-04-21 16:00:12 | プロフィール
 最近、いつも心がけていることがあります。それは、心をしっかりコントロールし、心の態度を恬淡明朗(てんたんめいろう)にする、ということです。ここ2年間で、私自身少しずつ肩肘張らない気楽な生き方ができるようになってきたと思います。斎藤一人さんのCD『地球が天国になる話』という講演を聞いたことと、中村天風氏の様々な書物に出会ったことが、直接のきっかけだと思います。正直、命が救われた(命拾いしました)と思うのです(実感です)。もし「悩み」がある方がいたら、是非二人の著書を読んでほしいと思います。「以前」の自分は、人に対してちょっとでも欠点や短所、また不平不満みたいなものが目につくと、よく怒ったり皮肉めいたことを言葉に出して注意したり、文句を言ったりしたけれども、ここ2年間のなかで、怒ることを徐々にセーブするようにしたのです。はっきり言うと、怒ると「損をする」と悟ったのです。「相手の心もしくは魂の在処が未熟な人なんだな、とか人間としてまだ修行が足りないんじゃないか」とそんな風に意識的に視点を変えて相手を注意深く観察するように試みてみました。そのように心をコントロールすることや、言葉遣いを大切に思い、注意するようになると、すごく楽な生き方ができることに気がついたのです(ちっちゃなことはどうでもいいんです。大抵のことは大目に見ようと心に念じるのです)。

 人生における一代転機、コペルニクス的転回です。マイナス思考やマイナス言葉も意識的に、もしくは自戒的に言うことを止めるようにしてみた。愚痴や泣き言も、現在は一切、言うのを止めた。今の社会に対する不平不満もなるべく控えるようにしている(内心は言いたいことはたくさんある)。いま自分が生きているということ、生かされていることに「ありがとう」と感謝の気持ちを念じるように努めている(まず、自分にありがとう)。そうすると、身体がリラックスしてきて、気負いがなくすごく軽くなってくる。もちろん、悩むこともなくなってきたと思う。口から発する言葉は、特に大切だと思います。言霊ですからね。人を批難したり、欠点をあげつらうのもすべて止めました。問題が起こった時には笑うことにしたのです。何か問題が起こっても冷静に心の在処もしくは、心の置きどころを定めて、外科医がメスを持つように、物事の本質を分析もしくは解析するのです。上手く表現できないのですが、意識的に落ち着いた心の態度というか、積極的に且つ、前向きに生きる姿勢を保とうと努めています(もちろん、様々なジャンルの本を読みながら、多面的というか複眼的な世界観を養いたいとは思いますけどね)。

「心が変われば、行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば、人生が変わる。まず自分の心を変える事が大事なんです。」 刺繍工芸作家 福田喜重の言葉

岡本太郎

2009-04-20 17:07:01 | 美術
 先日、岡本太郎美術館のオープニングレセプションに出席しました。小雨が降る中ちょっと遠かったので悩んだのですが、出席して本当に心の底から良かったと思いました。おそらく、百名くらいの招待者や関係者が出席していたと思いますが、顔見知りの人が数名いてちょっと立ち話をしました。岡本太郎氏の絵画作品をまとまった形で鑑賞したのは初めてです。自分の岡本太郎氏に対する認識不足というか、全くの無知無学を恥ずかしく思い、穴があったら入りたいような気分になってしまいました。ですから作品について、あれこれ、論評することは作家に対して冒?行為に等しいと思いますので、現段階では論評を差し控える事にします。でも一言だけあえて言わせてもらえば日本人のかなり多くの人々はコンプレックスとジェラシーのかたまりじゃないかなと思いました。来賓者の一人が挨拶の中で「岡本さんは周りが敵だらけだった。でも敵をも愛した所がある。憎悪と蔑視の中に岡本太郎さんはただ一人いた。一緒に岡本太郎さんと美術運動を行っていた時に周りの人から”岡本なんかと付き合うと殺されるぞ”と散々言われた。もの凄く多くの敵に囲まれていた。etc」と1950年代の岡本太郎氏のエピソードを紹介して下さいました。

『岡本太郎の絵画』2009年の展覧会図録は約240ページくらいの分厚いハードカバーで装丁も内容も素晴らしく綿密でかつ体系的に岡本太郎という人物を紹介していてかなり役に立つと思います。というか主催者のなみなみならぬ力の入れ方がひしひしと伝わって来ます。一度だけ京都の美術系の大学で岡本太郎氏の講演を拝聴した事があります。

 岡本太郎氏は私の『家』に何度か絵を描きにきていたという事をNさんから聞いた事があります。不思議な縁(えにし)を感じます。


          
                                     この絵は最高に良かった。

 

私の好きな詩

2009-04-19 07:00:00 | お気に入り紹介文
位置

しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

石原吉郎
「サンチョ・パンサの帰郷」(昭和39)所収

 この詩は私が京都の大学時代に愛誦していた詩です。かなり石原吉郎さんを追っかけていた事があり、著書もだいたい読みました。望郷と海というタイトルの本は特に感銘を受けました。
『石原吉郎全詩集』が花神社という出版社から発行されているのですが、この本がどうしても欲しくって神保町や京都の古本屋さんを百数十軒探しまわった事がありますね。真夏の大阪、高槻辺りのデパートの書籍売場でこの分厚い詩集を見つけたときは小躍りして喜びましたね。(今はインターネットで瞬時に好きな本を見つける事ができ大変便利な社会になりましたけど足を棒にして本を探す、という行為も結構良いと思うんですけどね。)

小学生の頃 1

2009-04-18 16:38:14 | プロフィール
 小学三年生の終わり頃、春休みの話です。
一キロ位はなれた所に住んでいるゆきたかさんという先輩から、「有重君新聞配達やらないか?」といわれたことがきっかけで新聞配達をはじめました。たしか地元の二大新聞、福島民報と福島民友、朝日新聞、日本農業新聞等を何十部か、一軒一軒(ほとんどが農家)を朝6時くらいに起きて、7時過ぎまで新聞配達をして当時のお金で一ヶ月2000円くらいのこづかいを稼ぎました。なににお金を使ったか全然覚えていないけど、大相撲が好きだったので相撲関連の本を買ったような気がします。
 小学校3年の終わりから中学3年までの約6年間一日も休まず毎日配達をしました。冬の頃は雪が結構降ったので、大雪の日は大変でした。まだちっちゃかったので膝下までズッポリと雪の中まで入ってしまった事も時々ありましたね。
                    

 雨の日は傘をさしながら配達したっけ。よく晴れた日曜日にはさぼって、土手の草むらで寝転びながら新聞を読んでいました。アポロが月に行ったと言う新聞記事(1969年7月20日にアポロ11号が月面に着陸したという人類を騙したねつ造事件)は特に印象に残っています。自慢にならないけど親には小遣いをもらった記憶はほとんどないと思います。今から思うとあの新聞配達は後々の人生においていろんな意味で役に立ったような気がします。
�体力(脚力)がつき、中距離走ではいつも上位になれた。
�精神力というか忍耐力(持久力)がついたと思う。
�時事や政治その他に興味を持った(中学生の頃一度だけ新聞に  
 投稿した事があり、新聞記事になった事がある)

新聞配達のアルバイトを六年間したという経験、これは今になって振り返ると、私のかけがえのない貴重な経験(財産)です。
私の好きな中森じゅあんさんのいくつかのメッセージを引用紹介させていただきます。(毎日読んでいます)

1 あなたは、愛とともに生まれてきました。
  あなたは、愛とともに生かされています。

2 偶然は何ひとつありません。あらゆることが、
  気づきと真なる幸せを見出すために起こります。

3 幼な子のように、無心な素直さをもちましょう。
  あなたの可能性が無限に広がっていくでしょう。

4 ほんとうに必要なものは、最適の時に与えられます。
  その法則を信じて、あなたの努力を楽しみましょう。

5 あなたの心が、あなたの現実をつくりあげます。
  どんな時にも、あなたの心の運びを整えなさい。

6 善し悪しや優劣の評価をするのはあなたの選択です。
  宇宙的視野から見れば、すべての事がOKなのです。

7 あなたが今やらねばならぬことは、当面の任務です。
  誠実に熱心にやりこなせば、やがて任務は変ります。

8 自信に満ちて、あなた自身を愛し、育てましょう。
  その能力と魅力とエネルギーは与えられています。

9 やさしさが、あなたの心身を癒し、強めます。
  やさしさが、人々の心身を包み、生かします。

10 どんな物事も明るい光の目でみましょう。
  いつでも明るく輝く光の心でいられます。

ポートレイト

2009-04-17 17:24:15 | プロフィール
こんにちは

先日、お約束した私のマルタン・マルジェラのジャケットをご笑覧ください。
私はこのジャケットを蓑虫くんと勝手に名付けました。
もの凄い高度な縫製の技術を駆使して、デニムの表面に洋服地の切れ端(ハイクオリティーな生地)をパッチワーク状に二重にランダムに縫い込んでいて、とっても面白い服だと思います。
電車のなかでは、ジロジロと周りの人から見られて正直言うと恥ずかしいですけど、自分では気に入っている服です(100年くらいは保たせたいものですね)。ちょっとだけ自慢しちゃいますけど、日本では2着くらいしかないんじゃないかな(間違ってたらすみません)。
難点はちょっと気持ち、重量があるかな、という感じですね。
最近は、マルジェラもどきも、ときどき見かけますけど、正直に申しますと品格が違うと思うな。生意気言ってすみません。知性(エトス)を感じられるような人間に一歩でも近づきたいですね(笑)。

これから、川崎市岡本太郎美術館の開館10周年記念展『岡本太郎の絵画』のレセプションに出かけてきまーす!

私の出会った人 1 白洲正子さんのこと

2009-04-16 07:00:00 | 日記
 こんにちは
大分前の話なんですが、と言っても十数年前のある日のことです。知人のカメラマンと雑誌の編集者に連れられて鶴川にある白洲正子さんのお宅を5回くらいお邪魔させていただきました。いろんなお話を白洲正子さんから直接承り、とても名誉なことだと思います。その頃は両性具有について白洲さんが興味をお持ちだったみたいで、随分博識な方だなと思いました。私の所有していた絵画について、「とても面白い絵ですね、なんという作家ですか?」と質問されたので「テリーウィンターズという作家で、モルーラナンバーワンという題名の作品です。ニューヨークのソナベンドギャラリーで展示されていたものですよ。いいでしょう!」と私は青臭く自慢げに返答したことを懐かしく楽しい思い出として大切に胸の中に刻んでいます。この作品は(約6年間ずーっと私のリビングに展示して眺め続けていましたが、全く飽きがこないペインティングでしたね)十数年前に事情があって泣く泣く手放したのですが、現在は竹橋にある東京国立近代美術館に収蔵されています。一度だけ対面したことがありますが、とっても懐かしかったです。白洲さんには『晶』という字を書いていただきました。これは私の大切なジュエリーのようなものです。

グルメぶりっこ ①

2009-04-15 17:00:00 | 日記
 幼い頃の話です。毎年秋になると農閑期になり,父親の趣味と実益を兼ねた狩猟の季節でした。野山深く分け入って猟銃を肩にかけ猟犬を引き連れて出かけるのが日課でした。猟犬はドイツポインターとか、アイリッシュセッターとかいう犬種でした。鉄砲打ちの名人だったと思います。キジ、ヤマバトを中心にいろんな鳥を仕留めてきました。空振りはあまりなくて、1、2羽から多いときは5羽くらい仕留めて帰ってきました。キジ(雄どり)はよくキジ肉入りの炊き込みご飯とキジ肉の吸い物を作ってもらいました。(父はよく口癖に「キジはすいもんがうめぇんだ(うまい)」確かに納得ですね.)ヤマバトはいろりで焼いて食べました。(当時の私の生家は文久年間に建替えた古ぼけただだっ広い茅葺きの農家)雀なんかもよく焼いて食べました。野うさぎは骨と肉を一緒に、思いっきり、確か金槌だと思うのですが、叩いて、肉団子を作って食べさせてもらいました。思い返せば秋から冬は本当にごちそうだらけだったと思います。家の敷地内に大人二人両手を広げるとやっと囲い込むことができるくらいの大きなイチョウの木が2本ほどあって、秋の終わりになると橙色の銀杏の実(銀杏)をひろって近所の小川で洗い流し、それをいろりで焼いて、食べたりしましたね。また家のわきに、これもまたすごく大きなクルミの木があって、よくリスが木の枝をあっちに行ったり、こっちに行ったり、していました。野生のリスってすごい可愛い仕草なんですね。クルミの実を叩いて中のクルミをお餅と一緒に煮込むとくるみ餅になるのです。これも冬の楽しみのひとつでしたね。
 
 春はふきのとうやたらの芽なんかを天ぷらで食べたりふきみそやまめみそを作ってご飯を食べました。いろりから少し離れた所に竈(かまど)があって、薪をくべながらご飯が炊きあがるのを待つのです。竈の中に木の枝を投げ込むのは自分たち(子供)の仕事でした。白米の中に麦がたくさん入っていて子供心に麦飯を食うのは貧乏人だと思いこんでいましたね。(笑)
 初夏になると山フキを取りにいき、フキの皮を剥いて煮付けてよく食べさせてもらいました。夏はトマト、きゅうり、なすが毎日食材に朝昼晩勢揃いしていました。(きりぎりすとか、コオロギ定食だと母親に文句を言ったことを覚えています。でもすべて自家栽培で農薬はほとんど使っていなかったと思います。)
 秋になると田んぼでイナゴ取りをして、それをよく食べましたね、また父親と一緒に茸採りに出かけたことを思い出します。紫しめじ、なめこ、えのき茸、ししだけ、あみだけ、その他。それらをいろんな野菜と一緒に鍋で煮込んで食べたっけ、またキノコを瓶に塩を入れてつけ込み真冬に食べることもありましたね。父は魚釣りも得意でよく大滝根川に夜明け前(早朝)に出かけてコイや鮒を釣ってきましたね。私はちっちゃな頃近所の同じ年齢くらいの子供達と池や川でタニシを採ったり川エビを捕りました。その頃は田んぼにはどじょうが生息していたのでどろんこになりながら、どじょう取りをしましたけど、今はほとんどいないと思います。農薬をだんだん使用する農家が増えてきて、どじょうの生育できる環境ではなくなったんだと思います。経済的には貧しい農家でしたのでお魚を買うことが満足にできなかったのでよく魚屋さんに行くと、魚の切り身じゃない方、切り落とし(いわゆるアラ)を20円とか50円を母親から手渡されて,よく用足ししました。父は「骨にくっついている魚の肉がうめぇんだ、魚の頭の目の辺りもうめぇぞ」というのが口癖でした。私は内心、魚の切り身が食べたかったですね。今思い返すと食べ物だけは季節季節にとれた旬の食材でしたので、天然自然の超A級グルメぶりっこですね(笑)
 
 昨今は星が幾つとか、いわゆる格付けにおどったり、おどらされたりしている『グルメさん』もいらっしゃるみたいですけども見識を持って自分の住んでいる国の台所事情(農業漁業)に目を向けることも大切だと思うのですが、、、、また最近は幼少期からマクドナルドに連れて行くダメ親がいると聞きますけど小学校3年までにマクドナルド(ファーストフード)を食べさせると子供の舌(味覚)はマクドナルドの味が基本的に大人になってもずっと一生涯旨いものの基準になる(舌がバカになる)と大分以前に聞いたことがあります。(その話が本当なら、USAの食文化が、世界制覇しちゃった感じですね。)???

 蛇足ですけどわずかな土地でしたが田んぼに米を作っており、田植えの手伝いなんかもしていたので、茶碗にご飯の米粒を残しておくともの凄く両親に叱られました。「米一粒、一年かかるんだぞ。米粒を粗末にすると罰あたるぞ。」そういうふうに育てられましたので、よく友人知人と食事をすると、自然に相手のご飯茶碗の中身を覗いて、大変失礼な言い方で申し訳ありませんが人物判定(その人の生育状況というか、どんな両親なんだろうって興味を持っちゃいますね。)をし、たいてい「残さない方がいいいよ」とおせっかいの小言を言いますね。
 これから辻留の料理教室に見学に行って来まーす。それじゃまた。