今年の夏、出光美術館で開催されている「日本美術のヴィーナス ―浮世絵と近代美人画―展」を見に行く機会を何度も得ました。毎回美術館の中で浮世絵作品をじっくり眺めると新しい発見があり、有益な知識や情報を習得する事ができてとても嬉しく思います。特に、この展覧会では江戸時代の浮世絵師の優れた技量もさることながら、表具の斬新さに目を見張りました。おそらく明治から昭和にかけて表具のやり替えを行ったのだと推測されるのですがモダンな表具を鑑賞するというのもこの展覧会の楽しみの一つだと思います。また、江戸時代の着物の柄や着方なども興味深いですね。真夏の展覧会として、浮世絵と近代美人画を特集した展覧会は、日本のなかの日本らしさを象徴するものとして、とてもタイミングのよい企画ではないでしょうか。江戸時代にタイムスリップするという非日常体験を味わう「絶好の機会」になるような気がします。とてもさわやかな展示構成です。今回、菊池契月の名品が3点出品されているのも特筆に値すると思います。
出品作品の中では『蛍狩美人図』蹄斎北馬の対幅と勝川春章の『美人鑑賞図』は名品だと思います。安田雷洲が北斎の門下であったということと、浮世絵を描いていたということは今回はじめて知りました。本展覧会では「日本美術のヴィーナス」という図録が100頁強で作られていて、細やかな作品解説がなされていて好感が持てます。☆☆☆
普賢菩薩騎象図 鎌倉時代 出光美術館蔵
美人鑑賞図 勝川春章 江戸時代 出光美術館蔵
出光美術館「日本美術のヴィーナス ―浮世絵と近代美人画―」
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以下は、メモ
安田雷洲
葛飾北斎の門人。姓・安田、名・尚義。字・信甫。通称・貞吉あるいは定吉、後に茂平と改める。雷洲、雷斎、文華軒、馬城と号す。蘭名はウィレム・ファン・ライデン。Yasuda Sadakiti、Willem van Leidenとも落款する。ウィレム・ファン・ライデンというのは、オランダ、北方ルネサンスの画家ルーカス・ファン・ライデン(レイデン)(1494年-1533年)にちなんで、つけたものであった。四谷大木戸に住み、後に青山に移った。北斎が、辰政を称していた時からの門人といい、浮世絵のほかに、蘭画、洋風画を研究し、長崎に遊学したという。銅版画を良く描き、文化期に多く見られる読本の挿絵、肉筆美人画などを残している。作画期は、文化-安政(1804年-1860年)期である。
雷洲の作品として、知られるものに、文化11年(1814年)刊行の読本「小栗外伝」挿絵、年代不詳の銅版画「東都勝景銅版真図」8枚、同じく弘化元年(1844年)作の銅版画「東海道五十三次揃」及び「江戸近郊十二景」などが挙げられる。この「東都勝景銅版真図」は、本来、12枚揃として作られたものであった。また、肉筆画では、銅版画風の「江の島之図」があり、「安政三年丙辰七月 雷洲安田茂平製」と落款されているので、雷洲の没年は、安政3年(1856年)以降であることを知ることができる。他に、蘭字の題名のもので、「Russische Kasteel van Moskow」などがある。
蘭画の制作については、『武江年表』の享和(1801年-1804年)年代の絵師項に、蘭画をよくする、とあり、かなり早い時期から描いていたことが判明する。また、天保13年(1842年)刊行の「広益諸家人名録」2編に、雷洲の画名のそばに、「蘭画」とあり、これは、当時における西洋画を意味している。雷洲の銅版画の師は、明らかでないが、作品から、司馬江漢風であることがわかり、晩年に至るまで、銅版画を作っている。最晩年のものとして、安政2年(1855年)の安政の大地震を銅版画にしたものがある。但し、「武江地震図」という題の安政地震図は、実際には、弘化4年(1847年)3月24日の「信州大地震図」の図案を流用したものであった。江戸における銅版画家として、江漢に次ぐ、最も重要な人で、優れた作家である。
出品作品の中では『蛍狩美人図』蹄斎北馬の対幅と勝川春章の『美人鑑賞図』は名品だと思います。安田雷洲が北斎の門下であったということと、浮世絵を描いていたということは今回はじめて知りました。本展覧会では「日本美術のヴィーナス」という図録が100頁強で作られていて、細やかな作品解説がなされていて好感が持てます。☆☆☆
普賢菩薩騎象図 鎌倉時代 出光美術館蔵
美人鑑賞図 勝川春章 江戸時代 出光美術館蔵
出光美術館「日本美術のヴィーナス ―浮世絵と近代美人画―」
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以下は、メモ
安田雷洲
葛飾北斎の門人。姓・安田、名・尚義。字・信甫。通称・貞吉あるいは定吉、後に茂平と改める。雷洲、雷斎、文華軒、馬城と号す。蘭名はウィレム・ファン・ライデン。Yasuda Sadakiti、Willem van Leidenとも落款する。ウィレム・ファン・ライデンというのは、オランダ、北方ルネサンスの画家ルーカス・ファン・ライデン(レイデン)(1494年-1533年)にちなんで、つけたものであった。四谷大木戸に住み、後に青山に移った。北斎が、辰政を称していた時からの門人といい、浮世絵のほかに、蘭画、洋風画を研究し、長崎に遊学したという。銅版画を良く描き、文化期に多く見られる読本の挿絵、肉筆美人画などを残している。作画期は、文化-安政(1804年-1860年)期である。
雷洲の作品として、知られるものに、文化11年(1814年)刊行の読本「小栗外伝」挿絵、年代不詳の銅版画「東都勝景銅版真図」8枚、同じく弘化元年(1844年)作の銅版画「東海道五十三次揃」及び「江戸近郊十二景」などが挙げられる。この「東都勝景銅版真図」は、本来、12枚揃として作られたものであった。また、肉筆画では、銅版画風の「江の島之図」があり、「安政三年丙辰七月 雷洲安田茂平製」と落款されているので、雷洲の没年は、安政3年(1856年)以降であることを知ることができる。他に、蘭字の題名のもので、「Russische Kasteel van Moskow」などがある。
蘭画の制作については、『武江年表』の享和(1801年-1804年)年代の絵師項に、蘭画をよくする、とあり、かなり早い時期から描いていたことが判明する。また、天保13年(1842年)刊行の「広益諸家人名録」2編に、雷洲の画名のそばに、「蘭画」とあり、これは、当時における西洋画を意味している。雷洲の銅版画の師は、明らかでないが、作品から、司馬江漢風であることがわかり、晩年に至るまで、銅版画を作っている。最晩年のものとして、安政2年(1855年)の安政の大地震を銅版画にしたものがある。但し、「武江地震図」という題の安政地震図は、実際には、弘化4年(1847年)3月24日の「信州大地震図」の図案を流用したものであった。江戸における銅版画家として、江漢に次ぐ、最も重要な人で、優れた作家である。