こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。
久々の更新となります。
前回は親父のことについて長々と書いてしまい、そこで更新が止まってしまっているので、塾のHPからブログを読んでくださった方は、「なんだか怪しげな塾」という印象を持たれたかもしれません。ですので、早く学習のことについて書かなければと思っていたのですが、私のいつもの悪い癖が出てしまい、ついつい後回しにしてしまっていました。今年中に絶対に更新しようと決意し、書き始めていますが、今回も学習のことではなく家庭のこととなってしまいました(^-^;
前回のブログは、仕事を引退する親父へのメッセージのつもりで書き、親父が読んでくれたら喜んでくれると思っていたのですが、予想に反して親父は明らかに不機嫌な様子でした。「うーん、なかなか人の気持ちって難しいな」と思いながらも、特に親父にどうして不機嫌なのか、どこが気に食わないのかを聞くことはありませんでした。
月日は流れ、今年の3月の中旬でした。私は受験も終わり、少しホッとして久しぶりに外出していたのですが、母から「お父さんが高熱で病院に連れていきたいねんけど、どこの病院がいい?」と電話がありました。インフルエンザも流行っていましたし、コロナも一度感染しているとはいえ、その疑いもありましたから父の心配というよりは、「これでまた自宅に帰られへんなあ。親父の病気がうつったら嫌やし」と自分の心配をしていました。
そういえば、その1、2か月前から、たまに微熱があったりしてたなあ、など思い出していましたが、母から「インフルもコロナも陰性だったよ」という連絡があり安心し、特に気にかけていませんでした。
その後、どうも体調がよくないとのことで検査を受けに行ったので「検査どうやった?」と連絡すると「検査結果は変化なし」という親父の返事に違和感がありました。「うん?変化なしってどういうことや?異常なしやったらわかるけど、変化なしって意味わからん」となり、親父に問いただすと「〇〇(弟の名前)と英治、そしてお母さんがみんな集まったら話すわ」とわけのわからないことを言い出したので、私も語気を強めて「何もったいぶってるねん!今言えばええやろ」と何度も怒鳴るように言ったところ「ええか、よく聞けよ。5年ほど前に、どうも調子が悪く病院に行ったんや。そこで検査をしたら、[膵臓がん]と診断されて、余命1年って言われたんや。家族を呼んでくださいと医者に言われたけれど、病気のことをお前らが知ったら焦燥すると思って何も言わなかった。そして今回病院に行って検査したけれども、膵臓の状態は変わっていなかったんや」と突然聞かされました。
親父に何から聞けばいいのか、どういう言葉を伝えていいのかが頭が真っ白になってしまい何も言えず、ただ「なんでそんな大切なことをずっと黙ってたんや!なんでや!」としか口から出ませんでした。
わからないことだらけだったので、帰宅し親父から詳しく経緯を聞きました。説明を聞いてもいまいちわからいことが多く、ただ余命1年と言われていたのにこの5年間無事に生きることができていることが私は嬉しく、少しでも長生きしてほしい、そして今の親父の体の状態は本当のところどうなているのかが知りたく、親父が検査を受けた病院に私が話を聞きに行くことにしました。内科の先生とお話をさせていただきましたが、膵臓の方は詳しく検査しないとはっきりわからないが、癌かどうかもわからないようで、あまり心配しなくてもいいのではと説明を受けました。ただ下血があるらしく、貧血にもなっているので大腸の検査をした方がよいとのことで、もしポリープがあれば切除するという方向で決まりました。
少し気持ちが楽になったのですが、大腸検査の日に病院から連絡があり、ポリープが大きすぎてどうも切除できなかったようなのです。そして家族と一緒に病院に来てほしいとの連絡が自宅にありました。母は聞くのが怖いからと父と私とそして弟も来てくれ、3人で話を聞きに行きました。結論を言えば大腸ガンでした。手術をするかどうかを決めなければなりませんでした。父はそのときから「早く楽になりたい。自分が死ぬ時期は自分で決めたい。これからの人生は時間ではなく中身なんだ」と何度も言うようになりました。つまり手術をせずに、病院ではなく自宅で終わりを迎えたいということです。
術後の生活がかなり不自由になる可能性があることが、父が手術を拒む一番の理由だったと思います。ですが私はその決断は「自分勝手」なことだと感じました。父がいなくなった後の母のことを考えたうえでの発言なのか?残された家族の気持ちは考えてくれたのか?
私は父と何度も話をしました。「オカンのこと、どう思ってるんや?」「それが一番心配なんや」と親父は返事をしますが、だからといって頑張って生きよう!という選択はせず、「治療も何もせず、楽に死にたいんや」とそればかり言っていました。「親父、親父は仕事も引退するまで自由にやってきたやん。もちろん親父が俺らのために頑張ってくれたことは感謝でいっぱいや。でもな、5年前にガン宣告されて、それをずっと黙ってて、そして今回こんなことになって手術もせずに早く死にたいなんて、自分勝手すぎんか?いきなりそんなこと言われて、俺ら息子はもちろん、オカンがどれだけショック受けてるかわかってるか?」と私はかなり強い口調で責めました。親父は何も言いません。「そもそも五年前に「膵臓癌」と診断されて「余命1年」と病院で言われたときに、なんで家族に何も言わんかったんや?俺らが焦燥するから?ふざんけんなよ!俺ら小学生とちゃうねんで。オカンには言わなくても、せめて俺や弟には言うべきやったやろ。そしたらその段階でいくらでも方法を考えることはできたやんか。お前らのためにってカッコつけて、なんでもかんでも自分勝手すぎるねん!」
親父が大きな病気で、後どれくらい生きることができるのかわからない悲しみと、親父が家族のだれにも病気のことを伝えなかった悲しみが混ざって、なぜか涙が溢れ、怒りに近い感情になってしまいました。
その後病院でも検査や医師との話には必ず私も一緒に行くことにしました。検査を進めていくにしたがって、病状などいろんなことがわかってきました。私が医師と病気の状態や手術の可能性、術後のことなどいろいろと話をしている横で、親父はいつも「先生、残りの人生は時間ではないんです。中身なんです。楽に死にたいんです。お願いします」と言ってました。
早く決断しないと病状が悪化するだけなので親父とじっくり話をしようと思いました。オカンは「できるだけ長生きしてほしい。だから可能性があるのなら手術してほしい」と言っていました。私もまだ手術ができる状態で十分に治る可能性がある、にもかかわらず早く楽になりたいだなんて、一生懸命生きている人や、生きたいのに病気や事故で残念ながら亡くなってしまう人たちのことどう思ってるんや!どう考えたら早く死にたいなんて言えるんや!と考えていて、それをすべて親父に伝えました。そして、オカンや私や弟、家族みんなが親父に元気で1日でも長生きしてほしい、癌が悪化して苦しんで苦しんで病院で亡くなってしまう親父を想像しただけで気が狂いそうや、ということも伝えました。3時間ほど話をしたと思います。
少し時間が経って、親父が「わかった。手術受けるわ」と言ってくれました。「お前らの気持ちは十分にわかった。頑張ってみるわ」
私はもちろん、オカンも弟もみんな同じ気持ちだったと思います。親父に感謝する気持ちと、これから病気と闘う親父を応援する気持ちと、手術の成功を祈る気持ちと。
手術の日が決まり、それまで親父は家でゆっくりと過ごしていました。体がしんどかったのでしょう、食事の量もずいぶんと減り、寝る時間が増えました。それでも毎朝コンビニに新聞を買いに行っていました。親父は仕事することが生きがいで、趣味も私が知る限り何もなく、1年中仕事に出かけていました。そんな親父も朝晩新聞を読むことは欠かさず、たまに教育に関する記事があると、それを切り取って私にくれたものでした。しかし、去年仕事を引退してからは時間を持て余すようになり、どんどん元気がなくなっていきました。もちろん病気が原因でしんどかったこともあるでしょうが、生きがいである仕事がなくなったことで一気に気持ちが沈んだのだと思います。朝はゆっくり新聞を読み、昼からは夕食までずっと横になっていました。ラジオを聞いたり、タブレットでこれまで撮影してきた写真や動画を見たり、YouTubeで演歌を聴いたりしていました。「今、どんな気持ちで親父は毎日過ごしているのだろう」それを考えると胸が苦しくなり悲しくなってきました。親父にDVDをプレゼントしたら、毎日それを見てくれました。「親父、必ず元気になるから頑張ってや」親父に会うたびにそういった言葉をかけると親父は「ありがとう!頑張るわ」と答えてくれました。
次に続きますが、親父は元気ですのでご安心ください。
ONE-SのHP
久々の更新となります。
前回は親父のことについて長々と書いてしまい、そこで更新が止まってしまっているので、塾のHPからブログを読んでくださった方は、「なんだか怪しげな塾」という印象を持たれたかもしれません。ですので、早く学習のことについて書かなければと思っていたのですが、私のいつもの悪い癖が出てしまい、ついつい後回しにしてしまっていました。今年中に絶対に更新しようと決意し、書き始めていますが、今回も学習のことではなく家庭のこととなってしまいました(^-^;
前回のブログは、仕事を引退する親父へのメッセージのつもりで書き、親父が読んでくれたら喜んでくれると思っていたのですが、予想に反して親父は明らかに不機嫌な様子でした。「うーん、なかなか人の気持ちって難しいな」と思いながらも、特に親父にどうして不機嫌なのか、どこが気に食わないのかを聞くことはありませんでした。
月日は流れ、今年の3月の中旬でした。私は受験も終わり、少しホッとして久しぶりに外出していたのですが、母から「お父さんが高熱で病院に連れていきたいねんけど、どこの病院がいい?」と電話がありました。インフルエンザも流行っていましたし、コロナも一度感染しているとはいえ、その疑いもありましたから父の心配というよりは、「これでまた自宅に帰られへんなあ。親父の病気がうつったら嫌やし」と自分の心配をしていました。
そういえば、その1、2か月前から、たまに微熱があったりしてたなあ、など思い出していましたが、母から「インフルもコロナも陰性だったよ」という連絡があり安心し、特に気にかけていませんでした。
その後、どうも体調がよくないとのことで検査を受けに行ったので「検査どうやった?」と連絡すると「検査結果は変化なし」という親父の返事に違和感がありました。「うん?変化なしってどういうことや?異常なしやったらわかるけど、変化なしって意味わからん」となり、親父に問いただすと「〇〇(弟の名前)と英治、そしてお母さんがみんな集まったら話すわ」とわけのわからないことを言い出したので、私も語気を強めて「何もったいぶってるねん!今言えばええやろ」と何度も怒鳴るように言ったところ「ええか、よく聞けよ。5年ほど前に、どうも調子が悪く病院に行ったんや。そこで検査をしたら、[膵臓がん]と診断されて、余命1年って言われたんや。家族を呼んでくださいと医者に言われたけれど、病気のことをお前らが知ったら焦燥すると思って何も言わなかった。そして今回病院に行って検査したけれども、膵臓の状態は変わっていなかったんや」と突然聞かされました。
親父に何から聞けばいいのか、どういう言葉を伝えていいのかが頭が真っ白になってしまい何も言えず、ただ「なんでそんな大切なことをずっと黙ってたんや!なんでや!」としか口から出ませんでした。
わからないことだらけだったので、帰宅し親父から詳しく経緯を聞きました。説明を聞いてもいまいちわからいことが多く、ただ余命1年と言われていたのにこの5年間無事に生きることができていることが私は嬉しく、少しでも長生きしてほしい、そして今の親父の体の状態は本当のところどうなているのかが知りたく、親父が検査を受けた病院に私が話を聞きに行くことにしました。内科の先生とお話をさせていただきましたが、膵臓の方は詳しく検査しないとはっきりわからないが、癌かどうかもわからないようで、あまり心配しなくてもいいのではと説明を受けました。ただ下血があるらしく、貧血にもなっているので大腸の検査をした方がよいとのことで、もしポリープがあれば切除するという方向で決まりました。
少し気持ちが楽になったのですが、大腸検査の日に病院から連絡があり、ポリープが大きすぎてどうも切除できなかったようなのです。そして家族と一緒に病院に来てほしいとの連絡が自宅にありました。母は聞くのが怖いからと父と私とそして弟も来てくれ、3人で話を聞きに行きました。結論を言えば大腸ガンでした。手術をするかどうかを決めなければなりませんでした。父はそのときから「早く楽になりたい。自分が死ぬ時期は自分で決めたい。これからの人生は時間ではなく中身なんだ」と何度も言うようになりました。つまり手術をせずに、病院ではなく自宅で終わりを迎えたいということです。
術後の生活がかなり不自由になる可能性があることが、父が手術を拒む一番の理由だったと思います。ですが私はその決断は「自分勝手」なことだと感じました。父がいなくなった後の母のことを考えたうえでの発言なのか?残された家族の気持ちは考えてくれたのか?
私は父と何度も話をしました。「オカンのこと、どう思ってるんや?」「それが一番心配なんや」と親父は返事をしますが、だからといって頑張って生きよう!という選択はせず、「治療も何もせず、楽に死にたいんや」とそればかり言っていました。「親父、親父は仕事も引退するまで自由にやってきたやん。もちろん親父が俺らのために頑張ってくれたことは感謝でいっぱいや。でもな、5年前にガン宣告されて、それをずっと黙ってて、そして今回こんなことになって手術もせずに早く死にたいなんて、自分勝手すぎんか?いきなりそんなこと言われて、俺ら息子はもちろん、オカンがどれだけショック受けてるかわかってるか?」と私はかなり強い口調で責めました。親父は何も言いません。「そもそも五年前に「膵臓癌」と診断されて「余命1年」と病院で言われたときに、なんで家族に何も言わんかったんや?俺らが焦燥するから?ふざんけんなよ!俺ら小学生とちゃうねんで。オカンには言わなくても、せめて俺や弟には言うべきやったやろ。そしたらその段階でいくらでも方法を考えることはできたやんか。お前らのためにってカッコつけて、なんでもかんでも自分勝手すぎるねん!」
親父が大きな病気で、後どれくらい生きることができるのかわからない悲しみと、親父が家族のだれにも病気のことを伝えなかった悲しみが混ざって、なぜか涙が溢れ、怒りに近い感情になってしまいました。
その後病院でも検査や医師との話には必ず私も一緒に行くことにしました。検査を進めていくにしたがって、病状などいろんなことがわかってきました。私が医師と病気の状態や手術の可能性、術後のことなどいろいろと話をしている横で、親父はいつも「先生、残りの人生は時間ではないんです。中身なんです。楽に死にたいんです。お願いします」と言ってました。
早く決断しないと病状が悪化するだけなので親父とじっくり話をしようと思いました。オカンは「できるだけ長生きしてほしい。だから可能性があるのなら手術してほしい」と言っていました。私もまだ手術ができる状態で十分に治る可能性がある、にもかかわらず早く楽になりたいだなんて、一生懸命生きている人や、生きたいのに病気や事故で残念ながら亡くなってしまう人たちのことどう思ってるんや!どう考えたら早く死にたいなんて言えるんや!と考えていて、それをすべて親父に伝えました。そして、オカンや私や弟、家族みんなが親父に元気で1日でも長生きしてほしい、癌が悪化して苦しんで苦しんで病院で亡くなってしまう親父を想像しただけで気が狂いそうや、ということも伝えました。3時間ほど話をしたと思います。
少し時間が経って、親父が「わかった。手術受けるわ」と言ってくれました。「お前らの気持ちは十分にわかった。頑張ってみるわ」
私はもちろん、オカンも弟もみんな同じ気持ちだったと思います。親父に感謝する気持ちと、これから病気と闘う親父を応援する気持ちと、手術の成功を祈る気持ちと。
手術の日が決まり、それまで親父は家でゆっくりと過ごしていました。体がしんどかったのでしょう、食事の量もずいぶんと減り、寝る時間が増えました。それでも毎朝コンビニに新聞を買いに行っていました。親父は仕事することが生きがいで、趣味も私が知る限り何もなく、1年中仕事に出かけていました。そんな親父も朝晩新聞を読むことは欠かさず、たまに教育に関する記事があると、それを切り取って私にくれたものでした。しかし、去年仕事を引退してからは時間を持て余すようになり、どんどん元気がなくなっていきました。もちろん病気が原因でしんどかったこともあるでしょうが、生きがいである仕事がなくなったことで一気に気持ちが沈んだのだと思います。朝はゆっくり新聞を読み、昼からは夕食までずっと横になっていました。ラジオを聞いたり、タブレットでこれまで撮影してきた写真や動画を見たり、YouTubeで演歌を聴いたりしていました。「今、どんな気持ちで親父は毎日過ごしているのだろう」それを考えると胸が苦しくなり悲しくなってきました。親父にDVDをプレゼントしたら、毎日それを見てくれました。「親父、必ず元気になるから頑張ってや」親父に会うたびにそういった言葉をかけると親父は「ありがとう!頑張るわ」と答えてくれました。
次に続きますが、親父は元気ですのでご安心ください。
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