個別指導塾 ONE-S(ワンズ)のブログ

堺市上野芝にある個別指導塾です。進学から補習、不登校の子どもの学習サポートなど、さまざまな子どものニーズにこたえます

120%の力なんてずっと出せるわけじゃない

2018-12-31 11:55:07 | 教室から
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

冬季講習も前半が終わり、今日は自宅と塾の大掃除です。フルパワーでいかないと1日では終わりそうもないです。

勉強であってもスポーツであっても、能力も向上させるためには必ず努力が必要ですよね。天才型の人間であっても、おそらく努力はしてるのだと思います。その努力をどれほどするかによって、到達する地点は決まるんですね。

ただ、同じ努力をしたからといって、同じ到達点になるとはかぎりません。いえ、まず同じ地点になる可能性はないです。それはおそらく人間が本来持っている生まれながらの能力がそれぞれ異なるからです。

恥ずかしい話ですが、私は小学生の頃自分のことを「もしかして俺って天才かも」と思ってました。授業でわからないことなんて何もないし、すぐに理解できましたから。それは中学生になっても続きました。受験前の入試問題で解けない問題はありましたけど、それでもやはり「天才かも」と思っていたイタイ少年でした。

それが高校に入学して一瞬で変わりました。私より頭のいい子なんてたくさんいて、どれほど勉強しようが勝てるわけないと気づきました。それまで学校で1番になるのが当たり前で、だれかに負けることなんて許されないと思ってましたが、高校であっさりと敗北を認め、自分の能力の範囲の中でできることをしようと考えが変わりました。たとえ、当時私が1日15時間ほどの勉強をして、彼らと同じくらいの学力をなんとか保っていたとしても、彼らが本気を出せばまたすぐに突き放されるわけですから、どうやっても追いつくことなんてできません。そして大事なことは、1日15時間ほどの勉強をし続けることなんて、何年もできないということです。

何か目標に到達するために努力することは当然です。ただ、「努力=素晴らしいこと 」と盲目的に信じるのはどうかと思います。

1日10時間ほどの勉強を中学受験のために小学生の3年生頃から続けて、なんとか志望校に合格できたとします。もちろん素晴らしいことですし、喜ばしいことなんですが、ここで終わりではないんです。むしろここからが始まりなんです。厳しい受験勉強を勝ち抜いてきた猛者たちが集まっているんです。少しでも気をぬくとどんどん離されていきます。受験勉強と同じような努力を続けていかなければなりません。大学受験まで考えると、そこから6年間続けなければなりません。そんな120%の努力を続けることなんてできるでしょうか?

途中で少し休みたいと思う時期もあるでしょう。もっと青春したいという子もいるでしょう。でも勉強を休んでしまうと落ちこぼれてしまって、授業についていけず、学校に行きにくくなってしまいます。そうなっている中学生がどれだけ多いか、もっともっと知るべきです。

最終学歴である大学でその努力をするのはまだ理解できます。最終学歴は強力な武器になりますから。また、就職活動において死にものぐるいで努力することもわかります。人生の半分は働いて過ごすわけですし、その場所を選ぶのに妥協はしたくないでしょうから。

ですが、中学受験でそこまでの力を出し切ってしまうのは疑問しかないです。小学生に努力させることがいけないといっているわけではなく、入学と同時に力尽きてしまうような、限界を超えた努力をすることに賛成できないのです。

おそらく中学受験の先には大学が見えていたのでしょう。ですが、中学受験で力尽きてしまったため、目標とした大学はもちろん、滑り止めにも考えていなかったような大学にしか進学できなくなっている子もめちゃくちゃ多いんですよ。

厳しい言い方をすれば、120%の力でようやく手に届くような場所にいても、そこで生き残るのは難しいです。余力を残してその場所によってたどり着いた子には勝てません。この中学校に合格できれば大学も就職も保証されているわけではなく、ただその権利を得て、少し可能性が高くなったというだけなんです。そして、いくら努力しても超一流にはなれない、能力には限界があることを知らなければなりません。

自分でいうのもなんですが、私は学生時代(大学を除いて)、勉強の努力は人並み以上にしてきたと思います。だからこそ、手に入れることができたものもたくさんありますし、一切後悔はありません。その気持ちがあるから、こうして塾の講師として、子どもたちに努力の大切さ、学ぶ楽しさを、そして目標を達成したときの充実感をぜひ感じてほしいと心から望んでいます。

それと同時に疲労しきって、傷ついている子どもたちの力に少しでもなりたいとも思っています。傷ついた子どもがこれだけ多い今の現状を変えたいとも思っています。

私は今の、この塾の講師という仕事が本当に好きです。できるだけ、長く長く続けていきたいです。だから、毎日90%くらいの力で仕事をしています。10%の余力を残しながら、一生懸命これからも頑張っていこうと思っています。

今年も1年間ブログを読んでくださりありがとうございます。後半は更新頻度も少なくなってしまいましたが、無理せず私のペースでこれからも続けていくつもりです。来年も引き続き読んでいただければ有難いです。どうぞよろしくお願いします。

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不安を煽るばかりでは

2018-12-28 10:16:27 | 教室から
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

冬期講習が始まりました。

受験生は毎日不安と必死で戦いながら、悔いのない受験を迎えられるように一生懸命です。少しでも不安を軽くしてあげ、そして自信を持ってもらうと同時に確実に合格できる力をつけてもらえるよう、私も全力投球です。1、2年生も年明けすぐに、内申点に大きな影響を与えるチャレンジテストがありますので、このテスト対策に向けてみんな頑張っています。いつまでも今年も撃沈した有馬記念の反省をしている暇なんてありません(笑)

私も高校受験のときは、めちゃくちゃ勉強しました。おそらくこれまでの人生において、中学3年生の1年間が量・質ともに最高の勉強ができたのではと思っています。当時の私は「合格したい」という気持ちと同時に「不合格になりたくない!」という気持ちがありました。どちらかといえば、後者の方が強かったかもしれません。どちらもほぼ同義ですが、少しニュアンスは異なります。

私は暗黒の中学校3年間を過ごしました。私の中では「失われた3年間」だったのです。そのためなにがなんでも、高校生活は充実させ青春したいと強く願っていました。高校デビューして理想の高校生活を送るためには、絶対に公立高校に合格する必要があったのです。というのも、当時私立高校は共学校は少なく、併願で受験した高校も男子校でした。男子校では高校デビューする気にもならないし、私の「失われた3年間」を取り戻すことは絶対にできないだろうと思っていました。

公立高校に不合格になってしまうと、男子校の私立高校に行かないといけないので、「それだけは嫌だー!」という気持ちで必死になって勉強しました。A高校に合格するために勉強したのですが、それはなにがなんでもA高校に行きたかったわけではなく、B高校に行くのが絶対に嫌だったのです。だから、A高校ではなくC高校でもD高校でもそこにはそれほど差はありませんでした。

「B高校に行ってしまうと人生終わってしまうかも」という負のイメージの効果は大きく、なにかを頑張れるときに大きな原動力になります。

たとえば私の場合は、禁煙もそうでした。「水とタバコさえあれば生けていける」と言い放っていたかなりイタイ私が(笑)、禁煙したというと誰もが驚き、信じてくれませんでした。意志の弱い私が禁煙できたのは、このままタバコを吸い続けて近い将来の自分を想像ししたからです。肺が真っ黒になり、歯も抜け落ちて咳ばかりして、そのうち肺がんにでもなって苦しんでいる姿です。「こんな惨めな姿になりたくない」その気持ちが強くなり、何度挑戦しても失敗していた禁煙に成功したのです。

実際に、私たちの周りには不安になるから、そうなりたくないからやっていることって、かなり多いと思います。それはやはり、不安に駆られて行動するパワーは大きいからでしょう。だから何か行動を起こすとき、「なりたい」ではなく「なりたくない」という気持ちでした方がうまくいくことが多いかもしれませんね。

ただ、「なりたくない」と自分で思うからこそ大きなエネルギーを生み出すのであって、他人から言われたところでそれは不安感が増すだけなのです。「こんな成績だったら将来〇〇になるよ!なりたくなければ頑張りなさい!」これは最悪です。これを言っている人は〇〇を見下しているわけですから、子どもも〇〇を見下してしまうようになります。たまに、こういうことを言う教師もいますが、そういう人が教育者になってほしくありません。

また、頑張っても成績が伸びなかったら、子どもはどう思うでしょう?「ああ、こんな成績だったら〇〇になってしまう。どうしよう?苦しい人生になってしまうのかな?」まだまだ幼い子どもたちが、将来を明るいものとして見ることができず、不安や絶望感しか抱いていないのはあまりにも悲しいです。こんな不安感を持っている子どもたちが「どうせ、やってもできないし、もうどうでもええねん!」となげやりな考え方へと変わっていくのです。

子どもの頃からずっと何か不安を持ちながら、何かにおびえながら生きていくというのはどうでしょうか。「夢を持ちましょう」といいながら、子どもの夢を壊していってるのは私たち大人であるように思います。「〇〇になるな」ではなく、「なりたい」と思えるものを探す手伝いをするのが大人の役割じゃないでしょうか。勉強できなくてもそれで人生が終わってしまうわけでもなんでもありません。そりゃあ勉強できた方がこの世界では得することが多いでしょうから、一生懸命勉強することを否定しません。塾という仕事をしているわけですから、もちろん勉強を一生懸命してほしいと思っていますし、楽しく学んでほしいと心から思っています。でも勉強できない子がいるのも事実です。勉強を頑張っても頑張っても、大人が望むような場所にたどり着けない子もいるんです。そんな子に、脅すような言葉で無理やり勉強させたとしてもそれは不幸な結果にしかつながりません。

勉強することや学ぶことの大切さを教えることは必要です。ですが勉強がすべてであり、勉強できない人間は将来明るくないという教えは絶対に間違っています。それがたとえ勉強していた方が将来苦労しないだろうから、少しでも勉強してほしいという愛情からであったとしても、子どもを不安にさせるだけのような言い方をしてはいけないのです。

子どもたちの人生は子どもたちのものです。ある程度の年齢になれば自分で決めていけばいいのです。その力は十分持っています。情報を与えてあげたり、アドバイスをあげることは大切です。でも最後は子どもたちが決めればいいんです。もっともっと将来に対して、不安ばかりでなく、夢をみて、明るく楽しい未来が待ち受けているんだとワクワクした気持ちをいっぱい持ってほしい、そこが今の日本に欠けていることではないでしょうか。

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気持ちをわかってもらいたいというのは理解できるけど

2018-12-19 10:21:01 | ひきこもり
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

私はサッカーや競馬が好きでテレビでもよく見ます。サッカーの試合では、バルセロナの試合のときにはそれほどでもないのですが、日本代表の試合を見ると「下手くそやなー。なんや今のパスは?」「なんでそこでシュートにいくかなあ?こっちに、どフリーの選手がいるやん!」「守備が軽すぎるわ!」などど評論家気取りで批判してます。

競馬になるともっと言葉はキツくなり(お金がかかってますんで(笑))、「仕掛けんのが遅いねん!だからお前は2流なんや!」「外国人騎手にばかり勝たれて悔しくないんか!意地を見せろや!」など負けたときは自分の予想の反省をせず、騎手のせいにします。家族からは「そんなに言うんやったら、あんたできるんか?」などとわけのわからないツッコミを入れられますが、当然できるはずもなく、こういう文句を言うのも含めて、エンターテイメントとして楽しんでいるんですよね。ですから、サッカー選手や騎手の方とお会いできたときには、普段あれほど文句ばかり言っているのに、「いつもすごいプレーで感動してます!頑張てっください!握手してください!」と態度を急変させます(笑)。

それは心の中では、サッカー選手や騎手をとても尊敬していますし、私の想像なんかはるかに超える努力をされているのだろうなと思ってるからです。

それはべつにプロのスポーツ選手に限らず、他の職業の人に対してもそうです。私は塾の講師をしていますから、同業者の方々がどういう仕事をしていて、どういう苦労をされているのかは、だいたいわかりますが、それでもやはり個人差もありますので、細かいところまではわかりません。それが異なる業種の人だったら、なおさらわかりません。ですから、私は自分自身が経験したことのない仕事をしている人たちに対して「楽そうな仕事でええなー」「ストレスなんてないやろ?」なんてことは言えません。いくら楽そうに見えたとしても、私が知らないだけで、絶対にいろんな苦労をされているはずなんです。

そういう意味では、私は「ひきこもり」の人に対しても「毎日が休みでええなあ」とは言うことができません。「ひきこもり」の人たちも、彼らなりの苦しさやしんどさが必ずあるからです。特に、私は「ひきこもり」を経験しています。大学卒業後の約3年間ひきこもっていました。ひきこもっている状態の苦しさや不安、寂しさなどは経験しており、彼らの気持ちもある程度はわかっているつもりです。

だれかが私に「塾の仕事って楽でええよなあ。授業も夕方からやし、毎年同じこと教えるだけやしな。それで夏期講習や冬期講習っていう臨時収入もあるんやから」なんてことを言われたら、私もカチンとくるでしょうね。私は塾の仕事をしたいからしていて、自分では天職だとも思っています。ストレスもほぼないですし、基本的に毎日楽しく仕事をさせていただいています。ですが、授業の準備や問題作成など、授業時間以外での作業が多く時間的な余裕がありません。また座っている時間も長いので腰痛が酷くなっています。「授業だけしているわけでもないし、その授業もどれほど力を入れてしてるのかわからんやろ?」と心の中では思うでしょうが、それをいちいち相手には言わないでしょうね。

それは言ったところで、経験したことのない人にどこまで伝わるのか疑問ですし、なによりだれかに認めてもらいたいから仕事をしているわけでもありませんから。自分で好きな仕事を選び、やりたいことをしているわけですから、それで十分なんです。だから、だれかに俺の苦労や頑張りをわかってほしいなんて、これっぽちも思いません。

先日テレビで「ひきこもり」問題をあつかっている番組がありました。たまたま録画していたのを見たのですが、その中で1つ気になった言葉がありました。それは、「元・ひきこもり」の方の意見なのですが、「ひきこもりだって辛くて苦しいんだ。なのに、世間からは「甘えているだけ」や「毎日が休みでいいよな」など言われる。一度ひきこもりをしてみてほしいよ。どれだけ辛くてしんどいか!だれもが、ひきこもりをできるわけじゃないんだよ!」細かくは覚えていませんが、だいたいこんな内容だったと思います。

私はこの言葉を聞いたとき「だから、「ひきこもり」の偏見はいつまでたっても変わらないんだよ!」と思いました。同じ「ひきこもり」経験者として気持ちはよくわかります。「ひきこもり」の中には、ただの「甘えやサボり」ではなく、本当に自分ではどうしようもなく、苦しくてもがいていて、毎日悩み続けている人もいるでしょう。ですが、だからといって、あなたは「毎日、一生懸命何かのため、何かを守るために歯を食いしばって働いている人の気持ちはわからないでしょう?だってあなたは働いたことがないから」

自分の今の苦しさやしんどさを、だれかにわかってもらいたい、その気持ちは十分に理解できます。冷たい世間に対しての怒りもあるでしょう。ですが、もっと言い方を考えなければなりません。「自分だけが苦しい」のではありません。「自分も苦しい」のです。

それなのに、「自分だけが苦しい」という表現の仕方をすれば、そりゃ反発は起きてしまいますよね。「ひきこもり」に対する世間の見方を変えていくのなら、まずはその当事者・元当事者・支援者の人たちが、ここを変えていかなければならないでしょう。私は心から「ひきこもり」に対する偏見が変わってほしいと心から望んでいるからこそ、よけいに今回はそう思いました。

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もっともっと透明に!

2018-12-13 09:27:56 | 教室から
おはようございます。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

冬が本格的に到来し、寒さが増すとともに、受験生の緊張感も高まってきました。私も自然とこの時期は力が入ります。

大阪の高校受験は、これまで何度もその制度のマイナーチェンジを繰り返してきました。公立高校の学区を撤廃したり、内申点を相対評価から絶対評価にしたり、前期・後期制を導入したり、チャレンジテストを内申点をつける目安の1つとしたり。

受験制度は公平であり、しかもできるだけ評価されるような方法である必要があります。特にまだ精神的に幼い中学生が経験する高校受験ではなおさらです。そういう意味では、私は受験制度をどんどん変えていくのは賛成なんです。よりよいものを目指すためには現状維持ではなく、改革が必要だからです。

今日は、そんな受験制度の中でも内申点の話を少ししたいと思います。私が中学生の頃は内申点は10段階の相対評価でした。1と10の点数がつくのは学年の3%、2と9がつくのは学年の4%、3と8は全体の9%というように決められていました。学年の人数が100人ならば、最高の10をもらえるのは3人となります。と同時に最低の1も3人となります。この相対評価の問題点は、中学校全体のレベルで子どもの内申点が大きく異なることでした。

たとえば、1学年が100人のA、B中学校で同じテストをしたとして、A中学校では90点以上が50人、B中学校では90点以上はいなくて80点代が1人だったとします。A中学校では90点をとったとしても、90点代が50人もいますので、90点でも順位では真ん中あたりになりますので、内申点は5点か6点になります。一方B中学校では、80点代でも順位は1位ですので、内申点は10点をもらえることになります。

極端な例ですが、これではA中学校の子どもが、あまりにもかわいそうで不公平だということで、絶対評価にし、さらにチャレンジテストを導入することによって学校間のレベルの格差による内申の有利不利をなくそうとしています。まだまだ改善の余地はたくさん残されていますが、基本的には良い方向に進んでいると思います。

また、私が中学生の頃は、自分の内申点をはっきりと教えてもらうことができませんでした。進路指導の三者面談などで、志望校を受験するための内申点が十分にあるのか、足りないのかを担任の先生に教えてもらうという形でした。「〇〇点あります」というものではなく、その先生が「内申点としては大丈夫です」「内申点は少し足りないかも」という指導をするわけですから、それを信じるしかないわけです。その先生の判断が間違っていることも十分に考えられる中で、その当時の子どもたちは受験校を決めなければなりませんでした。

それから数年が経過し、いつの頃からか自分の内申点を子どもが知ることができるようになりました。「知る権利」や「情報公開」などが叫ばれていたときだったと思いますが、これによって飛躍的に受験校を選びやすくなりました。子どもたちは自分の内申点と学力を総合して受験校を決めることができるようになり、無謀な受験による失敗はずいんぶんと減りましたし、目標を設定しやすくなりました。

しかし、これがすべての子どもに与えられた権利かというとそうではありません。たとえば中高一貫の私立校の中には、中学から高校にあがるときに、別の公立高校を受験したいという生徒がでても、その生徒に内申点を教えないところもあります。内申点を教えることは確かに義務化はされていませんが、自分の内申点がどれだけなのかを知らずに受験するのはあまりにも不利になります。そして内申点に大きな影響を与えるチャレンジテストも、私立中学生は基本的には受けていません。そもそも公立中学校と私立中学校では内申点のつけ方は異なります。

私はこういう話を聞くたびに思うのです。「内申点なんてなくせばいい」と。本番のテスト一発勝負で合否が決まる方がよっぽど公平でスッキリすると思います。

中学3年間、真面目に頑張ったその努力を評価してあげることは必要でしょう。ただ、今の受験制度ほど合否に大きな影響を与えるものであってはならないとも思うのです。あくまで内申点は、受験においては補足的な位置づけにとどめて、本番のテストが主である必要があります。内申点のために、学力の低い子どもが必死で提出物の問題集の解答を丸写ししている姿を見たり、逆に学力が高い子どもが、音楽や体育の副教科の実技が苦手なため、高い内申点をもらえず、本来の学力より低い高校を受験せざるを得ないのを見たりしていると、その気持ちが強くなります。

受験というのは、子どもたちの人生を大きく変えます。そして子どもたちは大人と比べてもっと純粋です。だからこそ、その制度は公平性はもちろんのこと、よりシンプルでわかりやすいものにしなければなりません。


「私立中学に入学したから公立高校に受験できない」「不登校になったから公立高校に受験できない」馬鹿げてますよね。そろそろ内申点で縛り付けている今の制度を見直さなければならないのではないでしょうか。

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マルコ牧師ってだれ?

2018-12-08 09:53:43 | 教室から
おはようございます。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

先日はM1グランプリがありましたね。お笑いが大好きな私は第1回から欠かさず見ています。これまでで特に印象に残っているのは、笑い飯の「奈良県立民族博物館」と「鳥人」はゲラゲラ大声で笑いました。ここ数年は少しパワーダウンしたかなと思っていましたが、今年は久々に面白かったです。

私はスポーツでも審査員が点数をつける競技があまり好きではありません。理由は単純に「わかりにくい」からです。この技を決めれな〇点、このミスをすれば〇点減点などがあるのでしょうが、それでも審査員によって大きく点数がバラついているのをみると、なんだかスッキリしなくて「わかりにくい」です(まあ、私が無知なだけで見る人が見ればちゃんとその違いもわかるのでしょうが)。

これがM1のような「漫才」となるともっと「わかりにくい」ですよね。それこそ、このボケが〇点、ツッコミが〇点、という明確な基準はありませんし、テンポや間を重視するのか、発想力なのか、客席の笑いの量を重視するのか、そもそも「笑いのツボ」なんて人それぞれでしょうから、それを採点するというのは大変な仕事ですね。万人がおもしろいと認めるものなんてないかもしれませんし、もしかすると万人がおもしろいと思うものは実はそれほどおもしろいものではないかもしれませんし。

と、このままでは私の個人的な「お笑い論」みたいになりそうですので(笑)本題に入りますね。

どこが「笑いのツボ」なのかは人それぞれであり、私の場合は優勝した霜降り明星はもちろんですが、見取り図やかまいたちも面白かったです。ですので私が順位をつけると現実の結果とはずいぶんと異なる結果になったでしょう。ただ、ここで大切なのはどのコンビのネタも「その面白さのポイント」すなわち芸人さんが「どこで笑わそうとしているのか」をわかった上で判断しているということです。

これまで塾生だけでなく、数多くの子どもたちと接してきました。ときどき、M1など「お笑い」の話題になることもあります。驚くのは先ほど言ったような「面白さのポイント」がわからない子どもが考えてる以上に多いということです。4分間ほどの漫才ですし、しかも一般視聴者向けにネタも作っておられるでしょうから、伏線といってもそれほど大掛かりなものではなく、わかりやすく回収をしてくれていますし、ボケやツッコミのワードも難しいものは使っていません。小説の意味がわからない、落語がわからないというのは理解できますが、テレビでするような漫才のネタの面白さがわからないというのは、とても危険なように感じます。

これから社会に出て年齢も環境も違ういろんな人間と関わって生きていかなければなりません。友だちとの会話とは、まったく異なったコミュニケーション能力が求められます。わかりにくい言い方をしてくる上司やお得意様もいるかもしれません。いちいち「それはどういう意味ですか?」などと質問するわけにもいきません。言葉の意味を知ることはもちろんですが、どういう流れでこの話になっているのか、この発言の裏にはどんな意図があるのか、それを理解しなければなりません。漫才のネタよりよっぽど難しいです。

「お笑い」の世界でも、今の若い世代にはわかりやすいネタ、たとえばリズムネタなどが流行りやすいのもそういうことだと思います。もっと言えば、YouTubeなどでも人気の動画はとにかくわかりやすく単純なもの、おもしろくないわけではなく私もときどき見ますが(笑)、こういうのに慣れてしまってくると漫才やコントのネタを見るのがしんどくなってくるんですね。

そして、その流れにあわせて、テレビ番組や映画などの娯楽も、ますます単純でわかりやすいものに変わってきています。そうしないと、若い世代が食いつかないからでしょうが、これはかなり危険なことだと思います。ずいぶん前から言われてますが、活字離れもますます進んでいます。本はもちろん、漫画を読む子もどんどん減っています。SNSが普及し、友達同士のやりとりも、もはや会話というレベルではないことも少なくありません。

ここにまず危機感を持たなければなりません。制度を決めていく側の人間が、この事実を知らなければなりません。グローバル化が進むんだし、日本の英語教育は遅れているのだから小学校の高学年から英語を正式科目にしよう!なんて、いってる場合じゃないんですよ。英語どころか、日本語をうまく使うことができない子どもが増えているんです。まずここをどうにかしないと!プログラミングなんてやってる場合じゃないんです。それに、やるならもっと効果的な方法で英語を教えていかなければなりません。私たちの世代の人なんて、大学までそれなりに英語の勉強をしてきた人であっても、私も含めて会話なんてまずできないですし、まともな英文を書くことすらできません。いったい何年も何の勉強をさせられてきたのでしょうか?

教育とは人間の根っこの部分をつくることです。ここが不安定だとすぐに倒れてしまいますし、大きく育つことはありません。今何が問題で、何が必要なのかを考えていかなければならないのです。

漫才やコントを見る授業をしてはいかがでしょうか? 楽しいだけでなく、今行なっている授業よりも、ずいぶんと効果的かもしれませんよ。

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