個別指導塾 ONE-S(ワンズ)のブログ

堺市上野芝にある個別指導塾です。進学から補習、不登校の子どもの学習サポートなど、さまざまな子どものニーズにこたえます

親父と仕事と私④

2022-09-11 13:41:30 | 教室から
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

親父のことについて少し書こうと思ったら、あれもこれも思い出し、こんなにも長くなってしまいました。

弟の協力もあり、親父の借金問題は解決できました。ただ、まだ問題は残っていました。親父の仕事のことです。借金はなくなりましたが、売り上げは落ちていく一方で、誰の目から見ても継続は困難な状況でした。私はもちろん、母も弟も「親父、今の仕事を辞めて別の仕事したら?できるだけ手伝うよ。それかどこかに雇ってもらって毎月安定した収入がある仕事にした方がいいよ」と何度も説得しましたが、親父は「今さら他の仕事をして、ちょっと稼いだところでどうするんや!そのうち大きく事業を展開するから心配するな!」などと、この頃から夢のような話ばかりして、私たちの意見を聞き入れようとはしませんでした。「俺は一生働き続けたいんや!仕事をしながら死んでいきたいんや!」

「まあ好きにしたらいいか」とはいきませんでした。というのも、親父の仕事は低迷し続け、私にもそうでしたが、特に弟に親父はお金を借りることが増えてきたからです。働けば働くほど赤字になっていく状態でしたし、もう家族以外他に借りるところはありませんでした。今から10年ほど前になりますが、家族で話し合いを行い、親父に「これからは1円も貸さないことに決めたから!」と伝えました。そのときの親父の、怒っているような悲しんでいるような、なんともいえない表情が忘れられません。

その後も親父は仕事を続けていました。これまで以上に長時間働いていたと思います。私の塾と親父の事務所があったアパートは、老朽化により立ち退きとなり、別の場所に移ることを余儀なくされました。親父は近くのアパートに事務所を移し、私はここ上野芝に今のONE-Sを開校しました。職場が離れたこともあり、親父と会う機会はずいぶんと減ってしまいましたが、時々電話やメールで話をしていました。「仕事大丈夫か?」と聞くと、いつも「大丈夫や。心配するな」と言っていましたが、その声や言い方が、以前のように力強いものではなくなっているように感じていました。

親父は5年ほど前から寝泊りを自宅でするようになりました。親父と一緒に生活をともにするのは35年ぶりくらいでしたか、なんだか不思議な感覚でした。一緒に暮らし始めてわかりましたが、親父はずいぶんと年を取っていました。そっか、もう70半ばやもんな。それでも朝から晩まで働いてたんやな。自宅に戻ってきてからしばらくすると、親父の顔色はよくなりましたから、これまで事務所で寝泊まりしていて、食事や睡眠がちゃんとできていなかったんだろうなと気づきました。

そして2年ほど前に、新型コロナウイルスが仕事に与えた影響が大きかったこともあり、親父はようやく引退を決意しました。親父の人生のほとんどは、印鑑販売の仕事にささげてきたでしょうから、それと別れるというのはとても辛い選択だったと思います。

そんな親父には「親父、もうそろそろええんとちゃうか。毎日お金のことばかり考えて、今月の事務所の家賃どうしよう?とか車が故障したらどうしようとか、そんなこともう考えなくてもええんやで。これからは、そんなこと考えずにゆっくり過ごしたらええねん。もし体を動かしたいんやったらアルバイトもできるし、シルバーセンターに登録しておけば仕事もできるし。もう楽に生きていこうや」と伝えると、まだ自分の中では整理できていないのか、複雑な表情をしていましたが現実を受け入れようとしているようでした。

業種はまったく異なりますが、私も親父と同じく個人事業主です。ですから親父がずっと抱えていた不安はなんとなくわかりますし、そして仕事をいつまでも続けたいという気持ちもわかる気がします。なぜなら、個人事業主は喜びや充実感がダイレクトに経験できるからです。

親父が廃業を決め、これまでお世話になったお客様にご挨拶にまわっているようです。すべての方に会うことは難しいでしょうが、1人でも多くの人にこれまでの御礼をしたいとのことでした。そうすると、お会いするお客様のほとんどが、親父の廃業を残念がってくださり、またこれまでお疲れさまと労いの言葉をかけてくださったり、御礼にと印鑑を注文してくださったりと、とてもあたたかく親父を迎えてくれているそうです。「ありがたくて、ありがたくて涙がとまらんわ」と親父が話していました。

家族には、いっぱい苦労かけたけれども、親父はいい仕事をしてきたんだと思います。そうでなければ、こんなに多くの人に愛される「はんこ屋さん」にはなれなかったでしょうから。

私にもいつか引退するときが来るでしょう。そのときには、親父のように引退を惜しんでもらえるような、私の塾、そして私と関わってよかったと言ってもらえるよう、どんなときでも全力で頑張っていこうと改めて決意をしました。

「親父、お疲れ様。今の俺がこうして元気で仕事できているのは、親父のおかげやで。本当にありがとう。これまで仕事以外何もしてこなかったんだから、趣味の1つくらい見つけて、毎日ゆっくり楽しく過ごして、オカンと仲良くして長生きしてや」

ONE-SのHP
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親父と仕事と私③

2022-09-10 18:50:08 | 教室から
こんばんは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

とても長くなってしまいましたが、もう少しお付き合いください。

ひきこもり時代の私に親父はよく「お前、なんかしたい仕事ないか?どんな仕事がいいんや?」と声をかけてくれていました。いくつか知り合いの会社の経営者の方がいたようで、私が希望すればそこにお願いして入れてくれようとしていたみたいです。ですが当時の私はとにかく自信がなく、そういう自信のなさを家族に知られたくないという気持ちから「俺はだれとも関わらない仕事がしたい!だから会社では働かない!」とせっかくの親父の気持ちを無駄にしていました。それでも親父は見捨てずに、「それだったら、俺の仕事を手伝わないか?ちょうど印鑑のチラシを作ってほしかってん」と私に仕事を依頼してくれました。朝、親父と一緒に車で事務所まで行き、そこから親父は外回りで事務所を離れ、私は親父のパソコンで印鑑のチラシを作る作業をしていました。当時は今ほどパソコンは普及していなかったので、使い方を覚えるまでに時間がかかりましたが、他に何もすることがない毎日でしたので、ゆっくりと使い方の勉強をして、クオリティはかなり低いものでしたが、何種類かのチラシを作ることができました。そのチラシを親父はとても喜んでくれ、いろんな場所に配ってくれたようです。「お前のおかげで、何件か問い合わせがあったぞ!ありがとう」とアルバイト代までくれました。今考えると、あのチラシで問い合わせがあったとは考えにくく、親父はなんでもいいから私に仕事を与えて自信をつけて元気になってもらおうと、そういう思いで私を事務所に連れて行ってくれたのだと思います。

おかげで少しずつ元気になってきた私は仕事を始めたいという気持ちが出てきて、そのタイミングでまた親父が「俺の事務所の隣がちょうど空いたから、そこで学習塾をやってみないか?」と言ってくれました。自信があったわけではなく、それどころか何から始めればよいのかまったくわからない状態でしたが、ここで動き出さないと俺はもうダメだろうなあという背水の陣で臨みましたので、とにかく無我夢中で頑張りました。塾のチラシは親父の仕事を手伝ったときに練習したので自分で作ることはできましたし、ホワイトボードや本棚などのオフィス家具の一部は高校の友人がわざわざ持ってきてくれました。そしてそれ以外のものはすべて親父が用意してくれたのです。まず教室として使用する部屋の契約に必要な費用、チラシを封筒を印刷する会社の紹介やそれに必要な費用、すべてを出してくれました。そして塾を始めてから経営が安定するまでの約1年間の家賃なども親父が負担してくれました。

塾を始めてからも、隣は親父の事務所ですので会う機会はそれなりに多く、3兄弟の中では私がダントツで多く親父と話をしていると思います。開校してから5年ほど経過し、私が30代前半の頃でしたが、そのときにこれまで親父についてあまり知らなかったことのほとんどを知るようになりました。きっかけは親父が「お金がないから貸してほしい」という私にはかなりショッキングな言葉が発端でした。

ああ、そうだったんだ。考えてみればそうだよな。印鑑って消耗品でもないし、個人で営業して、それほど稼げる仕事ではありませんよね。少し考えればわかったことなのに、考えようとしていなかった。正確には、うすうす感づいていたけれども、あえて知ろうとしなかったのだと思います。一度きちんと話をしなければと、両親といろんなことについて話し合いました。

親父の仕事が、かなり厳しい状況であること。順調な時期はほとんどなく、私と兄の大学受験のときに大きく借金をしたこと。それからもバブルがはじけたこともあり、親父の仕事はずっと下降線をたどり、借金の返済で限界に近いことなど想像以上に事態は深刻でした。

私の仕事の方は、それほど余裕があったわけではありませんが、ある程度順調でしたし、何より親父の借金は遊ぶためにしたわけではなく、私たちの教育費や生活費としてしてくれたものですから、できるかぎりのことはしたいと思いました。少なくても、これまで私にかけてくれた教育費や、塾の立ち上げに必要だった経費などはすべて返していきました。私だけではどうにもならなかったので、弟も協力してくれました。

兄にも相談すると、「俺はこうなることがわかっていたから、早くに家を出たんや。何で俺が親父の借金を返さなあかんねん。そっちで適当にやってくれ」と言われました。それぞれの考え方はあるでしょうが、「誰のおかげで、お前は大学にまで行かせてもらえて、今働けてんねん!誰のために親父は借金したんや!」と私は兄の考えには全く同意できず大喧嘩となり、このことが原因で20年近く経った今でも兄とは仲直りできていません。

暗い話になってすいません。
次回で終わります。

ONE-SのHP



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親父と仕事と私②

2022-09-09 09:44:31 | 教室から
おはようございます。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

学習とはほとんど関係のない親父の話で申し訳ありません。

前回の続きです。

親父が仕事を始め、事務所で寝泊まりするようになり、親父との関りがほとんどなくなったのが中学生くらいだったと思います。高校受験の時期になっても、受験の相談を親父にした記憶はなく、母にしか相談しませんでした。後に母から聞いたのですが、この頃親父は「勉強なんてやっても何の役にも立たん!塾などの教育費は俺は出さんからな!」と言っていたらしいです。1歳上の兄の高校受験が終われば、翌年には私の受験、そして3年後には弟の受験と、かなり大変だったと思います。祖父母や、母がパートで稼いでくれたお金で私たちは十分に勉強させてもらうことができました。

しかし受験は続きます。次は大学受験です。兄が1年浪人しましたので、兄と私の大学受験、そして弟の高校受験が重なるという松下家にとっては非常事態となりました。当時私は塾には行っていませんでしたが、兄は予備校に、弟は学習塾に通っていましたので、それだけでも大変なのに、入試が始まると受験料や合格が決まると入学金や授業料などたくさんのお金が必要となりました。当時の私がダメだったのは、そういった家庭の経済状況がいまいちわかっていなくて、「両親の負担にならないように」という気持ちがほとんどなかったことで、だからこそ安易に浪人する道を選びました。

そのときに久しぶりに親父とゆっくり話しました。「浪人したいから予備校に行かせてほしい」と伝えたところ、「どこの大学を目指しているのか」「ちゃんと勉強しろよ」などの言葉はなく、「わかった。頑張れよ」とあっさり了承してくれました。本当はかなりキツかったはずです。大学に合格した兄は家を出て、一人暮らしを始めました。その仕送りも毎月してくれていたわけですから。そんな両親の気持ちを裏切るかのように、ほんとダメな人間だった私は、予備校に通いながらも授業をサボって遊びに行ったり、勉強に集中しない1年を過ごしてしまいました。結局受験した大学はすべて落ちて2浪することになりました。このときも、自分の学力に見合った大学を受験しておけばどこか合格できた可能性は高かったでしょうが、変なプライドだけあって、勉強もまともにしていないくせに滑り止めの大学は受けず、無理な大学しか受験していませんでした。はー、今思い出しても反省しかないですね。

2浪するとき、また両親と話をしました。今回はさすがに「今年こそは一生懸命頑張るから、なんとかお願いします。そして志望校は〇〇大学にする」と頭を下げてお願いしたところ、前年と同じく「しっかり頑張れよ!」とだけでもう1年予備校に通わせてくれました。私なりに一生懸命勉強に取り組みましたが、残念ながら第一志望には合格しませんでした。また、3浪するのは精神的にも耐えることができなさそうでしたので、第一志望以外にも滑り止めの大学を複数受験させてもらいました。大学は受験料だけでも3万円ほどかかり、さらに私立大学に合格すると期限までに入学金を納めないと合格が取り消しになってしまいます。その期限は国公立の発表前ですので、国公立が不合格になってしまったときのために、入学金を納めないといけませんでした(国公立に合格する自信がそこまでありませんでしたから)。この入学金が20~30万だったと思います。予備校の費用以外にも、受験費用がかなりかかってしまいました。ですが、両親ともに合格をとても喜んでくれ、すべての手続きをしてくれました。

大学の4回生ごろから親父との会話が増えました。あいかわらず家にはほとんど帰ってきませんでしたが、大学卒業後の進路をどうするのかの相談を親父にしていました。その頃には親父の事務所にも何度か行き、なんとなくどういった形で仕事をしているのかわかってきて親父との距離は近づいてきました。私が大阪府警に就職しようとしたときには「お前には合ってないんじゃないか?まだ時間あるし就活頑張ってみたらどうや?」と心配してくれました。私は大阪府警を2週間で辞めてしまい、親父の心配していた通りの結果となりました。親父は個人で営業していたおかげで顔が広く、元警察官の方々にいろいろと話を聞いてくれていたようです。そのうえで私には無理だろうと思っていたようですね。私の性格を親父はよくわかってくれていたんだと思います。

その後私は3年間のひきこもり時代をむかえます。この期間は私の人生においてはとても貴重なものとなりました。すべての自信を失い、半ば自暴自棄になっていましたが、家族の支えのおかげでなんとか踏ん張ることができたのです。

もう少し続きます。

ONE-SのHP
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親父と仕事と私①

2022-09-04 12:59:12 | 教室から
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

私には79歳になる父がいます。つい先日コロナ陽性になった父です。父は愛媛県の宇和島というところの、端っこにある山と海に囲まれた、「ぽつんと一軒家」で出てくるような、そんな場所で生まれ育ちました。

9人兄弟の末っ子で、戦争中に生まれたのでとても貧しい生活をしていたらしく、それでも兄弟たちが支えてくれてなんとか高校までは行くことができたようです(いろいろあって中退したようですが)。そんな父が都会にあこがれ、仕事を求めて大阪に来たのは19歳のときです。戦後直後といえども、父が育ってきた地域と大阪とではずいぶんと世界が異なったでしょうから右も左もわからない状態で私には想像できなほど大変だったことでしょう。私が19歳のときといえば、まだアルバイトの経験すらなく、20歳にになって初めてのバイトで1日で辞めてしまい、給料をもらいにいくことができなくて、代わりに親父に取りにいってもらったほど1人では何もできない人間でしたので、それを考えると「親父すげーな」と思います。

一人の男として尊敬できる面もありますが、父親としてはどうだったのかなあ?
今回は親父の話をしますね。

親父は25歳のときに結婚し、子ども3人できました。私は次男です。私が生まれた頃は親父はまだ働いていない状態でした。3つ下の弟が生まれたときも働いていたのかな。正確には職についてもすぐに辞めて、転々と職を変えていたらしいです。うーん、大阪府警を2週間で辞めた私は親父のこの遺伝子をもろに受け継いでいたのか(笑)母親の話によると、毎日飲み歩いては酔っぱらって遅くに帰宅し、それが原因でよくケンカをしていたらしいです。それはなんとなく記憶にありますね。

働いていないので、当然生活するお金がなく夫婦だけで暮らしていけないから、母の実家で私たちは暮らしていました。当時は大家族なんて珍しくもありませんでしたから、家族7人で暮らすことに不満もなければ、毎日にぎやかで楽しかった記憶しかありません。ただ1つ気になっていたことがありました。それは親父のことです。親父が家族の中で1人だけ浮いてしまっているのです。子どもながらに「親父はこの家族に馴染んでないなあ」と感じていました。まあ義理の両親の家で生活しているわけですから、居心地がよくなかったのでしょうが、もっと言えば居場所がないという感じでした。働いていない親父を特に祖母や母はよく思っていなかったのでしょう。祖母が親父に嫌味を言っているのを何度も聞いたことがあります。「頭の黒いネズミがトイレに入っている」なんてことも聞いたことがあります。これはちょっと酷いですね。ですので、お正月に家族全員で食卓を囲むときなど、祖母と親父がケンカを始めないかとヒヤヒヤしたものです。

フラフラしている親父を見て、祖母や母が文句を言うのも理解できますから、私としてはどちらの方をもっていたわけではありませんが、なんとかしてほしいなあとは思っていました。私が小学生になったころでしょうか、親父が新しく仕事を始めました。何の仕事か当時はよくわかりませんでしたが、どこか会社に勤めるのではなく、個人で始めたようです。数年後に知ることになりましたが、個人で印鑑を売る仕事でした(世間を騒がしている、いわゆる霊感商法ではございませんので、ご安心ください(笑))。親父は毎朝早く家を出て、帰るのも遅くなりました。以前のように酔っぱらって帰ってくることもなくなりました。それどころか、寝泊りをその事務所でするようになりましたので、中学生以降は親父と顔を合わせる機会がどんどん減っていきました。その頃に親父とどこかにでかけることはもちろんですが、じっくりと話をした記憶もありません。ですが家には兄弟や祖父母、母がいて毎日にぎやかでしたので、寂しいと思ったことはなく、3兄弟と親父との距離はこの頃はかなり離れてたように思います。

親父にしても、家には居場所がなかったので、生活の拠点を事務所にした方が気楽だったのかもしれません。仕事の方はうまくいっているのかどうか、私たち兄弟は何も知らなかったですし、知ろうともしていなかったように思います。いつの間にか、親父が家にいないことが当たり前になり、嫌いになったとかそういう感情ではありませんでしたが、家族でありながら親父に対して無関心になっていなのは確かでした。

次回に続きます。

ONE-SのHP
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする