ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

翼竜

2009-09-02 11:57:33 | Vision East
 田舎だから仕方がない。
 知らないものは、好きにもキライにもならない。

 よく聞く話です。

 今回、都築房子さんの造形作品展開催を提案いただいたときも、考えたのです。

 どうしても、初めてのイベントは集客に無理があるように考えてしまうのです。 しかし、何時かやらないと、やらないで終わりそうな気がしたのです。

 参加人員目標1000人。期間は2週間だから、1日70人ちょっと。

 これから、宣伝。宣伝。なのです。

 写真は「翼竜」都築房子さんの作品です。

 木造の古い工場と造形作品。生糸が詰まっていた土佐漆喰の蔵に和紙で出来た作品が並ぶ。
 どんなイメージになるか、楽しみです。

 作品と作品の間には、かつて繭から生糸を採っていた機械が並んでいるのです。
 圧倒的な迫力を発散し続ける機械群とアートが融合するのでしょう。

 紙に命を吹き込んだ作者が今度は広くて大きな工場に自分の作品の展示場として、新しい役割を与えるのです。

 多分私たちが普段見ている工場とは違った印象を受けることになるでしょう。
 それも楽しみ。新しい命が生み出されることになります。うれしいことです。

 是非見に来てください。入場無料です。

田舎だからできないものとしてあきらめるより、田舎だから出来るものを探したほうが早いような気がしています。

 

次は・・。

2009-09-02 11:38:55 | 日記
 8月30日の野根山街道散策ツアーも、総選挙も終わりました。

 次は9月13日からの都築房子さんの造形展示会の準備です。

 特に広報を充実させなければなりません。

 なにしろ、田舎のイベントは広報が苦手で、情報発信が大変なんです。

 いくら良い作品が並んでも、「しらなかった」ではどうにもなりませんからね。

 ただ私も写真を見るだけで、本物。実物に向き合ったことがないもので、どの様なものか想像を逞しくして思いをはせております。

 今回の展示会は2週間と長いこともあって、皆さん方にもお暇なときに来ていただければ良いのかなと思っております。

 造形作品展。イメージを膨らませてください。
 そして、ぜひお越しください。
 藤村製糸株式会社で9月13日から2週間です。

郡奉行所開設

2009-09-02 00:14:48 | 昔話
 嘉永6年(1853年)に郡奉行所を開設して管内の政治軍事を行わせたのです。
 ペリーが浦賀沖に現れる等によって、外国からの脅威に対抗しなければならなくなったのです。特に土佐藩は東西に長く、区分をして守備しなければならない必要性から郡奉行を置くことにしたのです。高知県の東部地域では、安芸郡奉行所として現在の田野町岡地に設けられました。守備範囲は安芸郡唐浜から甲浦までの広範囲でした。

 場所の決定には各候補地からの誘致運動があったようですが、いくつかの理由で田野に決まったそうです。
 魚梁瀬森林地域の下流で奈半利川を経て資源の集散地であったこと。
 7人衆といわれる藩と関係のある豪商がいて、地域の経済の中心地であったか
 ら、また地理的に安芸郡の中央に位置している。藩主参勤交代の際の宿泊地となっていた等々の理由が挙げられています。

 また岡地は小高い丘の上にあり、不時の場合でも要害の地であったことも、その理由の一つとされています。
 いまは、その場所には高知県立中芸高校があります。

 奉行には馬廻格の藩士が任命されており、副奉行には藩士または郷士がこれにあたったのです。さらに下役2名。留書役2名、文武相手役2名、郷廻役6名、さらに門番1名。当初は16名程度がその任に当たっていたのです。そして勘定方・蔵方・山方・船方作事方・普請方、さらに目付・横目といった現在の警察官までがいて、管内の村々の仕置きをしていたのです。

 安政元年(1854)になると田野学館が奉行所に併設され、近在の壮士が集ってくるのです。長州でもこの年、吉田松陰が松下村塾を継ぐのですから、人材育成の実際が始まったのです。
 翌年武市半平太が藩命により田野学館に剣術指南として出張し、中岡慎太郎等とここで出会うのです。慎太郎は16~17歳位でしょうか。もちろん清岡道之助や治之助も縁を得るのです。
 
 時代は人物を求めて育成を始めるのです。
 こうした変革を山内容堂・吉田東洋がはじめるのです。
 高知県史の中では、安政改革として位置づけられています。

 これから土佐藩は公武合体から勤皇運動に、さらに明治維新に突き進んでゆくのです。そして多くの人士がその変遷に否応なく飲み込まれてゆくのです。
 安芸郡下でも、海岸周辺の領民に呼びかけて民兵の編成を計るのです。以前の藩だと郷士、地下浪人に期待していたのですが、広く身分を越えて領民に呼びかけたのです。
 外国からの脅威に対抗するために組織された民兵も、本当に外国の近代兵器に対抗できたかというと、「無理」だったのですが、皮肉なことに彼らが実戦として動員されたのは、元治元年(1864)におこった野根山屯集事件なのは皮肉な結果と思えてしまうのです。彼らが23士を野根山に追うことになるのです。

 そして慶応元年(1865)5月土佐勤皇党は壊滅したそうな。
 明治元年が1868年ですから、なんとも言いようがないのです。
 戊辰戦争では、土佐藩は菊の御紋を掲げて戦うことになるのです。