ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

郷士・武平次。

2009-09-06 18:04:00 | 高知県東部人物列伝
 この写真は、北川武平次。確かこの人物の左に中岡慎太郎が写っていた筈なんです。
 慶応2年11月に慎太郎と面談したときに撮影されたものじゃあないのかな。武平次が、慎太郎の父小伝次の訃報を伝えたとされているからです。武平次は慎太郎の姉かつの夫で義兄だったのです。ただこの時点では姉かつは既になく、武平次は再婚をして、長男忠惇、次男信従が生まれています。
 慶応2年春には、薩長同盟が締結されておりますから、倒幕運動真っ盛りの頃の事です。そして慎太郎が近江屋で坂本龍馬と共に惨殺される丁度1年前のことです。

 それはおいといて、「北川武平次」この人も波乱万丈の人生を送っています。しかし概ね満足できる人生だったのではないかと思います。
 彼の家は郷士ではありましたが、豊かでなかったことから、農業に従事し、学問をする時間はなかったそうで、武道をよくして特に居合い術では人後に落ちなかったとされています。

 彼の逸話としては、まだ結婚する前の話からです。

 武平次に結婚の話が古老から出たときのこと、彼は言うのです。「夜に野根山の岩佐の関所まで一人でいける人がいたら、嫁にもろうても良い。」これを聞いて動いたのが慎太郎の姉かつ。彼女は松明の光と線香の匂いを頼りに岩佐まで行ったそうな。こうして彼女は、武平次と結ばれるのですが、あらぬ噂を立てられて、身の潔白を証明するために自殺することになるのです。

 その後の彼は戊辰戦争に従軍をしていたのですが、帰省のおり明治天皇の御前で剣の腕をご披露申し上げたとされていますし、高知に帰った後、警察官吏となっています。
 かの、江藤新平が甲浦で捕縛されたとき、細川是之助に先立って縄をかけたそうな。

 そして、長男忠惇は、高知県議会議員となり、さらに議長となって敏腕を振るったとされています。自由民権運動にも加担して、高知県の東部地域で活躍するのです。
 次男信従も誠に優秀で、明治20年(1887)検事となり、各地で検察官を歴任、さらに長崎市長・新潟県知事を歴任することになるのです。

 北川武平次信通。不器用で上手に世渡りをした訳でもないが、思うままに生きた人だったのです。郷士でも武士(もののふ)だったのです。
もしはないのが歴史なのですが、彼が今の世を見たら、どうでしょうね・・・。
 聴いて見たい人です。
 出来ることを、ちゃんとやってきた人です。そして人生を全うしてきた人です。
 派手さは、ありませんが、あこがれますね。
(1821~1884)