文久3年(1863)9月5日のことだそうです。
中岡慎太郎が脱藩をするのです。
8月18日に京都で政変が起こり、七卿が都落ちをするのです。早いですね。事件が起こって18日しかかかっていないのです。
事前に準備をしていたような、早さです。情報が届くのも、そうですが、臨機応変の行動です。
父には高知へ行くと偽り、妻兼には役儀(庄屋の仕事)のため京都に行くので病気の父上をよろしく頼むといって家を出たのです。
そして野川谷から野根山街道に入り、岩佐関所の番士、川島総次の家で1拍して、翌日甲浦に向かいます。そして間道伝いで阿波に入り、長州の三田尻に到着したのが9月19日とされています。七卿の都落ちから丁度1ヶ月で到着しているのです。
そこには三条実美がいたのですが、脱藩者の旅は苦労の連続であったろうと思います。しかし到着した、その3日後三条公の使いで再度土佐に入国しているのです。そして、一旦捕縛されているのです。もちろん逃げ出すのですが、なんという胆力でしょう。つかまれば間違いなく死罪ですからね。
そして11月25日には三田尻招賢閣議員となっています。
彼の役割は「他藩応接密事係り」情報収集と通信連絡を主としていたようで、彼の元に重要な情報が集り、そして発信をしていたのです。
そうした彼の元に郷里の野根山屯集事件により23士が処罰された情報が入ってくるのです。
彼は土佐の仲間に連絡をします。
「天下挽回再挙なきにあらず、然りながら今しばらく時を見るべし。依って沸騰及び脱藩は甚だ無益なり。涙をかかえて沈黙すべし。外に策なし。」と手紙が残っています。
もちろん戦闘的民族主義者、慎太郎ですから、武力戦闘にも参加しています。長州藩の外様部隊「忠勇隊」で活躍、隊の総督にまでなるのです。
さらに、薩長和解に向けて動き始め、それを龍馬と共に仕上げてしまいます。
慎太郎の志士として評価されるべきは、時勢論はじめいくつかの論文を残していることですし、素晴らしい書簡が残っていることではないでしょうか。
山内容堂による大政奉還、王政復古提案に対し「武力をもって戦う意思がなければ、周旋を中止されるべきだ。」と山本只一郎に書き送っているのです。すでに庄屋ではなく志士として目覚めています。
慎太郎の覚めた目は、その後の戊辰戦争を見据えていたのですし、さらに倒幕という目的に向かって走り始めたとき、私怨をすてて大義に向かうのです。そう23士を処罰した小笠原唯八とも共に活動するのです。
もしとか、かも知れないなどと言っても仕方がないのだけれど、中岡慎太郎は、何で龍馬と共に暗殺されねばならなかったのか、諸説あるのは仕方ないのです。
彼らの存在が佐幕派、討幕派双方にとって煙たい存在であったことについては、妙に納得できるところです。
彼らの活動の目的が明確すぎるからです。自分が権力を握って何をしようなどとは考えていないのですからね。
倒幕が出来た後の権力闘争まで考えていた連中にとって、うっとうしい存在になっていたとしても驚かないところです。
そして誰かに惨殺された事実だけは、確かなのです。
さらに、明治新政府内での主導権争いが、果てしなく続くのです。
慎太郎。享年30。
中岡慎太郎が脱藩をするのです。
8月18日に京都で政変が起こり、七卿が都落ちをするのです。早いですね。事件が起こって18日しかかかっていないのです。
事前に準備をしていたような、早さです。情報が届くのも、そうですが、臨機応変の行動です。
父には高知へ行くと偽り、妻兼には役儀(庄屋の仕事)のため京都に行くので病気の父上をよろしく頼むといって家を出たのです。
そして野川谷から野根山街道に入り、岩佐関所の番士、川島総次の家で1拍して、翌日甲浦に向かいます。そして間道伝いで阿波に入り、長州の三田尻に到着したのが9月19日とされています。七卿の都落ちから丁度1ヶ月で到着しているのです。
そこには三条実美がいたのですが、脱藩者の旅は苦労の連続であったろうと思います。しかし到着した、その3日後三条公の使いで再度土佐に入国しているのです。そして、一旦捕縛されているのです。もちろん逃げ出すのですが、なんという胆力でしょう。つかまれば間違いなく死罪ですからね。
そして11月25日には三田尻招賢閣議員となっています。
彼の役割は「他藩応接密事係り」情報収集と通信連絡を主としていたようで、彼の元に重要な情報が集り、そして発信をしていたのです。
そうした彼の元に郷里の野根山屯集事件により23士が処罰された情報が入ってくるのです。
彼は土佐の仲間に連絡をします。
「天下挽回再挙なきにあらず、然りながら今しばらく時を見るべし。依って沸騰及び脱藩は甚だ無益なり。涙をかかえて沈黙すべし。外に策なし。」と手紙が残っています。
もちろん戦闘的民族主義者、慎太郎ですから、武力戦闘にも参加しています。長州藩の外様部隊「忠勇隊」で活躍、隊の総督にまでなるのです。
さらに、薩長和解に向けて動き始め、それを龍馬と共に仕上げてしまいます。
慎太郎の志士として評価されるべきは、時勢論はじめいくつかの論文を残していることですし、素晴らしい書簡が残っていることではないでしょうか。
山内容堂による大政奉還、王政復古提案に対し「武力をもって戦う意思がなければ、周旋を中止されるべきだ。」と山本只一郎に書き送っているのです。すでに庄屋ではなく志士として目覚めています。
慎太郎の覚めた目は、その後の戊辰戦争を見据えていたのですし、さらに倒幕という目的に向かって走り始めたとき、私怨をすてて大義に向かうのです。そう23士を処罰した小笠原唯八とも共に活動するのです。
もしとか、かも知れないなどと言っても仕方がないのだけれど、中岡慎太郎は、何で龍馬と共に暗殺されねばならなかったのか、諸説あるのは仕方ないのです。
彼らの存在が佐幕派、討幕派双方にとって煙たい存在であったことについては、妙に納得できるところです。
彼らの活動の目的が明確すぎるからです。自分が権力を握って何をしようなどとは考えていないのですからね。
倒幕が出来た後の権力闘争まで考えていた連中にとって、うっとうしい存在になっていたとしても驚かないところです。
そして誰かに惨殺された事実だけは、確かなのです。
さらに、明治新政府内での主導権争いが、果てしなく続くのです。
慎太郎。享年30。