ただ今。東京から帰ってきました。
ずっと長野隆さんの伊東静雄論を読みながらの道中でした。
東京の、人はやたら多いが、どこか喪の儀式のように粛々と運ばれていくような風景と、伊東静雄の自己完結的な詩情が重なり、不思議な感覚を覚えていました。
伊東静雄は抒情詩の代表詩人と思われており、僕も偏愛する詩人の一人ですが、ひょっとしたら抒情の死を鏡で反射したような、「反抒情詩」ではないかと直感するところがあります。なかなかうまく言えませんけど…、先入観を捨てて、研究してみる価値はありそうです。
天候のせいもあったでしょうが、東京はどこかかなしげでした。
それに比べて大阪へ帰ってくると、アジアの唸りのようなどよめきがありました。明日からまたそのどよめきのなかで、自分もまた少しはどよめいてしまうのです。しかし、東京の中でなければ、まぎれない自分の哀しさというものも、あるようです。
ずっと長野隆さんの伊東静雄論を読みながらの道中でした。
東京の、人はやたら多いが、どこか喪の儀式のように粛々と運ばれていくような風景と、伊東静雄の自己完結的な詩情が重なり、不思議な感覚を覚えていました。
伊東静雄は抒情詩の代表詩人と思われており、僕も偏愛する詩人の一人ですが、ひょっとしたら抒情の死を鏡で反射したような、「反抒情詩」ではないかと直感するところがあります。なかなかうまく言えませんけど…、先入観を捨てて、研究してみる価値はありそうです。
天候のせいもあったでしょうが、東京はどこかかなしげでした。
それに比べて大阪へ帰ってくると、アジアの唸りのようなどよめきがありました。明日からまたそのどよめきのなかで、自分もまた少しはどよめいてしまうのです。しかし、東京の中でなければ、まぎれない自分の哀しさというものも、あるようです。