この頃、「自己嫌悪に陥らないな~」と、
ふと気づきました。
私は、極度に自意識過剰な所があり、
生きて行くのが、辛くて苦しかったです。
誰か他人の声にも、とても敏感でしたが、
自分自身が一番怖かったです。
なぜなら、自己嫌悪になると自虐行為や、自傷行為をするからです。
誰が許してくれても、私自身が自分を許せないんです。
一番酷い時には、(20代でしょうか)
「私なんか死んでしまえば良いのに!」と怒っていました。
決して、自分を愛したり許したり出来ませんでした。
ですから、クリスチャンになってからも、
イエスさまには感謝していましたが、どこかずれた信仰でした。
神さまが許して愛して下さっているのに、
自分が自分を許せず、嫌っていたのですから。
それが、いつの頃からか?イエスさまの完全な愛を受け入れて、
こんな私でも、どんな私でも、許されているって事が、
理屈ではなく、身に染み込んで来たようです。
毎週毎週礼拝で語られる十字架の愛を、全身で受け止めて、
リラックスして、素の自分を生きている気がします。
素直な自分を生きているので、自分に苛立ったり、
自分を傷つけたり、必要以上に嫌悪する事がなくなったようですね。
これが、イエスさまによって自分自身と和解したと言う事でしょう。
以前は、失敗した時には腹立たしくて、
なかなか許す事が出来ませんでしたが、
この頃は数日以内には、神さまにお祈りして再出発出来るようになったみたいです。
生きる事自体が苦しくて、「生き苦しい性格」だったのに、
気がつけば、イエスさまの愛に浸されていたようで、
最近では、リラックスして生活しています。
自分との和解ってこんなに幸せなものかと本当に感謝しています。
この十字架の愛で、周りの誰かを愛せたら良いな~
ふと気づきました。
私は、極度に自意識過剰な所があり、
生きて行くのが、辛くて苦しかったです。
誰か他人の声にも、とても敏感でしたが、
自分自身が一番怖かったです。
なぜなら、自己嫌悪になると自虐行為や、自傷行為をするからです。
誰が許してくれても、私自身が自分を許せないんです。
一番酷い時には、(20代でしょうか)
「私なんか死んでしまえば良いのに!」と怒っていました。
決して、自分を愛したり許したり出来ませんでした。
ですから、クリスチャンになってからも、
イエスさまには感謝していましたが、どこかずれた信仰でした。
神さまが許して愛して下さっているのに、
自分が自分を許せず、嫌っていたのですから。
それが、いつの頃からか?イエスさまの完全な愛を受け入れて、
こんな私でも、どんな私でも、許されているって事が、
理屈ではなく、身に染み込んで来たようです。
毎週毎週礼拝で語られる十字架の愛を、全身で受け止めて、
リラックスして、素の自分を生きている気がします。
素直な自分を生きているので、自分に苛立ったり、
自分を傷つけたり、必要以上に嫌悪する事がなくなったようですね。
これが、イエスさまによって自分自身と和解したと言う事でしょう。
以前は、失敗した時には腹立たしくて、
なかなか許す事が出来ませんでしたが、
この頃は数日以内には、神さまにお祈りして再出発出来るようになったみたいです。
生きる事自体が苦しくて、「生き苦しい性格」だったのに、
気がつけば、イエスさまの愛に浸されていたようで、
最近では、リラックスして生活しています。
自分との和解ってこんなに幸せなものかと本当に感謝しています。
この十字架の愛で、周りの誰かを愛せたら良いな~
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