1951年、米国で最初の歴史的な原子力発電がなされました。
すでに50余年というべきか、まだ50年というべきかは別にして
誰の目にも明らかなことは、当初の期待に反して順調とはとても言い難い状況になったことです。
当初の期待が最大限に実現していれば
エネルギー供給の将来の見通しにさしたる議論もないままだったこと
そして太陽光や風力などの再生可能エネルギーなどは
補助的な活用を負わせる立場に並べられていたに相違ないのです。
同時に、我々の世代は未来の子孫達に、優れた原子力技術と
エネルギーに対する余裕感を残せたはずでした。
しかし、今、なによりも安全性の確保、以前から未解決の放射性廃棄物の処理
そして経済的にも成立する他電源の確保などの課題が山積しています。
最近では、原子力への国の補助金についても、今まで期待が大きかった反動もあって
育英のための奨学金を貰っていたと思っていたら十分に働きもしないうちに
もう介護保険がいるのか、と酷評されたりもしています。
エネルギーについて考える時
原子力は避ける事が出来ない重要なテーマだったはずですが
最近のエネルギーや環境を扱う評論や書籍における原子力の扱いは極めて軽く
否、悪の代名詞にさえなってしまいました。
このまま推移すれば、せいぜい60年で寿命が尽きる
ウランの利用は電気だけ、ということになるのかもしれません。
しかし一方では、これほど魅力的な電源がないことも事実です。
当面、CO2を排出しない利点が強調されていますが
一番の魅力はその永続性にあります。
現在の消費量が続くとして、確かにウランを今の軽水炉で使えば
可採年数60年の埋蔵量であって石油や天然ガスと変わらないのですが
海水中に微量に含まれるウランを回収すれば
1000000年(100万年)はもつとされています。
例えそうしなくても、ご承知のように高速増殖炉を使えば1万年
また核融合が出来れば5000万年以上(海水中のリチウムを使うとして)と
人類は永久にエネルギー問題から開放されるのです。
つまりは本来、長期的に人類の未来を託すべきエネルギーであって
石油代替やCO2対策といった立場、文脈で出てくるべきものではなかったはずですが…。