保護猫活動する隠居爺の野菜作りとスキーの日記そして病気の記録

冬場の60日以上はスキー、夏場はそのための体力作り&自給用野菜作り、そして保護猫活動と病気の記録も綴ります。

日本に住む外国人への「人道的配慮」の弊害?

2011年09月14日 | 世の中のあんなコト、こんな事

今の日本には、私の周辺を含めて
開発途上国からの外国人が家族をかまえてかなり多く暮らしています。

先進国からの外国人に対しては聞いたことがないのですが
開発途上国からの外国人が不法滞在などの罪を犯し強制送還になる際に
残される家族との関係を壊さないようにと、国が特別な“人道的配慮”により
個別に法律を緩和などする話題をニュースでたまに目にします。

逆に法律を曲げずに家族が離ればなれになったりすると
その程度はみんな人道的な対処でよいのでは、などと気の毒に思ったりしますが
こうした個人的とも言える話がなぜマスコミに取り上げられるのでしょうか。

なんとなくですがそのワケは、これは極めて特別な例外的な対処であって
決して誰にでも認められる話ではないとのメッセージを
“他の同胞”に伝える役目をマスコミが担っているためかもしれません。

もっとも、ニュースなどの難しい単語で伝えられても
現実の姿がどの程度思い描けるかは疑問であることは確かですが。

私が普段おつきあいする彼らの情報源は
ごく一部を除けば「読む」はかなり少数で、ほとんどは「聞く」ことに頼っていて
それも、同胞などがもたらす活きた情報
つまりは仲間が経験した現実の話が圧倒的に多いように見えます。

そんななかで、例えば人道的配慮により強制送還にならずに済んだとして
この話が仲間うちに伝わる場合、個々の事情や特別な配慮まで詳しく話されることなく
「帰国させられず大丈夫だったよ」という結果だけが伝わるとすれば
ちょっと頑張れば誰にでそうした配慮をしてくれるものだと誤解されることになるはずで
悪く言えば、甘く見られてしまうことになると思うのです。

一方で、単一民族とされる日本人は
以前から「外交下手」と言われるように、口に出して主張することが苦手な国民性があり
また、かつて侵略した歴史があるアジア人には別として
明治以降の欧米崇拝や大戦の敗戦からくるコンプレックスも側面にあったり
はたまた、何を考えているか分からないという漠然とした恐れを持っているのでしょうか
もちろん、言葉の壁もあるのでしょうが、世間が彼らと対等に渡り合っているとは思えない
つまり、不道理さえ押し切られてしまうフシも時として感じられてなりません。

こうした法律上の是非は絡まないけれど面倒な許可申請に関して
「家族が生活できなくなってしまうとゴネて許可になった仲間がいるから大丈夫」と
タカをくくっている話も最近、身近で耳にしました。

それでなくても、彼らは日常的に「大丈夫」という日本語をよく使いますが
こうしたことが原因で、日本の決まり事やルール、そして秩序が
甘く見られていなければよいがと内心、心配することさえあるこの頃です。

 



 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする