保護猫活動する隠居爺の野菜作りとスキーの日記そして病気の記録

冬場の60日以上はスキー、夏場はそのための体力作り&自給用野菜作り、そして保護猫活動と病気の記録も綴ります。

独断(もしかしたら偏見も)で思い付いた“うつ病にしたがる”理由

2012年07月08日 | (雑学Ⅲ)高齢者の自殺を考える

国立研究所にしろNHKの番組にしろ、(多分)学問的に考えると
高齢者の自殺の主たる原因は「うつ病」になってしまうようです。

では学問的に、普通に心に死を自覚した人は一体どのように自分の死の事実と向き合い
どのようにその事実を拒否したり受け入れたりするのでしょうか?

こうした研究は近年になってようやく真摯に行われるようになってきたと言われ
かつては、「死を理解する者はまれだ。多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。
人は死なざるを得ないから死ぬわけだ」などと考えられていたようです。

しかし、女性精神科医による一つの画期的な研究がごく最近発表されました。

 実際に多数の「死に行く人」と言葉を交わし心理治療に従事した経験のある彼女が
多くの人が辿る「死の受容への過程」を次のような段階的モデルで示したものです。
(ただし特に高齢者とは限定されていません)

 

第一段階:「否認と孤立」
(自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階)

病などの理由で、自分の余命があと半年であるとか3カ月であるなどと知り
それが事実であることは分かっているが、あえて死の運命の事実を拒否し否定する段階。

それは冗談でしょとか、何かの間違いだという風に反論し、死の事実を否定するが
否定しきれない事実であることが分かっているがゆえに、事実を拒否し否定し
事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。

第二段階:「怒り」
(なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階)

拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき
「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかける。

このとき、当然、そのような形而上学的な根拠は見つからない。

それゆえ、誰々のような社会の役に立たない人が死ぬのは納得できる
しかし、なぜ自分が死なねばならないのか、その問いの答えの不在に対し、怒りを感じ表明する。

第三段階:「取り引き」
(なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階)

しかし、死の事実性・既定性は拒否もできないし、根拠を尋ねて答えがないことに対し怒っても
結局、「死に行く定め」は変化させることができない。
死の宿命はどうしようもない、と認識するが、なお何かの救いがないかと模索する。

この時、自分は強欲であったから、財産を慈善事業に寄付するので死を解除して欲しいとか
長年会っていない娘がいる、彼女に会えたなら死ねるなど
条件を付けて死を回避する可能性を探ったり、死の受容を考え、取引を試みる。

第四段階:「憂慮」「抑鬱」
(なにもできなくなる段階)

条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると
どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。

何の希望もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えない。

このようにして深い「憂鬱」と「抑鬱」状態に落ち込む。

第五段階:「受容」
(最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階)

抑鬱のなかで、死の事実を反芻している時、死は「無」であり「暗黒の虚無」だという今までの考えは
もしかして違っているのかもしれないという考えに出会うことがある。

あるいはそのような明確な考えでなくとも、死を恐怖し、拒否し、回避しようと必死であったが
しかし、死は何か別のことかも知れないという心境が訪れる。

人によって表現は異なるが、死んで行くことは自然なことなのだという認識に達するとき
心にある種の平安が訪れ「死の受容」へと至る。

*ただしこの「死へのプロセス」は
彼女が多数の「死に行く人」の事例を観察して得たひとつの範型であって
人が全員、上のような段階を経て死の受容に至るわけではなく
色々な自己の死との向かい合いがあることを認めています。

 

この研究の結果を前提にすれば普通の人が周りから死を宣告された場合
第四段階で必ず「憂欝」、つまり「うつ状態」に陥ることになります。

そして死を受容して死の訪れを待つ場合は単なる「うつ状態」とされ
一方、それを待たずに自ら命を絶つ場合は「うつ病」だと言われてしまうのです。

また、経済的・身体的苦痛から逃れるためにむしろ積極的に死を選ぶ自殺の場合は
「どうせいつかは死ぬのだから」などとそもそも受容から死を意識するのですから
これは当然、「うつ病」とされてしまうのでしょう。

いったいぜんたい「うつ状態」と、病気としての「うつ病」とはどこがどう違うのでしょうか?

こうした“死に方の違い”で単に分類されてはいないのでしょうか?

「うつ病に罹患するとすべてのことに対して悲観的なとらえ方をするようになり
自殺志向が強まると考えられます。このため高齢者の自殺の予防には
うつを予防するという観点が重要となってきます」と国の研究所は言います。

本人であろうが周囲の者であろうが、プロセスの途中で陥る「普通のうつ」と
自殺へと導く「病気のうつ」の違いが分からなければ
“うつの予防”などと言われても、一般人レベルではとてもできないことに思えるのです。

にも拘らず、さらに国の研究所はこうも言います。

「高齢者のうつ病は自殺の危険性が高いにもかかわらず
本人が医療機関にかかることをいやがることが多く、また周囲が『年のせい』と取り合わなかったり
認知症と混同したりして適切な治療が受けられないケースがしばしばあるのも問題です」

「問題だ」と言われても、普通のうつ状態と病気のうつ病の違いが分からないのですから
「本人も周りの人も気付き難い病気」は当たり前のことです。

では、それなのになぜ自殺した高齢者が「うつ病」だったと言い切れるのでしょう!?

もしかしたら、生き延びた人はうつ状態、自殺した人はうつ病などと
死んだ後で決めつけているのでは…。

万が一そうだとしたら、これはもう予防など所詮、不可能な話になってしまいます。

そこで私なりに、「なぜこうも予防を名目にうつ病に“したがる”のか」という風に
ちょっと見方を変えてみたら一つの結論に辿りつきました。

 生命保険において、あまり明らかにされてはいませんが
契約から1~3年の免責期間が経過してからの自殺は原則として保険金が下ります。
(全ては加入している保険の約款に寄ります)

ある大手生命保険会社でも、過去10年で自殺に対する死亡保険金支払額が1.5倍以上に急増
総支払額に占める自殺による保険金支払額の割合も10%を超えたという報告があるくらいです。

これは、人は自殺をもって高額な保険金入手を目論んで保険に加入しても
その意志を1~3年間は持続できないからだそうです。
(ただし、保険金目当てが立証されるとダメです)

つまり、投薬治療などは完治に長い期間が必要なのですから
とにもかくにも「うつ病」にして治療を受けさせ
「死にたい気持ち」が減退するのを待つ効果を狙っているのではないか、ということです。

もちろん全くの思い付きなのですが
こう考えると私には、“なんでもかんでもうつ病にする”意味が理解できるのです。

だとしたら、可能・不可能は別にして、うつ病がれっきとした病であってすでに治療法が確立され
充分に完治が可能とされているとは言え、一般的にはよく理解されていないことも事実なのですから
「そんな所に行くのは恥ずかしい」「そんな惨めな思いをするのなら死んだ方がマシだ」などと
思われていると聞く“精神科”ではなく、もっと拒否反応が少ない“脳神経外科”などの扱いにしたら
今よりもっともっと多くの自殺希望者が診断を受け、結果、ゆっくりと時間をかけて考えることになり
そのうちの多くの人が自殺を思い止まることになると思うのです。

ちなみに、うつ病の症状は基本的に次の4つの症状群に分けられています。
①うつ気分
②生命活力の減退による意欲・行動の障害
③悲観的な思考障害
④種々の身体症状
⑤日内変動、季節変動

これに事前に当てはめて「私はうつ病ではない」前提でこの話題をスタートさせましたが
④以外はどれも心に関するもので抽象的ですから、本人と言えども断言できるわけではありません。

これでもし、万が一、何かの間違いにしろ、私が自らの命を絶ったとしたら
または自殺する原因を誰も思い当たらないはずではあっても自殺に見せかけて誰かに殺されたとしたら
この記事を書いたこと自体で「うつ病に罹患していたに違いない」と見なされて
“65歳を間近に控えた高齢者がうつ病が原因で自殺した”ことにされてしまうのでしょう。

もっともそうして「心の病であるうつ病」にしていただいた方が
私の加入している少しばかりの保険金は何の問題もなく下りてくるのですから
“結果オーライ”というものです。

保険と言えばもう一つ、健康保険においても
自殺する前にうつ病の治療を“受けておいた方が良い”理由が思い当たりますので
改めて後日、取り上げることにします。

 

コメント
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