録画した番組の再生
さっき見たのが「激レアさんを連れてきた」(7月13日放送分)
高校に入ったら全校生徒478人中男子が自分一人だった~ 編
一見天国のようでも有るが実は地獄。でもよく考えたらやっぱり天国だった~ ってな感じ
そういう高校卒業したばかりの19歳の激レアさん
女子の世界での中での疎外感からスタートして男として少しずつ自信をつけてゆく物語
実は僕もちょっと心当たりがある
この彼は19歳でもうそういう心境に至ったのだが、僕はそんな年からゆっくりスタートした
弟を病気で亡くして、浪人中だった僕は夏休みが終わったところで人生の方向転換をした
それは家業である木工業を継ぐ ということ
親は「男兄弟を亡くしたからと言ってお前は自由にすればいい」と言ってくれたが
もう僕はここに居ようと思った
最近気づいたのだが多分僕の子供時代は恵まれていて、自分の居場所を確立していたんだと思う
他の木工所に修行に行ってもいいとは思ったのだが、親は「とりあえずここでやってみろ」と言った
すぐに車の免許を取りに行くことになり、昼間一日中仕事することもなく
少しずつ仕事を始めて体を慣れさせてもらったように思う
その辺も今考えると贅沢なことなのだろう
18歳10か月弱で免許を取得
そして19歳になってまた一つ贅沢なことをお願いすることになる
その直前から夜になると週に一回くらいだが青年の家というところに行くようになった
僕らの仕事は普通なら一日中仕事場にいてそれはつまり自宅という事で外に出る機会は自分で作らないと出来ない
元来は人づきあいは得意ではないのだが、そうも言っておられん状況だったのでまずそこに行くことに決めた
それから一つ思い切ったのが「茶道教室」である
家ではおばあさんが元気なころから普通に抹茶を飲んだりしていたのでそれを正式に習ってみたいと思ったこと・・そとに出る時間を作ること・・そしてそこには主に女性がいるだろうから・・
不埒な気持ちはなかったのだが、女の人と接することも絶対に必要だと思ったことも隠さないでおこうと思う
行ったところは栄にある中日文化センター
先生は男性2人 女性1人だったが生徒さんは僕以外に男性一人 女性10~15人くらい
勿論ほとんどがおねえさんとおば様 ここにいる人たちは「おばさん」とは呼び難い雰囲気があった
僕は翻弄され続けたが、特に何事もなく、無事にその時期を終えた
終えたのは多分25歳くらい
初めての彼女はお茶会で知り合った一つ年上の高校の先輩でした
それからバンド活動が始まり(仕事は昼間は真面目に続きました)
サークルの中で自然にリーダーになったりで、今度は年下の女の子たちにずいぶんいい時間を持たせてもらいました
昼休みにメンバーの子の女子高の公衆電話から電話がかかって来て、向こうからキャーキャー聞こえてきた時はちょっとばかり思い違いをしそうになったものです
その活動の中で、サークル会員募集の新聞記事を見て年配のおばさんから
「もう60にもなるんですがギターを覚えたいのですが教えていただけますか?」
これは会員になりたいというより個人レッスン希望の連絡でした
そういう募集ではなかったのですがその気持ちがあるなら力になってみたいと思って、その人の居られる場所に赴きました
行ってみると寮みたいなところで若い女の子が対応してくれました
「先生、お客様です」と その人は舎監さんと呼ばれる寮母さんでそこは大きな病院の看護学校の寮でした
2・3か月その舎監さんに教えたところで「ね、かっつんさん 私より子供たちにギターを教えてやってくれませんか?」
僕はちょっとしたテストを受けたのかもしれません
この人なら学生たちに直接接しても大丈夫 と思われたのだと
そういう真面目人間でしたから(笑)
で、それから10年 全寮制のシステムが変わるまで
18歳から20歳くらいの女の子1年2年毎年10名くらいギター教室をやりながら
バンド演奏のお手伝いをしたわけです
中には少し個人的にお茶を飲んだりした子もいたし、卒業してからお礼にとご飯奢ってくれた子もいたし、大変だったけど、恵まれていたと言えるでしょう
今日の激レアさんにどこか共鳴するところがありました
そうそう、みちのく一人旅ではこんな楽しいことも有ったわ 申し訳ない(笑)
https://blog.goo.ne.jp/popg888/e/e100c8a29d4bda6ab6783446846998c7
子供時代だけじゃなくて青年時代も恵まれてたのかもしれません。
さっき見たのが「激レアさんを連れてきた」(7月13日放送分)
高校に入ったら全校生徒478人中男子が自分一人だった~ 編
一見天国のようでも有るが実は地獄。でもよく考えたらやっぱり天国だった~ ってな感じ
そういう高校卒業したばかりの19歳の激レアさん
女子の世界での中での疎外感からスタートして男として少しずつ自信をつけてゆく物語
実は僕もちょっと心当たりがある
この彼は19歳でもうそういう心境に至ったのだが、僕はそんな年からゆっくりスタートした
弟を病気で亡くして、浪人中だった僕は夏休みが終わったところで人生の方向転換をした
それは家業である木工業を継ぐ ということ
親は「男兄弟を亡くしたからと言ってお前は自由にすればいい」と言ってくれたが
もう僕はここに居ようと思った
最近気づいたのだが多分僕の子供時代は恵まれていて、自分の居場所を確立していたんだと思う
他の木工所に修行に行ってもいいとは思ったのだが、親は「とりあえずここでやってみろ」と言った
すぐに車の免許を取りに行くことになり、昼間一日中仕事することもなく
少しずつ仕事を始めて体を慣れさせてもらったように思う
その辺も今考えると贅沢なことなのだろう
18歳10か月弱で免許を取得
そして19歳になってまた一つ贅沢なことをお願いすることになる
その直前から夜になると週に一回くらいだが青年の家というところに行くようになった
僕らの仕事は普通なら一日中仕事場にいてそれはつまり自宅という事で外に出る機会は自分で作らないと出来ない
元来は人づきあいは得意ではないのだが、そうも言っておられん状況だったのでまずそこに行くことに決めた
それから一つ思い切ったのが「茶道教室」である
家ではおばあさんが元気なころから普通に抹茶を飲んだりしていたのでそれを正式に習ってみたいと思ったこと・・そとに出る時間を作ること・・そしてそこには主に女性がいるだろうから・・
不埒な気持ちはなかったのだが、女の人と接することも絶対に必要だと思ったことも隠さないでおこうと思う
行ったところは栄にある中日文化センター
先生は男性2人 女性1人だったが生徒さんは僕以外に男性一人 女性10~15人くらい
勿論ほとんどがおねえさんとおば様 ここにいる人たちは「おばさん」とは呼び難い雰囲気があった
僕は翻弄され続けたが、特に何事もなく、無事にその時期を終えた
終えたのは多分25歳くらい
初めての彼女はお茶会で知り合った一つ年上の高校の先輩でした
それからバンド活動が始まり(仕事は昼間は真面目に続きました)
サークルの中で自然にリーダーになったりで、今度は年下の女の子たちにずいぶんいい時間を持たせてもらいました
昼休みにメンバーの子の女子高の公衆電話から電話がかかって来て、向こうからキャーキャー聞こえてきた時はちょっとばかり思い違いをしそうになったものです
その活動の中で、サークル会員募集の新聞記事を見て年配のおばさんから
「もう60にもなるんですがギターを覚えたいのですが教えていただけますか?」
これは会員になりたいというより個人レッスン希望の連絡でした
そういう募集ではなかったのですがその気持ちがあるなら力になってみたいと思って、その人の居られる場所に赴きました
行ってみると寮みたいなところで若い女の子が対応してくれました
「先生、お客様です」と その人は舎監さんと呼ばれる寮母さんでそこは大きな病院の看護学校の寮でした
2・3か月その舎監さんに教えたところで「ね、かっつんさん 私より子供たちにギターを教えてやってくれませんか?」
僕はちょっとしたテストを受けたのかもしれません
この人なら学生たちに直接接しても大丈夫 と思われたのだと
そういう真面目人間でしたから(笑)
で、それから10年 全寮制のシステムが変わるまで
18歳から20歳くらいの女の子1年2年毎年10名くらいギター教室をやりながら
バンド演奏のお手伝いをしたわけです
中には少し個人的にお茶を飲んだりした子もいたし、卒業してからお礼にとご飯奢ってくれた子もいたし、大変だったけど、恵まれていたと言えるでしょう
今日の激レアさんにどこか共鳴するところがありました
そうそう、みちのく一人旅ではこんな楽しいことも有ったわ 申し訳ない(笑)
https://blog.goo.ne.jp/popg888/e/e100c8a29d4bda6ab6783446846998c7
子供時代だけじゃなくて青年時代も恵まれてたのかもしれません。