いつものように朝食を終え母の部屋の仏壇の水を替えて見舞いに行こうかとしてる時にスマホが鳴った。
病院名を連呼してる。
やばいかもと思った。お母さんのお身体の変化が大きくなってきました。
ご家族とご一緒に来てくださいますか?
熱があり、手足は冷たくなって血圧が80を切ってきています。
すぐに亡くなるとかそういうことは言われませんでしたがかなり危険な状態には違いないようです。娘に声をかけ、息子に電話してすぐに病院へ行ってほしい旨を伝えました。
行こうと思ってたとこへの電話。また僕に気を遣ってこの時間まで待ってくれてたのかと思いながら病棟の受付に。
担当の看護師さんがちょっと緊張した顔つきで僕らを迎えてくれます。
息子夫婦もやってきました。
息が荒い、意識はない?ちょっとだけ苦しそうにも見えた。
廊下に出て看護師さんは母の状況を説明してくれます。
もう長い時間はないかもしれません.。
でもすぐにではないかもしれない。
普段は家族の付き添いは認めてませんが今夜から暫く1日か2日かあるいは一週間かわかりませんがベッドの隣に布団の用意をしますから泊まってください。強制はしませんがそうされたほうが悔いがないと思います。と。
昼過ぎまで娘と息子夫婦の4人で母の思い出話から自分たちの子供の頃の話を笑いながら話してた。きっと母は聞いてくれてたはず。それを僕は意識しながら楽しい話を繰り返した。母の息は荒い。荒いが苦しんでるようには見えなかった。いつまで続くかわからないので 息子達には仕事に戻るように言った。1時15分頃看護師さんが見えてお食事をして来てください。但し30分。と言われたので娘と部屋を出て1時40分頃に戻った。
母の息遣いが穏やかになってる。
もう息をしてるのかどうかわからないくらい。ただ喉の皮膚がピクリを動くので息があるのはわかった。
でも2時を過ぎた時にその喉の動きが止まった。
娘と顔を見合わせてナースコール。
僕や娘と一緒になって看護師さんは涙を浮かべながらその確認をしてくれた。2時3分くらい。僕と娘に見守られて穏やかに永い眠りに落ちました。
こんなに仏様みたいな優しい人はいませんでした。と。
たった二週間でしたが担当の看護師さんは一生懸命に尽くしてくれて送ってくださいました。
5月の外科病院から老健、グループホームそしてこの緩和病棟の担当者の皆さんは全部全部優しくしてくれて感謝しかありません。
付き添いの大変さを知ってる母は、付き添いなんかせんでいいよ
多分そう思ったに違いありません。
子バカと思われてもしかたあるまい。でもきっとそうです。葬祭場も半分決めていたホールではなく、同じ系列の一般ホールに否応なく決まった。
決めていたホールは最近リニューアルして高級路線に変更。それでも9日は無理だから10日と一度決めました。ところがいつもお世話になっている僧侶に連絡すると10日は県内の遠方の法事が決まってて難しいとのこと。9日なら問題なし。そう僧侶が葬儀社に連絡を取ったらホールの方でもどっちみち10日は無理だとなりました。
あっちはリニューアルしたので5割増の料金らしいからちょうどいいじゃない?と言われました。
これも多分母が決めたことでしょう。
お金がないから貧乏だからこんないい扱いをしてもらわなくていい 看護師さんがいつも言われてましたよ。
母はお金をとても大事にする人でした。
でもいつも上手な使い方をして僕も幸せな子供時代青春時代を送らせてもらったんです。
改めて感謝いっぱい。
みなさんずっと読んでくださってありがとうございました。
遺影はこれにしようかと思ってます。
昭和6年11月17日ー令和6年11月7日
母と二人だけの控え室にて。