〔今日はお仕事〕
久しぶりにカメラの仕事が入っていたんで、
昨夜から緊迫してたけど、
どうにか、撮影も販売もやってきた。
販売率、よかったよ。
緊迫といえば、
こう毎日忙しくてしかたないと思っても、
例年より仕事まったくしてないんで、
生活も緊迫しているんだから、
仕事ができるだけ、ありがたいと思え。
朝、出勤間際、
今日はケアの仲良しさんと、
ネットで囲碁をする約束だからって、
父にPSつないであげて出たんだけど、
帰ったら、
まだ待っていた。
朝と同じ状況で、
相手がゲームをしかけてくるのを待っていた父。
〔話を聞かない人〕
例えば、
相手も都合ってもんがあるんだから、
五時くらいにゲームしようとしたならば、
朝からPSの前で待ってるのは馬鹿げた話でしょ?
相手がはじめられる時間になったら、
携帯を鳴らしてもらうなり、
なにかしらの「合図」を決めておきなよって、
アドバイスしたのに、
聞かない。
誰かアクセスしてきても、
「これ誰?」って、私も判らないよ………。
そんで、朝からずーっと待っていて、
イライラしている父に、
私もイラッときて、
「だから~、いつくるか判らないものをそうやって
ずっと待ってるの?」
って、言ったら、
「PS開いてれば来るって言った」と。
「だからそれは何時の話よ」
「知るもんか」
はあああ………。
じゃあ、ずっと待ってれば、と投げた。
すると、父は、
「もういい。判らない」
とPSを閉じ、テレビをつけて、
「これ、前にやってたテレビだ。同じことばかり」
と、これも遮断。
「寝る」
「寝ろ」
ってか、ひとの話聞けよ。
こっちも疲れるわ。
孫たちがずっとついていてくれているのに、
昼も食べず、
損なひとだ。
まあ、イライラするのは判るけど。
ひとの少しは私の話も聞いてくれたらな…。
〔終ろうとしている命〕
肺炎になって入院している、御歳95歳の親戚の方が、
今まさに生死の間を漂っているのだそうだ。
快復の見込みもないし、
呼吸不全になっても、
呼吸器はつけず、
そのまま自然に逝かせてあげる、と決ってるみたいだけど。
遺伝子に組み込まれた、
このひとの命はここで終わり、という情報を無理に変えて、
延命処置をするのは苦痛を長びかせるだけの行為だと、聞いた。
ALSは、
決められた「死の病」なのかな、と悩ましい。
生きたいと望めば、色んな管をつないでも生きられる。
自然死だと受け止めるなら、
無理に生かすのは、どうなんだろう。
倫理的にも、ものすごく重い病。
ひとの気持ちは状況によって変わるものだから、
例え生きたいと願って呼吸器をつけても、
生きるのがとても辛くて、
やっぱり死んでしまいたい、と考えが変わったとき、
それに臨機応変に対応できないというのは酷だと思う。
一度「生きたい」と言ったから、
どんな苦痛に襲われようと生きなくてはならない、
なんて、他人が決めていいものだろうか。
あらゆる苦痛を取り除き、
静かに、望むままに、
逝きたいたいと願ったときに逝かせてあげる。
私は、
父にそういう生の終わり方をさせてあげたい。
久しぶりにカメラの仕事が入っていたんで、
昨夜から緊迫してたけど、
どうにか、撮影も販売もやってきた。
販売率、よかったよ。
緊迫といえば、
こう毎日忙しくてしかたないと思っても、
例年より仕事まったくしてないんで、
生活も緊迫しているんだから、
仕事ができるだけ、ありがたいと思え。
朝、出勤間際、
今日はケアの仲良しさんと、
ネットで囲碁をする約束だからって、
父にPSつないであげて出たんだけど、
帰ったら、
まだ待っていた。
朝と同じ状況で、
相手がゲームをしかけてくるのを待っていた父。
〔話を聞かない人〕
例えば、
相手も都合ってもんがあるんだから、
五時くらいにゲームしようとしたならば、
朝からPSの前で待ってるのは馬鹿げた話でしょ?
相手がはじめられる時間になったら、
携帯を鳴らしてもらうなり、
なにかしらの「合図」を決めておきなよって、
アドバイスしたのに、
聞かない。
誰かアクセスしてきても、
「これ誰?」って、私も判らないよ………。
そんで、朝からずーっと待っていて、
イライラしている父に、
私もイラッときて、
「だから~、いつくるか判らないものをそうやって
ずっと待ってるの?」
って、言ったら、
「PS開いてれば来るって言った」と。
「だからそれは何時の話よ」
「知るもんか」
はあああ………。
じゃあ、ずっと待ってれば、と投げた。
すると、父は、
「もういい。判らない」
とPSを閉じ、テレビをつけて、
「これ、前にやってたテレビだ。同じことばかり」
と、これも遮断。
「寝る」
「寝ろ」
ってか、ひとの話聞けよ。
こっちも疲れるわ。
孫たちがずっとついていてくれているのに、
昼も食べず、
損なひとだ。
まあ、イライラするのは判るけど。
ひとの少しは私の話も聞いてくれたらな…。
〔終ろうとしている命〕
肺炎になって入院している、御歳95歳の親戚の方が、
今まさに生死の間を漂っているのだそうだ。
快復の見込みもないし、
呼吸不全になっても、
呼吸器はつけず、
そのまま自然に逝かせてあげる、と決ってるみたいだけど。
遺伝子に組み込まれた、
このひとの命はここで終わり、という情報を無理に変えて、
延命処置をするのは苦痛を長びかせるだけの行為だと、聞いた。
ALSは、
決められた「死の病」なのかな、と悩ましい。
生きたいと望めば、色んな管をつないでも生きられる。
自然死だと受け止めるなら、
無理に生かすのは、どうなんだろう。
倫理的にも、ものすごく重い病。
ひとの気持ちは状況によって変わるものだから、
例え生きたいと願って呼吸器をつけても、
生きるのがとても辛くて、
やっぱり死んでしまいたい、と考えが変わったとき、
それに臨機応変に対応できないというのは酷だと思う。
一度「生きたい」と言ったから、
どんな苦痛に襲われようと生きなくてはならない、
なんて、他人が決めていいものだろうか。
あらゆる苦痛を取り除き、
静かに、望むままに、
逝きたいたいと願ったときに逝かせてあげる。
私は、
父にそういう生の終わり方をさせてあげたい。