今日は、歯医者さん。多少、歯が捻れているから、部分入れ歯が入るかなと、歯医者さんが言っていたけど、今日出来上がった入れ歯は問題なく入った。多少違和感はあるけど、歯が戻って良かったよ。あとは微調整するらしく、また来週。
話は変わるけども。友人の日記を拝読して思ったが、私の親世代って、中卒なんて珍しくない時代。私の両親は揃って中卒。父は自ら、中学出たら手に職をつけたいと、理容師を目指した。母は、父子家庭で、里親に育てられて、高校進学を夢見たが、父親が勝手に進路を決めた。本当に理容師が嫌で、修行先から逃げ出す計画を立てるも、阻止され、父と結婚。死ぬまで、仕事が嫌だと言っていた。自分が進学できず悔しい想いをしたのに、私が大学進学を願っても、分かってくれないのは解せない話だった。私が理容師になって、その伴侶も理容師で、店を継いでもらって、自分は引退する…というのが、母の願いだったようだ。それだけ仕事が嫌いだった。そして、私も仕事が嫌いで、家を出る選択肢を選ぶのだが、その前に、母は病気になって亡くなった。最期まで悔いが残ったことだろう。時折、母は幸せだったのかなと考えるが、絶対幸せじゃないよね、と結論に至る。父は自分勝手だし、自由がなかった母。自営業、家事、子育て、休まる暇がなかっただろうと。母親を早くに亡くしたから、母の記憶もなく、物心ついた頃から、親戚の家にいた。でも、その親戚の家では、愛されていたと思う。母の話によれば、わがままだった母を甘やかしてくれた義母がいた。戦後の食料難でも、母に美味しい玉子を食べさせてくれたという。その義母は、母の母が亡くなった時、赤ちゃんだった母を抱いた母親が、この子をお願いしますと夢枕に立ったのを見て、引き取ることを決めたという。私も何度か母が育った山形に遊びに行ったことがあるが、本当に普通に母のお母さんといった感じの人だった。愛してくれたのだと感じた。母の余命が幾ばくもないと知った時は、山形から八王子の病院に来てくれた。「こんな形で会いたくなかった。でも、最後に話がしたい」と泣いていた。母は、山形から来た義母を見て、やはり自分は死ぬんだな、と悟っていた。
あの山形の大きな家は。もう、母の義父母もいない。長男も若くして亡くなり、お嫁さんのフィリピンの女性が子供たちと暮らしている。
暑い夏に、親戚の子と走り回った草原とか、母と最後に訪れた時に見た、湧水、出羽三山、銀山温泉、山寺。生きているうちに、もう一度訪れたい場所である。そこに、母が幸せだった証が、残っていたら良いなと切に願う。